政党の解散と大政翼賛会の発足

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日中戦争、国民精神総動員運動が展開する昭和十五年(一九四〇)三月九日、衆議院で聖戦貫徹決議案が可決された。同年三月二十五日に各派議員百余人が聖戦貫徹議員連盟を結成し、六月十一日に各党首に解党を進言した。六月二十四日には近衛文麿が枢密院議長を辞任し、新体制運動推進の決意を表明すると、この運動のかけ声のもとで政党解体がいっきにすすみ、七月六日社会大衆党、十六日政友会久原派、三十日に政友会中島派と立憲政友会、八月十五日には民政党が解党した。

 長野県内でも新政治体制確立や新生国民組織運動が活発化した。上小、諏訪、上・下伊那では新体制への動きがはやく、長野市域を中心とする第一区でも長野市の弁護士小島一(近衛の学友)や郷軍分会長河原信三、同副会長藤井伊右衛門、小坂武雄(信濃毎日新聞常務のち社長)らが新体制運動の中心的な存在として活動した。こうした動きのなかで県内既成政党の解党の動きが表面化し、社会大衆党長野県支部が県下のトップをきって、十五年七月六日に本部と上諏訪町(諏訪市)で解党を決定した。いっぽう、同月十五日に長野市の藤屋旅館で常議員会(長野市からは県会議員池田宇右衛門・前県会議員横田九一郎が出席)を開いた政友会長野県支部は、日中戦争処理のために新政治体制の必要性は認めるものの、すぐに解党することは軽挙だと結論づけた。また、政友会久原派の解党後においても県支部は独立した政治結社であり、県の実情に即応する体制をとるため、新政治体制の実態をみきわめてから支部解散を決行するとの方針をきめた。

 しかし、昭和十五年七月二十二日に第二次近衛内閣が成立、また、同じ日に郷軍同志会北信支部が新体制結成促進を決議し、七月二十八日には東亜建設国民連盟長野県支部(顧問に藤井伊右衛門ら就任)が結成された。さらに長野市では「時局対処は街の新体制から」と国民精神総動員長野市本部が区長会を通じて街組織の現状を調査し、八月十七日には市役所で幹事会を開いて、街組織の具体案を審議し、遅くとも九月十八日までには従来の防火群伍長やその他の団体を解消し、隣組に編成がえすることをきめた。


写真2 国民精神総動員の県の実施要項と寺尾村長名の委員委嘱状

 このような動きにも促されて、政友会および民政党長野県支部もいっきに解党への過程をたどった。政友会長野県支部は臨時県会前の八月二十七日に県支部で常議員会を開き、旧衣を脱し国民に率先して挙国一致体制を整備するとして党の解党をきめ、今後は時局研究会(世話人丸山弁三郎・植原悦治郎・羽田武嗣郎・北村甚兵衛・田中弥助)の名目のもとに時局変転に対処することにした。いっぽう、民政党長野県支部は本部の決定に従うことを発表、上水内民政倶楽部は八月十五日に長野市犀曲会館に会合をもって解党を決定した。民政党北信・南信両支部も八月二十七日に長野市の大和喜旅館に会合を開いた。参集した貴族院議員小坂順造をはじめ、小山邦太郎代議士、党所属県会議員、各郡市代表四〇人らは、「時局の推移に鑑(かんが)み国家総力の新体制を確立し、国家非常の秋(とき)に際し、君国の大事に邁進する」と決議・宣言して解散した。これによって、県内においても政党による議会政治は姿を消すことになった。

 政党がつぎつぎと解党するなか、長野市では新体制の動きが一段と具体化した。興亜奉公日一周年の九月一日、長野市常会が城山館で初の協議会を開催したのをはじめ、市内には町常会がぞくぞくと誕生し、九月三日には長野市初の隣組の発会式が権堂町でおこなわれた。また、九月六日には元市議の荻原俊雄・宮澤増三郎が提唱した長野市新体制協議会が長野商工会議所で開かれた。会には荻原と宮澤のほかに、商工会議所会頭神津藤平、区長会長山田省三、連合会長河原信三、市会議長笠原十兵衛、同副議長宮本操、実連会長赤沼庄松、市農会長池田宇右衛門、女学校長樋口長南、国防婦人会支部長小田切もと、愛国婦人会市副支部長降旗富江らが出席し、隣組・町常会を中心に三時間余協議した結果、隣組・町常会との協力を考えた長野市新体制相応研究会を組織することにした。研究会は国民精神総動員長野市本部の理事長山田省三が中心になって、具体的な進路を協議していくことになった。

 いっぽう、政府は国民精神総動員運動をさらに組織的・官制的な国民運動としておしすすめるため、「天皇の大政をたすける」という意味合いの大政翼賛会を組織することにし、昭和十五年十月十二日に発会式をおこなった。総裁には近衛文麿首相が就任し、中央本部事務局・中央協力会議のもとに、各自治体でも支部および協力会議が設置されることになった。十月十三日、大政翼賛運動の発足と日・独・伊三国条約成立にあたって、国民精神の昂揚を目的にした大政翼賛三国結盟大会が全国で開かれるが、長野県では長野市城山小学校校庭を会場に県民大会が開催された。この大会には貴衆両院議員をはじめ、国民精神総動員県本部理事、県単位各種団体長など二〇〇〇人余が参加、長野市からは市国民精神総動員役員・方面委員・隣組長・各種団体長・中小学校代表者・市吏員などが出席した。塩崎村でも小学校を会場に大政翼賛会・三国同盟締結村民大会を開いており、こうした大会によって新体制が抵抗なく受けいれられていった。

 大政翼賛会長野県支部(支部長=県知事鈴木登)の発会式は、昭和十五年十二月二十一日、大政翼賛会本部から常任総務の古野伊之助を迎えて長野市の県立図書館でおこなわれた。出席者は八〇〇人余であった。県支部の常務委員には一〇人が任命された。長野市からは藤井伊右衛門と小坂武雄の二人が就任した。とくに藤井は長野市長、長野県方面事業委員会委員、国民精神総動員長野県本部参与などを歴任し、大政翼賛会県支部では庶務部長をつとめることになった。県支部結成によって、国民精神総動員会は十二月二十一日をもって発展的に解散となるが、長野市では十二月一日の第四回市常会で、山田区長会長の発議で市長高野忠衛が大政翼賛会長野市支部長に推挙された。ついで十二月二十四日には翼賛壮年団結成準備委員会がもたれて団則などを決定し、翌十六年一月二十日にまず翼賛壮年団が結成され、一ヵ月後の二月二十一日に大政翼賛会長野支部が発足した。市支部はそれぞれの職域で協力奉公の忠誠を捧げしむるための強力な推進力をつくることを目的にし、実践要項に、①臣道実践に挺身、②大東亜共栄圏建設に協力、③翼賛政治体制の建設に協力、④翼賛経済体制の建設に協力、⑤文化新体制の建設に協力、⑥生活新体制の建設に協力、の六つをあげた。十六年の事業としては、役員会(毎月下旬に常任委員会と常務委員会を開き、翌月の常会提案事項と本会・常会の重要事項を協議)、区常会との連絡指導、講習会・講演会の開催(部落町内振興中堅幹部講習会、隣組婦人講習会、産物利用講習会、時局大講演会)、新穀感謝の実施、婦人推進員の編制をおこなっている。


写真3 大政翼賛会本部にかかげられた看板
(『長野県おもしろ世相史』(上)より)

 他郡市町村支部(支部長=市町村長)も十六年春までには組織・整備された。更級郡支部の場合、十七年三月の事例であるが、人的構成は支部長、顧問五人、参与三人、常務委員一〇人からなり、協力会は議長一人、会議員四二人であった。顧問には中等学校長・郡教育会長、産業組合郡会長、郡農会長、参与には県出先機関の警察署長・蚕糸取締所長・土木部出張所長が就任し、常務委員は郡壮年団長・商工代表・郡連合分会長・村長・村壮年団長らが選任されている。会議員には郡神社協会長・郡医師会長・銀行支店長のほか、常務委員以外の町村長や町村壮年団長、さらに助役・町村議員・警防団長・方面委員・部落会長・在郷軍人会長・産業組合長などから選ばれ、あらゆる団体が網羅されていた(表1)。


表1 大政翼賛会更級郡支部名簿(昭和17年3月現在)

 大政翼賛会は臣道実践・下情上通・上意下達の行政補助機関であったが、日中戦争から太平洋戦争への拡大によって大政翼賛運動の実践部隊である翼賛壮年団、さらには常会、隣組を通して、しだいに上意下達の戦争完遂の推進機関となり、国民を戦争遂行にかりたてていった(表2)。


表2 昭和17年度大政翼賛会長野市支部事業概況