各種スポーツ大会と武道の発展

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昭和のはじめ、体育界には自由な論調がひろまっていたが、昭和六年(一九三一)の満州事変をきっかけに大きくかわっていった。学校体育では教練が重視され、国家主義による柔道・剣道必修と、全体主義的な体操熱の高まりが特色となってきた。これらは学校のみでなく、市民や青年団のスポーツ大会・運動会にも影響をあたえていくようになった。

 各校の運動会は秋におこなわれることが多く、昭和五年九月二十一日の長野市営球場での幼児大運動会は、市の健康三日間の最終日とも重なり、三五〇人余りが遊戯・輪投げ・旗取競争などを楽しんだ。翌六年からは、六月一日からの児童愛護週間にあわせ幼児大運動会がおこなわれ、六月五日旧暦の端午の節句には、後町小学校の児童が手製のこいのぼりを飾り、尚武の精神を発揚するなか、綱引き・かけくらべなどを楽しんだ。しかし、十年ころになると、国粋教育の学校とよばれた後町小学校の運動会は、遥拝・教練にはじまり、剣舞・要塞攻撃・相撲・なぎなた術など軍国色の内容にさまがわりしていく。

 長野市民運動会は、十一月三日の体育デー(明治節)にあわせて市営球場でおこなわれた。昭和六年には、柿食い・樽回し・借り物の各競走や、結婚競走などの種目があった。八年の運動会では、市内一三団体が総動員され、市役所各課対抗・市内各区対抗のマラソンやリレー等もおこなわれている。市民運動会は競技中心だけでなく、大衆運動の胎動や遊びの精神が感じられる。

 運動会等にも取りいれられていたラジオ体操は、当初、逓信省が簡易保険加入者の寿命が短いため保険金支払いに窮し、国民の健康長寿を目的に導入した運動であった。これがやがて、全体主義的な風潮のなかでは、全国にひろまった。昭和六年には、応募作品一六五八編のなかから選ばれた小川孝敏の詞をもとに、ラジオ体操の歌(踊る旭日(あさひ)の光を浴びて 屈(ま)げよ伸ばせよ我らが腕(かいな) ラジオは号(さけ)ぶ一、二、三)ができ、八月からラジオ放送された。


写真89 昭和10年篠ノ井町内堀地区遊園地でのラジオ体操 (『写真にみる長野のあゆみ』より)

 長野市ラジオ体操の会は、小学校校庭を中心とした市内およそ一〇ヵ所で、昭和六年以来夏のあいだ、朝六時から三〇分間ラジオ体操を実施している。表30のとおり、男女とも年々参会者は増加し、十年には一日目の参加者が八六八二人で、前年にくらべ二四七九人増え、とくに長野師範・山王・吉田・三輪の四会場が多くなり、婦人の参加も多かった。城山小学校では、昭和九年の運動会最終演技として、全校のラジオ体操が取りいれられている。外来の新体操であるデンマーク体操も紹介され、十年三月には愛国体操として、その実演会が長野電鉄本社で開かれている。


表30 ラジオ体操の会参加者数

 柔道発展のきっかけとなった明治二十九年(一八九六)文部省布達は、「満一六歳以上の身体強壮な男子に限り、柔道・剣道を正課外で実施してよい」という内容で、三十三年には広岡勇司が長野師範・長野中学の柔道指導をしている。三十年代後半には長野中学が、四十年代には長野師範が強かったが、四十三年や大正二年(一九一三)の県下中等学校連合運動会では、長野中学が優勝している。その間、明治四十四年には中等学校施行規則改正で、柔道と剣道が正課として位置づけられ、各校で部員が増大した。昭和にはいっても、県下中等学校体育大会で柔道・剣道・弓道が実施され、武道が盛んであった。

 城山記念公園にあった大日本武徳会長野県支部の演武場を、長門町県立図書館の東隣に移転することになり、昭和三年起工、純日本式木造平屋建ての武徳殿が翌四年九月八日落成した。総工費約三万五〇〇〇円を費やし、市からは五〇〇〇円の寄付をえている。落成式には、柔道・剣道・弓道の選手約一〇〇〇人が集まり、模範試合をおこなった。


写真90 昭和4年に完成した武徳殿
(『長野市勢要覧』より)

 昭和五年九月の市連合青年会体育大会では、西鶴賀町が柔道団体で優勝している。同年十月におこなわれた第一回全日本柔道選手権大会県第三区予選会と翌六年の第二回大会では、成年後期の部で新井銀右衛門五段が連続優勝している。新井は大正十四年、緑町に市内最初の個人道場修道館を開いた。社会人・学生などが熱心に稽古(けいこ)に通い、数多くの柔道家を輩出している。なお、戦前に設立された個人道場には、このほかに大正十五年西鶴賀町に大塚道場(大塚富之輔)、昭和十五年篠ノ井上石川に中村道場(中村鎮)があった。

 昭和六年中等学校で武道が必修となり、柔道・剣道・弓道のなかから選択しなければならなくなった。ますます武道が重視され、士気を高めるのに利用された。七年から十一年にかけ、県下中等学校武道大会や近県中等学校大会では、長野中学が全制覇しており、全国大会でも活躍し、九年には全国中等学校柔道争覇戦で全国優勝をとげた。長野商業も九年の近県柔道大会で優勝している。十一年の郡市対抗青年武道大会柔道の部で長野市は、小県郡との決勝で勝負がつかず、最後は抽選負けを喫している。

 剣道範士の柴田克巳は、明治三十年代には、後町小学校隣に修武館という道場を開いていたが、しきりに剣道を正課にするよう請願している。柴田は、三十四年長野師範剣道部で剣道指導をおこなうようになり、長野中学の師範も兼ねていた。長野中学は四十二年・四十五年の青年演武大会では、全国大会で通用するレベルを示している。四十四年剣道は正課になり、大正五年には、長野師範が全国中等学校剣道大会で優勝した。

 昭和にはいり、長野中学は三年の京都武徳会主催大会で健闘し、五年の近県中等学校大会では初優勝して、以後剣道でも長野中学が活躍した。青年団の剣道も盛んで、五年の長野市連合青年会体育大会では、大門町が優勝した。六年の中等学校武道選択必修により、小学校でも、木刀による型剣道から竹刀稽古にかわった。とくに後町小学校は武道を積極的に取りいれ、五年には上級男子に教練・剣道・相撲・体操を、九年には上級女子になぎなた・体操を実施している。昭和九年・十年の中等学校剣道大会や武道大会では、長野工業が圧倒的な力を発揮しており、十二年六月の第八回全日本中等学校剣道大会予選では、長野中学が優勝して大阪の全国大会へ出場した。

 明治十年ころ、善光寺東の幸(みゆき)橋近くにあった矢場は、その後、善光寺境内の長野弓道会道場に移った。明治四十四年柔道・剣道・弓道が正課に取りあげられ、明治末から昭和七年まで、小笠原流の窪田藤信が長野弓道会を指導し、弓道はより盛んになっていった。昭和初期には、善光寺東公園内、徳永町の個人道場、旭町武徳殿、国鉄工場内、長野師範・長野中学・長野商業の各学校の計七ヵ所に弓道場があった。

 昭和にはいって開かれた県下中等学校体育大会や北信女子中等学校体育大会では、弓道競技がおこなわれている。女子の大会では、弓道はあっても柔道・剣道はなく、武道のなかで弓道は男女ともに楽しめるものであった。昭和四年の武徳殿落成式では、矢場も併設されていたため、矢渡りの式、教士の射礼、一般射士の行射がおこなわれている。

 弓道家林亮天は、昭和五年から終戦まで、長野師範・長野高女・国鉄・県庁等で弓道指導をしていた。その影響もあって、六年から八年の信越大会では長野弓道会が優勝している。その後、八年の第七回明治神宮体育大会では、長野商業が準優勝したり、十一年の第一一回県下中等学校武道大会では、長野中学が優勝した。長野中学で弓道指導の中心となったのは、大正以来活躍した山崎・暮沼・徳竹の各師範である。

 武徳殿に併設されていた弓道場が狭く、婦女子の弓道が盛んになったこともあり、昭和十一年上伊那の貴族院議員武井覚太郎の寄付により、裾花河畔岡田の市民プール北がわに新弓道場を造ることになった。同年六月起工、敷地約一四〇四坪、総工費約二万七〇〇〇円の日本有数といわれた純日本式平屋建て弓道場が十一月に完成し、二十二日落成式をおこなった。十一年十一月二十三日の第一二回郡市対抗青年武道大会では、長野市が弓道の部で優勝している(『長野県スポーツ史』)。


写真91 昭和11年、裾花河畔上岡田に新築された弓道場
(『長野市勢要覧』より)