翼賛選挙の実施

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衆議院議員選挙は、昭和十六年(一九四一)におこなわれるはずであった。しかし、国際情勢の緊迫から国民間の不必要な摩擦・競争を避けるとともに、挙国一致国防国家体制の整備に邁進するため、衆議院・府県会・市町村議員の任期が一ヵ年延長され、十七年四月三十日が衆議院議員の総選挙日となった。五年ぶりの選挙であったが、この間の十六年十二月八日からは米英を相手にした太平洋戦争に突入しており、この選挙では国民に戦争完遂の決意を新たにさせるとともに、翼賛政治体制実現をめざした清新・強力な議会を成立させることが期待され、翼賛選挙の名のもとに実施されることになった。このため東条英機内閣は、昭和十七年二月十八日、翼賛選挙貫徹運動基本要項を閣議決定し、さらに二月二十三日に結成された翼賛政治体制協議会は推薦候補をきめて総選挙に臨むことになり、その当選を期してさまざまな運動を展開させることになった。

 長野県下でも、翼賛選挙の実をあげる施策や運動を展開させた。十七年三月九日、大政翼賛会長野支部長・長野県知事永安百治の名をもって、関係町村支部長あてに翼賛選挙貫徹映画会開催期日の決定を通知した。これを南・北佐久、小県、埴科、更級にかかわる上映隊第四班のものでみると、その開催順路は三月十二日の南佐久郡南相木村を皮切りに、南佐久・北佐久・小県の村々をまわり、四月一日から埴科・更級へ入る予定となっている。埴科・更級のうち、現長野市域村々での開催は四月十一日清野村、十二日小島田村、十三日青木島村、十四日共和村、十五日信田村となっている。開催にあたっては、会場入り口に「翼賛選挙貫徹映画会」と明記すること、開催内容の順序は国民儀礼(宮城遥拝・祈念)、村長あるいは代表者あいさつ(五分)、壮年団派遣員または推進員の主旨徹底の講演(三〇分)、映画、閉会(万歳三唱)ときめられていた。いっぽう、映画会初日の三月十二日、大政翼賛会長野市支部では県立図書館を会場に翼賛選挙貫徹大演説会をおこなった。講師は陸軍中将田村元一と選挙粛正中央連盟評議員青木得三で、聴衆は約三五〇人ほどであった。

 こうした運動がはじまるなか、三月十日、大政翼賛会長野県支部は常務会を開き、翼賛選挙貫徹要項をきめた。また、三月十六日には県総務部長が大東亜戦争完遂翼賛選挙貫徹運動長野県実施策を市町村長あてに通達し、翼賛選挙運動は本格化した。とくに総務部長通達は政府の方針にのっとり、官民一体の挙県的一大運動を展開するため、県は長野県選挙粛正委員会と密接な関係をはかり、大政翼賛会長野県支部とは表裏一体の関係を保つとし、具体的な実践事項として、①各市町村その他団体を指導する指導督励班の設置、②本運動の実践部隊として翼賛壮年団その他関係団体を動員し、組織的活発なる運動を展開する翼賛選挙貫徹運動委員会の市町村支部ごとへの設置、このほか講演会、映画会の開催をあげた。とくに翼賛選挙貫徹運動委員会は翼賛会ならびに翼賛壮年団その他関係団体などと緊密なる連絡をはかり、翼賛選挙運動を総合的一元的に企画・指導する参謀本部というべきものであると位置づけ、委員長には支部長、副委員長には壮年団長をあて、委員は翼賛支部役員、翼賛壮年団選挙粛正委員、その他各種団体幹部のなかから支部長が任命するとした。


写真4 大政翼賛会長野県支部常務委員理事会

 大政翼賛会更級郡支部では三月二十七日に委員の委嘱をおこない、翼賛選挙貫徹運動委員会が結成された。委員長に支部長の北村甚兵衛(更級村)、副委員長に郡壮年団長北村敏夫(御厨村)が就任し、委員には二〇人が委嘱された。委員のうち長野市域の町村から委嘱されたものは、神田實(郡連分会長・川柳村)、高沢石衛(郡燃商組長・篠ノ井町)、小出一男(商工代表・中津村)、柳澤忠一(助役・更府村)、島田良夫(壮年団長・東福寺村)、佐藤栄二郎(壮年団長・中津村)、夏目孔夫(郡教育会長・篠ノ井町)、羽生田源三(県会議員・真島村)、古河太市(壮年団長・川中島村)の九人であった。いずれも大政翼賛会更級郡支部の顧問・常務委員・会議員などをつとめていた。

 結成された更級郡翼賛選挙貫徹委員会はただちにつぎのような指導目標を決定した(『自昭和十五年大政翼賛会全書類綴 力石村支部』上山田町役場文書)。

吾人ハ大東亜戦下聖業完遂ヲ期スル為、戦没英霊並皇軍将兵ノ心ヲ以テ翼賛選挙遂行ニツキ、左ノ方向デ貫徹運動ヲ展開セントス

投票目標

 一 現政府ヲ信頼シ、政府ノ期待スル候補者ノ当選ヲ期スルコト

棄権防止

 一 部落会町内会ノ自治的操作ニヨリ棄権ノ絶無ヲ期スルコト

 1 常会ノ名誉ニカケ棄権ノ絶対防止ニ務ムルコト

 2 常会ヲ中心トシテ神社参拝スルコト

粛正

 一 選挙民ノ倫理的自覚ニヨル違反防止ヲキスルコト

 1 壮年団粛正委員ノ活動ニ期待スルコト

 いっぽう、長野県の翼賛選挙推薦候補者の選出は、まず、三月二十日の翼賛政治体制協議会長野県支部会員の任命からはじまった。支部会員は支部長ほか一七人で、長野市域からは藤井伊右衛門・宮澤佐源次(信濃教育会長・県翼賛会顧問)・古谷作治(弁護士・翼賛壮年団選挙粛正委員長・県翼賛会参与)の三人が任命された。同支部会員による推薦候補者選考会は三十日に長野市県町の同支部事務所で開かれ、三十一日午前二時、各選挙区定員いっぱいの一三人を決定、ただちに上京して翼賛政治体制協議会本部の承認をえた。第一区で小坂武雄(新)・松本忠雄(翼賛議員同盟・当選五回)・藤井伊右衛門(新)、第二区では小山亮・小山邦太郎・羽田武嗣郎が推薦候補となった。推薦にたいする独善的批判は絶対に慎むことが大政翼賛会長野県支部長ならびに長野県壮年団長から通達されたばかりか、県当局からも常会司会者あてに「大東亜戦争完遂翼賛選挙貫徹運動と国民の心構え」のパンフレットが配布され、「大東亜戦争の大目的に副(そ)って真に聖業を翼賛し奉る最も適当な人材を議会に動員すること」が強調された。また、四月一日には、総務部長と大政翼賛会長野県支部庶務部長は連名で「翼賛選挙貫徹 長野県・大政翼賛会長野県支部」「大東亜築く力だこの一票・大詔に応へまつらんこの一票 長野県・大政翼賛会長野県支部」の門標を配布するので、各戸入り口両側へ四月五日選挙期日公布当日から四月三十日まで貼付させるよう市町村長あてに通達した。

 選挙戦は、第一区で藤井伊右衛門と田中弥助、第二区で羽田武嗣郎と鷲沢与四二の争いが注目された。藤井は候補を固辞したが推薦され、推薦候補中もっとも弱いといわれた。このため県警部長が特高をつかって応援、さらに選挙に負けなしといわれる県会議員池田宇右衛門が参謀について選挙運動を展開した。

 総選挙の結果は、「強力翼賛議会建設へ、信濃が送る十三戦士、自薦惨敗、推薦全候補当選、自薦候補十二人は悉く惨敗」(『信毎』)というものであった。長野県の投票率は八七・七パーセント(全国第六位)、推薦候補にたいする投票率も全有権者の六九・八パーセント(全国第三位)と高かった。長野市の選挙概要は、有権者一万四九七二人、投票者数一万三三二六人(投票率八九パーセント)、無効九二票であった。第一区では七人が立候補し、当選が危惧(きぐ)された藤井はてこ入れの効果がいかんなく発揮されて長野市内では第一位となった。また、田中は推薦候補の松本と小坂をおさえて第二位と善戦した。しかし、第一区全体でみると、松本、藤井、小坂の順で推薦候補が当選、第二区でも推薦候補が小山亮、小山邦太郎、羽田武嗣郎の順で当選した(表3)。


表3 第一区衆議院選挙結果 (昭和17年)

 市町村会議員の翼賛選挙も五月二十一日にいっせいにおこなわれた。松代町の場合、第六区での選挙では、五月八日夜八時から海津湯で臨時区常会を開き、第六区選出の有権者代表五人をきめた。選出された八田彦次郎・唐沢藤吉・長沢太一・野本忠雄・吉沢直次郎の五人は、十三日、役場で開かれた町会議員選挙選考委員選出協議会に臨み、第二地区代表者の相談で伊勢町の八田彦次郎と中町の真島某がこの地区からの選考委員となった。ここで選出された選考委員が松代町の翼賛選挙協議会役員となり、それ以外の有権者代表は翼賛選挙協議会賛助員となった。選考委員がきまると、ただちに委員会が開かれ、午後三時までかかって推薦候補者を決定した。翌十四日午前八時、翼賛選挙協議会役員一同は祝(ほうり)神社へ参拝にいき、その後終日、本六工社内の協議会事務所で候補者への推薦状の発送事務をおこなった。推薦候補に第六区からは八田恭平と小林誠太郎がきまり、十五日夜は、海津湯に八田彦次郎のほか、賛助員の唐沢・長沢・吉沢(野本は欠席)、さらに名簿を持参した区長中田久兵衛が参集し、六区町会議員候補者二人の地区割りの相談をした。投票日間近の十八日早朝、選挙協議会事務所から至急の役員招集がかかり、急遽(きゅうきょ)協議会役員会が開かれた。自由立候補者が出るとの情報による対策会議で、各地の必要な場所に選挙事務所を設けることになった。第六区伊勢町でもその必要を感じたため、賛助員が相談して適宜の場所に設置することにした。その夜、海津湯でまたまた伊勢町協議員会を開いた。翌二十一日は投票日であった。しかし、自由立候補者が三、四人いるということで、さらに町内を固めた。午後、投票がおこなわれ、即日開票の結果、第六区の推薦候補者八田恭平・小林誠太郎が当選し、八田彦次郎はその日の日記に「余ハ銓考委員トシテ其責任ヲ果シ大ニ安心セリ」と記している(「八田家日記」)。

 しかし、松代町全体としては推薦立候補者の全員当選はかなわず、町会議員定員一八人のうち、自由立候補者から大平喜間太と中村宇右衛門の二人が当選した。清野・西条・豊栄・東条・寺尾の村々ではいずれも推薦候補者が順当に当選した。こうした国・市町村の選挙によって、翼賛政治体制が太平洋戦争の遂行を至上として固められていった。