演芸と菊田劇場の設立

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昭和二年(一九二七)二月に「菊田劇場」の設立認可がおりた。劇場主は菊田兼一である。長野演芸協会の矢島武等も熱心にあと押しをしたので、間口約三〇メートル、奥行き五〇メートルの菊田劇場(のちに商工会館と改称)が、工費七万円で長野市緑町に誕生した。相生座や長野劇場をはるかにしのぐ規模であった。

 昭和初年には相生座と菊田劇場で、しばしば少女歌劇、レビュー、催し物などが公演された。昭和二年五月二十二日には、相生座で昼夜二回「航空映画大会」が開催され、「上空より見たる長野市」「アムンゼン大佐の南極探検」「東京湾攻防模擬戦」などが上映された。昼間は学生、夜は一般人で満員の盛況であった。主催者は「長谷川飛行士後援会」で、信濃毎日新聞社が後援し、当日は長谷川清登飛行士(松本出身)と後援会長が講演した。

 二年六月九日から十三日にかけて、信濃毎日新聞社の読者慰安劇が市川延女・川上市之助一座で興行され、満員の盛況であった。相生座では二年九月「日本少女歌劇」を上演したが、毎夜満員の好評であった。二年十月には菊田劇場で「模擬陪審裁判公開」が長野弁護士有志の主催で開催された。全六場の社会劇「裁かれる日」の上演ののち、模擬裁判がおこなわれた。

 相生座は二年十月に市川牡丹一座と、中村家橘一座の芝居を上演し、十二月五日にはパブロバ舞踏団公演と「シビラの踊子」を上映した。同十二月八日から四日間は歳末救済のため、上水内郡仏教会主催で全八場の「釈迦尊劇」が公演された。


写真83 『演芸と映画』という月刊雑誌も出版されるようになった

 二年十月の市内の映画館ではつぎのような無声映画を上映していた。

  長野演芸館 二十日より「天王寺の腹切」全一二巻、大活劇「天空大王」全六巻、現代劇「楽天家の孤児」全八巻、現代喜劇「髑髏(どくろ)の踊」四巻

  長野活動館 十八日より白井喬二原作板東太郎主演「富士に立つ影」全一二巻、「俵星玄蕃」全九巻、「現代の女性」全四巻、時代劇「相模屋政五郎」全六巻

  菊田劇場  十九日日替り 映画第一現代劇「恋の渦巻」六巻、大活劇「A38号」全五巻、「砂絵呪縛」全九巻

 昭和三年八月の市内の演芸はつぎのようであった。

  相生座   若駒家乙千代若駒屋若千代市川小延若一座 初日外題「尾花ケ原白狐由来」全通しほかに余興

  長野劇場  高級女流漫才大会

  長野活動館 二十一日より帝キネ作品「情魂」全七巻、「忠僕直助」後編六巻、「恋の花」六巻、東亜キネマ軍事美談「勇ましき兄」全六巻ほか

  長野演芸館 十五日日替わり 日本劇大会林長治郎「安政異聞闇火」全一〇巻 阪妻プロ市川松之助森静子共演「燕小僧黒田洗輔」全八巻 蒲田映画特作井上正夫栗島すみ子「天国の人」全一〇巻ほか

 このように、無声映画ではあったが著名なスターが出現した。人気女優栗島すみ子の夫映画監督池田義信は長野市三輪の出身であった。

 『信毎』は映画の情報も掲載している。昭和二年の十月には、日本に来たロシア映画を論じた「ロシア映画の話」を連載した。「風」という映画を「戦艦ポチョムキン」や「母」など当時の著名なロシア映画と比較考証している。かなり専門的な評論である。マニア的な映画愛好者が多かったのである。

 いっぽう、映画の児童にあたえる影響が論じられるようになった。このころ『信毎』は、記者中野夢影の「長野の小学生は一年に十七度観る-今少し家庭の自覚がほしい」を掲載したり、ほかに「剣劇いまだ生命あり四分は子供のお客」、あるいは「社会課の調査に長野市吃驚(びっくり)-再び禁止のおふれ」などの見出しで、激しく問題提起をしている。

 これらの問題提示に応じて、長野子供会連盟が主唱して、こどもを映画の悪影響から守るため、毎週日曜日に各映画館が交互にこども映画を上映してほしいと、昭和二年十月二十六日に市内教育関係者等を集めて協議会を開いた。興行主が問題にしなかったことと、長野市内の小学校長らがこどもには映画を見せたくないという意見を主張し、協議はまとまらなかった。映画は作品に成人向きのものがあり、加えて映画館内の風紀が教育上問題であった。昭和三年三月にいたって長野子供会連盟は、こどもの映画観覧の規制とこども向き映画選定の活動を再開した。同連盟は三月十一日、研究的試みとして児童映画「二つの珠」上映会を長野演芸館で朝九時から開催した。当日は児童のみの入館とし、入場料は一人五銭とした。大人とこどもが一緒に映画を見ることに風紀上の問題があったのでそれを回避したのである。


写真84 戦時中の相生座での漫才演芸ショウ「軍国の母」や曲技の宣伝ちらし

 昭和三年三月十二日に、篠ノ井町に一三〇〇人収容の大劇場「篠ノ井劇場」が認可になった。開場式は三年十月三日から五日間おこなわれた。出し物は尾上菊右衛門等七〇人の一行で、寿三番叟、信州川中島輝虎配膳一幕等であった。四年二月二十八日には全信州小唄披露会が篠ノ井劇場でおこなわれた。この民謡の夕べは小諸、丸子、豊科、篠ノ井と巡演された出し物であった。五年九月に長野県東筑摩郡明科町の松竹興行部員が信濃毎日新聞社の了承をえて篠ノ井劇場で松竹映画「進軍」を上映したところ、全県下の上映権が当方にあると菊田劇場主が、映画上映中に壮士を引きつれ殴りこみをかけるという事件がおこった。

 篠ノ井劇場は昭和六年三月に町営化をめぐって紛争がおこった。篠ノ井劇場は栄村が昭和四年四月に篠ノ井町に合併するとき町営移管を決議し、これを合併の条件にしていたが、その趣旨が一般町民に伝わっていなかったためである。町営化反対の町民大会委員が組織され、この委員四〇人が六年三月六日に町役場に押しかけた。一時は円満解決かと思われたが、六年七月二十日に篠ノ井町民百余人が長野県庁に押しかけ、町会議員宮入市之助を代表に町会の町営化決議取りけしを長野県知事に迫ったが、県は町会の決議はくつがえせないと回答した。

 昭和五年の暮れには、劇場以外のところでおこなわれる諸団体主催の「非営業興行」に打撃を受けた映画館は、連名して長野警察署を訪れ、劇場以外での興行禁止の要望書を提出した。映画は当時最大の娯楽であったので、各地各団体は競って映画の上映をおこなった。昭和六年六月には長野市内の映画ファンの調査がおこなわれた。この調査によれば敏感なファンは一階におり、二階席にはサラリーマン、商売人、芸者などがいたと、報告されている。

 昭和七年八月には森永製菓が菊田劇場で映画とジャズの会を開いた。森永の菓子を買った人に特別招待券(四〇銭のところ一五銭に割り引き)を出した。商品販売の促進策に映画が利用された。当日上映の映画は大河内伝次郎主演の「明治維新」全二〇巻であった。

 昭和八年十月には、信濃毎日新聞社主催、松本連隊区司令部、歩兵松本五十連隊留守隊後援の「非常時軍事映画大会」が県下一円で開催された。長野市では相生座が会場で、上映されたフィルムはドイツ海軍省後援の「怪艦エムデン」、日本陸軍省特作「三月十日」、関東軍参謀部原作「叫ぶアジア」である。これらはすべてトーキー映画で、これまた画期的であった。長野市でこの映画は三回上映された。満州国成立、国際連盟脱退と戦争の足音は演芸娯楽にも影を落としてきた。

 不況にもかかわらず、昭和八年の映画人口は、前年比二万人増であった。しかし、信州最古の長野劇場は昭和八年六月に経営不振におちいり、翌九年四月には取りこわされた。最初は善光寺の境内にあって常磐井座と称し、のちに善光寺の東に移って御幸座と改名し、さらに長野劇場と名称を変えながらつづいてきた劇場であったが、小屋がけ興行は相生座と菊田劇場が中心となり、無声映画が全発声(トーキー)に移行する時期にさしかかり、さらに長野電鉄の権堂への乗りいれ以来、長野市の繁華街は善光寺界隈(かいわい)から権堂方面に移動した。城山公園に立地する長野劇場は不利な立場に立ったのである。

 トーキー映画時代になって、菊田劇場は昭和十年五月に「モンブランの王者」、十二年四月には「新しき土」(ドイツ版)を上映している。入場料は一般六〇銭、学生三〇銭であった。