政党と政治諸団体の動向

666 ~ 667

昭和十年(一九三五)県知事の『事務引継書』は、県内の国家主義団体の運動概況について大要つぎのように報告していた。国家主義運動は、昭和六年の満州事変をきっかけにして急速にひろがり、七年から九年にかけて国家主義団体がさかんに結成された。七年七月に在郷軍人の有志が信州郷軍同志会(同志会)を創設し、十年には会員が約一〇〇〇人にたっした。幹部には下伊那郡選出の県会議員であった中原勤司らが就任した。困難な時局にさいし、在郷軍人が国民の中核としてどう対処するか研究し、「尽忠報国」の「赤誠」を発揮することを会の目的にかかげた。同志会は、軍部の応援をうけて活動を活発化させ、繭価の下落などで長びく不況に苦しむ農家の経済状況を調査したりして、打開策として国内経済機構の変革をうったえた。

 昭和十二年の同志会の組織をみると、松本市に統制本部を、県下四地区に支部をおくことになっていた。長野市・上水内郡・上高井郡は北信支部に、更級郡・埴科郡は東信支部に属した。会の事業は町村単位におこなうものとし、そのもとに班・組を置いて活動するようになっていた。同志会の当面する任務には、日本はこれまでに経験したことのない非常重大事に直面しているので、「大和民族ノ歴史的使命ヲ果シ得ル渾身ノ勇気ト努力トヲ振起」することなどを掲げていた(『県史近代』⑦)。

 国家主義団体には、同志会のほかに信州改革連盟(昭和九年二月結成)、立憲養正会、信州皇民同盟(八年四月結成)などがあった。七年の犬養毅首相暗殺の五・一五事件や国際連盟の満州国不承認問題などをきっかけに、排外主義の主張、政党腐敗への批判、経済機構の改造を求める動きなどを強めた。また、八年八月、信濃毎日新聞社の主筆桐生悠々が同紙社説「関東防空大演習を嗤(わら)ふ」で軍部を批判すると、国家主義諸団体は信濃毎日新聞社にたいしはげしく攻撃した。九月、同社は桐生悠々の退社、関係者の謹慎処分の措置をとり、自由な言論はしだいに押さえつけられていった。

 無産政党運動では、昭和七年、全国労農大衆党と社会民衆党がいっしょになって、社会大衆党を設立した。翌八年八月、社会大衆党長野県連合会の結成大会が上伊那郡伊那町(伊那市)で開かれた。執行委員長には、野溝勝(上伊那郡選出の県会議員)、書記長には林虎雄を選んだ。県下に七支部をおき、党員は約一五〇〇人であった。綱領には、「労働者、農民、一般勤労大衆の生活擁護の為めに戦ふ」など五項目を掲げた(『県史近代』⑦)。県連合会は、九年に安い繭価のために困窮した農家経済を立てなおすために、農村不況対策運動に取りくんだ。県当局に対応策の樹立を要望するとともに、党本部の指示により、臨時議会招集の請願書署名運動もおこなった。また、農民大会の開催を計画したが、治安上の理由から県当局に阻止された。

 しかし、昭和九年十月の県連合会の大会で発表された十年度の運動方針では、軍部発行の『国防国策案』のパンフレットの支持を明らかにした。また、十一月には国家主義団体の信州改革連盟が経済機構の「改造断行上奏請願運動」を計画すると、社会大衆党員の運動への個人参加を認めるなど、しだいに右傾化していった。十二年七月、日中戦争がはじまり、近衛文麿首相が各方面の代表者を首相官邸に集めて、「挙国一致」への支援を求めたさい、安部磯雄委員長が「挙国一致は必然である、我党もまた挙国一致に参加する」とのあいさつをした。党中央執行委員会はこれを了承するとともに、全党員へ慎重な言動をとるよう要望した。これをうけた県連合会は各支部にたいして、本部と密接な連絡をとって党の態度を指令するので、各支部は統一して行動するよう求めた。社会大衆党県連合会は、日中戦争の開始とともに、政府の「挙国一致」による戦争体制にしだいに巻きこまれていった。