日中戦争下における長野市の財政状況は表4のようである。総扱高は昭和十二年度と十三年度が増加の傾向を示し、十三年度から十四年度へは減少、十五年度からは再び増加の傾向を示している。日中戦争がはじまると政府はただちに、戦争遂行を最優先させるため、市町村にたいして予算の緊縮、国防上・生産力拡充上緊急なものをのぞく地方債の起債の抑制を命じた。
高野市長は市の十三年度の予算編成にさいし、「事変下の特殊事情とこれに誘因、頼みとする税収財源に弾力性を望み得ない実情とにより新規計画を一切抑制し緊縮をもって望む」ことを言明した。しかし、小学校四学級増や青年学校義務制実施にともなう教員俸給等の諸経費の増額、前年の大雨による災害復興、懸案になっている飛行場建設等、山積みされている課題が多くあり、『信毎』も当初予算は「事変下の長野市予算、新規計画は抑制」としながらも「自然膨脹抗し得ず百万円突破か」と報じている。
十三年度の増加は新たに時局対処費や、防空費、移民奨励費等が盛りこまれ、時局に対応したものとなったためである。時局対処費には、「日支事変」による慰問等の軍事援護費や前の年から実施されている国民精神総動員運動に関する諸経費が計上された。前年度にくらべ、三二万円余の増額となった。市では家屋税と特別地税を設定し、さらに特別戸数割増徴で増額分を補填しようとした。この政策にたいし戸数割増徴の状況を『信毎』は「長野市としては昭和二年の二十一円六十銭に次ぎ市はじまって以来二番目の高負担である」と報道した。「事変下」のため応召家庭中軍事扶助を受けている二六二家族にたいしては、一年限りで戸数割は全免の措置がとられている。税は増額し納税義務者は減少することになったため、「一人当たりの平均負担額は前年比二円八十一銭増の十九円五十一銭となっており、所得百円に対する課税率は前年の二円一銭に対し二円二十八銭と増率」という結果となった。
十四年度は十三年度にくらべ、六五万円余の減額となっている。それは飛行場新設や、長野工業拡充寄付金事業がなくなったことや、丹波島橋架設費・柳町小学校建築費の償還が満期となったことが影響していた。
十五年度はふたたび前年よりも二六万円余の増額となっている。県立工業試験場の設立や長野工業学校専修科改変にともなう、地元負担金の増加等が主な理由であった。また事変対処費のなかでは、政府米を大量に購入するために米穀配給費が増額となっている。予算審議の市会では皇紀二千六百年記念事業として、戸隠に市内小学校児童の夏季保養所を建設することや国民学校実施にともなう教育調査会を設置することなどの要望意見が出されている。
「事変」勃発とともに、その関係諸経費の動向をみると戦争の拡大にともない、年次をおって経費が増額している。
昭和十二年に臨時召集や動員下令等をふくめた応召軍人や軍属として長野市から歓送した人員は一二四一人で、贈った餞別(せんべつ)は六二〇五円となっている。また、この年は戦傷病死者八人の市葬が二回おこなわれ、その諸経費が六六三円九七銭かかっている。この年には現役軍人や軍属の家庭一二二三家族への慰問も実施となり、菓子料が一四四六円となっている。十三年度には五三二人にたいし総額二六六〇円の餞別を贈り、戦傷病死者三二人の市葬にも一六二四円七六銭を費やした。前年にくらべ市葬の経費が約二・五倍となっている。この年から市葬にさいし、市からは一人あたり見舞金五円、香典一〇〇円が贈られるようになった。この年には現役軍人の家庭への慰問に出征軍人の家庭の慰問が加わり、のべにして三九八五家庭となっている。慰問として、救護金や菓子料に四五四四円かかっている。また、傷病軍人への見舞金三四〇円も新たに加わっている。十四年度も戦傷病死者は二九人を数え、市葬の諸経費が一四六一円二九銭となっている。市からの見舞金や香典料は合計二九九五円であった。この年からは新たに市葬の関係各区にたいして、二〇円の補助金が支給されている。七月七日の支那事変二周年記念日には、市出身の前線兵士に慰問袋や慰問状の発送をおこなった。その経費が四二一七円五〇銭であった。夏には軍人家族にたいして、中元として慰問金も贈っている。入営や出征のために生活の多大な困難をきたしている家庭にたいしては、一般慰問金のほかに特別慰問金も支給された。また、歳末には軍事扶助家族および軍事扶助法に該当しない生活困難をきたしている家族にたいしては、五段階にわけて特別慰問金を支給した。夏冬合わせると、その金額は五一八二円となっている。十五年度は戦傷病死者は四一人を数えた。市葬には一五七四円四七銭の経費がかかり、香典として四一〇〇円が使われている。また、支那事変三周年記念日には出身兵士一人にたいし、一人あたり二円五〇銭あての慰問袋と慰問状が送られた。