政党政治の行きづまりと市町村会議員選挙

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昭和九年(一九三四)七月発足した岡田啓介内閣は、政党政治のもとでの選挙の腐敗や汚職を押さえるために、公職選挙の選挙粛正運動をすすめた。十年五月に選挙粛正委員会令が公布されると、長野県は六月に市町村選挙粛正委員会設置規程をさだめ、市町村選挙粛正委員会や部落選挙粛正委員会の設置を促進するよう通知した。委員会は、衆議院議員選挙などの公職選挙について、選挙違反の防止、公正な選挙観念の普及などを目的とし、委員は政治家、実業家、教化団体の幹部など民間からと、警察官、学校長などの官公吏からとで構成し、知事に内申することになっていた。

 昭和十年七月、長野市の選挙粛正委員会は三六人の委員が決定し、二十九日に打ち合わせ会を開いた。藤井伊右衛門市長からの選挙粛正に関する有効適切な具体案の諮問にたいして、区ごとに選挙粛正会を設置すること、区選挙粛正会は、神社協会長野支部、氏子総代と連絡をとって選挙粛正祈願祭をおこなうこと、講演会・懇談会を開催することなどを答申した。十年十二月の市町村長協議会で、県は九月に実施された県会議員選挙において、選挙粛正運動を実施した結果、選挙運動費の減少や悪質な選挙違反がへったことを報告した。十一年二月に衆議院議員選挙が予定されていることから、注意事項では、市町村や地区の自主的・自発的な運動とすることを求めた。上水内郡大豆島村の大豆島区では、各種選挙の議員選出について協議する組織である共和会が、十一年三月の総会で選挙粛正運動の趣旨にもとづいた十一年度の方針をきめている。方針は、長野警察署長と懇談して、共和会の候補者推薦にあたって選挙違反をださないように研究する、候補者推薦の会合では、困窮した農村の現状を考え従来の酒食をやめ、経費の節減をはかる、というものであった。

 衆議院議員選挙が一ヵ月後にせまった昭和十一年一月、『信毎』は、長野市内の料理店の「粛正選挙のためまるで火の消えたようです」「ここまで徹底的にやられたら、商売は上がったりです」とか、農民の「内閣がどうの政友会だ民政党だと云(い)ったってはじまりませんや」「粛正選挙も結構でしょう。気に入らなかったら棄権するまでですよ」などの声を紹介している。選挙粛正運動のもとで、二月二十日に実施された選挙では、一区で民政党の松本忠雄、田中邦治、政友会の田中弥助、二区では民政党の小山邦太郎、政友会の春日俊文、農村更生連盟の小山亮が当選した。県全体では、民政党七議席、政友会三議席と勢力が逆転したほか、国家主義団体の信州郷軍同志会の候補者や農村更生連盟からの候補者が当選し、民政党・政友会の二大政党体制に変化が起こりはじめた。


写真1 昭和11年2月、県立図書館で演説する衆議院議員に立候補した民政党の松本忠雄
(『写真にみる長野のあゆみ』より)

 総選挙直後の昭和十一年二月二十六日、皇道派青年将校に率いられた部隊が内大臣・大蔵大臣らを殺害して、国家改造を要求した二・二六事件がおこった。岡田啓介内閣は総辞職して三月に広田弘毅内閣が発足した。しかし、政党出身の閣僚と陸軍大臣・軍部の対立が激しくなり、十二年一月広田内閣も総辞職した。二月に陸軍大将の林銑十郎内閣が成立した。林内閣には、政友会・民政党からの入閣がなく、法案審議も滞ったため、政党の反省をうながすとの理由で、三月三十一日に衆議院を解散した。四月三十日におこなわれた選挙では、一区で民政党は前回同様に松本・田中の二人が当選し、政友会は長野市長をつとめた丸山弁三郎が当選した。二区では、小山邦太郎・小山亮が再選で、政友会の羽田武嗣郎が当選した。一区では当初無投票が予想されたが、社会大衆党から渡辺万作が立候補し、六八〇〇票余を獲得する善戦を展開した。全県では、民政党・政友会のほかに、国家主義団体の信州郷軍同志会や立憲養正会、無産政党の社会大衆党が議席を獲得するなどして、県民のこれまでの政党支持に変動がみられた。

 昭和十年九月、折からの選挙粛正運動中に県会議員選挙が実施された。現長野市域の政党別議席数は、前回六年の民政党六、政友会四から、民政党四、政友会三、中立三となった。上水内郡では落選したが立憲養正会からの立候補もあり、全県的には農村更生連盟、愛国勤労党、社会大衆党などが議席を獲得して、二大政党体制に変化がみられた。中国大陸での戦争が長期化するとともに、国民精神総動員運動が国民生活の統制を強めてくるなかで、十四年九月におこなわれた県会議員選挙は、戦前の最後となった。現長野市域では民政党四、政友会四、中立二で、政友会が議席数をふやした。県下では、農村更生連盟、信州郷軍同志会、日本農民協会などが革新連盟を結成し、中立系と合わせて一一人の当選者をだし、民政党・政友会中心の県会の勢力地図を大きく塗りかえた。なお、過去二回の選挙で議席を獲得してきた社会大衆党は候補者全員が落選し、議席をうしなった。

 昭和十二年三月から四月にかけて、市町村会議員選挙が集中して実施されることから、県では一月に該当の市町村長・担当吏員・小学校長を集めて、選挙粛正協議会を開催した。会では、各種団体と積極的に連絡を取りあい、住民の理解をうながして、総動員のもとに選挙粛正運動をおこなうよう指示した。また、県から送付した選挙粛正のポスターを各戸に配布すること、選挙粛正の標語などを書いた門札を全戸にもれなく貼らせること、小学校児童を通じて選挙粛正を周知徹底させること、などを実行事項としてしめした。十二年に上高井郡須坂警察署と同郡町村長会は、町村会議員選挙の立候補者と選挙運動員にたいして、①候補者選考の推薦協議会はできるだけ少人数ですばやく選考すること、②議員候補者および推薦者となった場合は、ただちに巡査駐在所へ申しでること、③選挙事務所は議員候補者一人につき一ヵ所とすること、④選挙運動員は候補者一人につき五人とすること、などの実行をもとめていた。選挙粛正運動を契機にして、選挙運動の細部にまで警察の干渉がおよぶようになっていった。

 長野市会議員選挙は、昭和十一年六月におこなわれ、党派別の議席数は政友会一二、民政党一二、中立九、壮年団三であった。つづいて十五年六月におこなわれた選挙では、政友会・民政党の二政党の獲得議席数に大きな変化がおこった。両党は合わせて二〇議席にとどまり、中立・その他は一六議席をしめた。さらに立候補した前議員二九人中の約半数にあたる一四人が落選するいっぽう、新人一九人、元議員二人が当選し、かつてない議員交代となり、政友会・民政党による市会運営に影響をあたえることになった。すでに三月に衆議院の各派議員が集まって結成されていた聖戦貫徹議員連盟は、六月に各党党首にたいして解党を申しいれた。このような政党解散の動きが、市会議員選挙における長野市民の政党離れの背景にあったことがうかがえる。