球場・プールの設置と各種スポーツ

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大正十四年(一九二五)二月七日羽田重一郎ら八人が長野市体育協会の創立準備委員となり、運動場の設置に尽力した。同年六月それまで野球を中心に使われていた城山記念公園北側の敷地約六〇〇〇坪を二万一八五〇円で買収し、前早稲田大学野球部石井選手の設計により十月十五日に起工、工費二万七四〇〇円を投じて翌十五年七月十日完成した。同年九月丸山弁三郎市長ほか二八人が社団法人長野市体育協会の設立者として、文部大臣に設立許可申請をし認可をえた。これにより、この球場は市体育協会所有の野球場としてスタートした。昭和二年(一九二七)四月二十九日、ロイヤル・ジャイアンツ軍が長野にきたとき、長野市体育協会は、全信州選抜チームを募集して新球場で対戦したが、〇対八でやぶれた。これは長野市の野球界に大きな刺激をあたえたできごとの一つであった。同四年には、長野市の都市計画事業が実施されるなか、御大典記念事業として長野市が約六万円(市営水泳場敷地をふくめて)で城山野球場を買収し、引きつづき体育協会に経営管理を委託して、野球場は長野市営球場と名称をかえた。


写真85 市営球場での試合
(『長野市勢要覧』より)

 中等学校の野球はすでに戦前の絶頂期を迎え、昭和二年の第一三回全国中等学校野球大会から始まったラジオの中継放送も、野球ブームに拍車をかけていた。長野師範・長野中学・長野商業の市内三校リーグも盛んで、大正末から昭和にかけては、長野商業が一歩リードしていた。大正十二年から野球連盟主催となった県下中等学校野球大会では、昭和二年の第五回大会に一三チームが参加し、長野中学が諏訪蚕糸をやぶって優勝している。同年八月六日には城山野球場で全国中等選抜野球大会がおこなわれ、全国の強豪八チームが参加したが、長野代表の長野商業は一回戦で新潟商業にやぶれた。

 昭和六年、全国中等学校野球大会予選の甲信越大会が、信越大会にかわる。この年から、大正十二年以来、県下中等学校野球連盟主催の大会以外には出場できなかった県立の中等学校は、信越大会をはじめ自由にどの大会にも参加できることになった。これは、県学務課が連盟への補助打ちきりを表明し、学校長会議において連盟解体の決議がなされ、以後大会は県体育会主催となったからである。これまで連盟外にあった松本商業や諏訪蚕糸・長野商業は、すでに甲信越大会に出場していたが、県大会にも出場できるようになった。昭和六年八月の信越大会では、長野商業が松本商業をやぶり、六年ぶりの甲子園大会に出場した。以後昭和十六年までは、長野商業と松本商業の争覇時代(表29)が訪れることになる。


表29 長野商業・松本商業の争覇時代(昭和6~16年)

 青年野球では、県下連合青年野球大会が、昭和にはいり全信州青年野球大会に引きつがれた。昭和三年八月二十三日におこなわれた第八回大会では、申しこみ二三チーム中、一三チームが選抜され、長野市から選ばれた長野保線区・長野機関庫・みすず倶楽部のうち、長野機関庫が準優勝した。また同三年からは、全日本都市対抗野球優勝大会の甲信越予選会が長野市城山野球場でおこなわれることになった。この予選会では、翌四年・五年に長野保線区が優勝して本大会に出場している。七年・十一年には全長野、十四年には長野法規がそれぞれ出場したが、五年以外はすべて一回戦で敗退した。

 昭和七年三月十八日、運動界に大きな影響をあたえた文部省訓令がだされた。「野球ノ統制並施行ニ関スル件」(いわゆる「野球統制令」)である。これは、学校野球の選手制度・対外試合・応援等の問題にたいするいきすぎの是正措置といわれ、大要つぎのような具体的基準が示された。①県の体育団体等が統制、②全国的優勝・選抜大会(文部省公認)はそれぞれ年一回、③県大会は年一回、④対外試合は土曜日午後か休業日に限る、⑤落第したものは出場できない、⑥保護者の承認と学校医の健康証明が必要、などこまかい規定であった。また、小学校野球についても、一日一試合を原則とするなどと規制され、応援団についても、運動競技の精神に従ってさまざまな基準が設けられていた。

 小学校野球はじょじょに活気を欠いたものになり、課外活動としてはつづいたが、昭和十二年ころには組織的活動が消滅していった。中等学校では各種大会に自粛を求められた結果、技術の相対的低下を招き、水泳・籠球(バスケット)・排球(バレー)等スポーツの多様化とあいまって、「野球統制令」以後は衰退の傾向をみせた。青年野球にも影響をあたえ、全信州青年野球大会は昭和七年を最後に中止となった。

 低落の気配はあっても、野球を渇望する市民は多く、数々の野球の熱戦が繰りひろげられた長野市営球場は改築工事をすることになった。昭和七年にメインスタンドが設けられ、約八〇〇〇人を収容できる大観覧席をもった新球場として完成した。六月十二日球場開きの記念試合がおこなわれ、長野商業が松本商業をコールドゲームでやぶっている。「野球統制令」以後も、新球場で活躍したのは長野商業であった。しかし、同十年には、同じ伝統校の長野中学野球部(明治二十六年創設)が他流試合を禁止され、事実上解散した。

 昭和五年九月三日、長野市営球場とともに御大典記念事業として計画された長野市営水泳場(県下初の公認プール)が、中御所岡田地籍に完成した。用地約一五〇〇坪、総工費約三万一〇〇〇円をついやし、①長さ五〇メートル、幅一五メートルの大プール、②高さ一〇メートルと五メートルのダイビングボードに三メートル・一メートルのスプリングボードを併設した飛びこみプール、③長さ二五メートル、幅七メートルの女子用プール(九年五月新設)を備えていた。東西両がわには階段状の観覧席があり、そのほか④練習池(小学生向きの「滝プール」とよばれていた)や⑤渡渉池(幼児用)があった。


写真86 昭和5年開設の長野市営水泳場
(『長野市勢要覧』より)

 このプールの完成にいたるまでには、さまざまな問題があった。昭和三年十二月には、すでに裾花川相生橋東がわに市営プールを新設する計画が決定されていた。しかし、同四年六月の用地買収交渉は、堤防組合の拒否により不調に終わった。九月には岡田区主催の期成同盟会ができ、近隣の南石堂・南県町・妻科・北石堂などの賛成をとりつけ、粘りづよく再交渉をつづけた。その結果、十二月市会では、坪五円計七五〇〇円で買収することが決定された。

 いっぽう、プール施設費約二万五〇〇〇円の捻出では、市は行きづまりをみせたが、昭和五年五月には県の補助額七〇〇〇円の決定をみ、六月十八日無事起工している。八月にはアーク灯の下で徹夜工事を進め、ようやく九月三日プール開きがおこなわれた。用水権をもつ芹田村民の合意をとりつけるため奔走した丸山弁三郎市長の式辞にはじまり、式泳・五メートル高飛びこみ・一〇メートル逆さとび等がおこなわれ、正午から一般市民に開放された。

 水泳大会は、市営プールを中心としておこなわれるようになった。昭和五年九月二十一日、長野市水泳協会主催の第一回県下中等学校水上競技大会が開かれ、須坂中学が優勝し、長野商業、長野工業が三位、四位であった。この大会は、その後長野工業と長野中学が首位をあらそった。第一回長野市小学校対抗水上競技大会も、七年七月二十七日におこなわれ、後町小学校と接戦をした山王小学校が、市営プール横という地の利を生かし初優勝している。

 松代でもプール建設が計画された。松代城跡西がわにできた松代町プールである。昭和十二年五月二十七日に起工式がおこなわれ、工費一万余円の不足分を補うため小学生が汗の奉仕までして、八月十二日にはプール開きがおこなわれた。

 社会人や学生が競った全信州女子庭球大会は、昭和にはいっても人気が高かった。昭和三年九月二十三日の第五回大会では、埴科実科高女の渡邊・宮坂組が長野高女の鈴木・中山組をやぶって優勝した。全国大会でも活躍する女子があらわれ、五年五月の第九回極東選手権大会では、松代高女の村尾・山下組が準決勝まで進んでいる。

 全信州男子庭球大会も盛んで、昭和二年十月の第八回大会では、長野市の森・習田組が二年連続して優勝し、明治神宮競技会に出場している。八年、連合青年庭球と全信州女子庭球が統合され、全信州庭球戦の男子部(長野市庭球協会主催)・女子部(長野女子専門学校(現長野県短大)主催)に分かれて大会が実施されるようになった。


写真87 上水内郡女子庭球大会で優勝した朝陽小学校高等科女子(大正11年)(今井恒至所蔵)

 小学校の庭球競技は、昭和七年の「野球統制令」に大きな影響を受けていた。『長野県スポーツ史』によれば、大正末から、①過熱ぎみでほかの教育活動とアンバランス、②養護上の無理、③選手優先、④競技会での金銭負担等が問題になっており、競技主義が批判されるようになった。長野市教育会主催の善光寺平女子庭球大会も、昭和のはじめのころは盛んであったが、衰退の色をみせるようになり、昭和十二年ころを境として小学校の庭球は消えていった。

 陸上競技は、陸上単独の大会から、多種目の体育大会の一競技として実施されることが多くなった。昭和にはいり、上田市営運動場で開かれた北信女子中等学校競技大会(県体育会主催)では、陸上をはじめ、庭球・籠球(バスケット)・排球(バレー)・弓道の各競技がおこなわれた。昭和五年九月の第五回大会では篠ノ井高女が優勝している。同年九月、松本県営運動場で開かれた第五回県下中等学校体育大会も、陸上を中心に庭球・柔道・剣道・弓道がおこなわれ、三段跳びの長野師範小林治郎が、一二メートル九三の新記録で優勝している。

 青年団の体育大会も同様に、陸上のほか柔道・剣道・相撲などの武道がおこなわれている。昭和五年九月の市連合青年会体育大会では、陸上が一位南俣・二位上高田、柔道が西鶴賀、剣道は大門町が優勝している。また、同年の上水内連合青年団体育大会では、大豆島が総合優勝している。

 市民のスキーへの関心は、映画会や講演会で高められていった。昭和四年二月、ノルウェースキー連盟副会長のヘルセットが来長し、蔵春閣で「スキーの秘術」と題した講演をおこない、スキーで山野を歩いたり、生活に根づいたスキーの必要性を説き、ワックスの大切さや二本杖の使用法等も教えている。また、近代アルペンスキーの完成者であるシュナイダーは、五年三月菅平に招請され、相生座で講演会と映画会をおこなっている。

 現長野市域南部にもスキー場建設の気運が高まり、昭和四年十二月松代地蔵峠山麓(さんろく)にスキー場新設が計画された。翌五年から、松代スキー倶楽部主催の松代スキー大会が盛大におこなわれている。大正期にはすでに飯縄原でのスキーが始まっていたが、昭和七年十二月、シャンツェ・ヒュッテが備わった飯縄スキー場が、長野スキー協会によってつくられている。このスキー場はスキー愛好者でにぎわいをみせ、初歩講習会も開いていた。


写真88 地蔵峠スキー場(昭和11年)

 善光寺裏の千鳥ケ池は、市民のスケート場として使用され、昭和にはいって市内小学校スケート競技会がおこなわれ、スピード・フィギュア・みかん食いのアトラクション等でにぎわった。全信州スケート大会は上水内郡若槻村田子池(長野市)においておこなわれ、長野・田子池両スケート協会主催のもと、諏訪・小諸・上田等から二〇〇人以上の選手が参加して、スピードと技を競った(『長野県スポーツ史』)。