日中戦争への動員と国民精神総動員運動

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昭和十二年(一九三七)七月七日夜、北京西郊の盧溝橋付近で日本軍と中国両軍が衝突した。四日後の十一日には両軍のあいだで停戦協定が成立した。しかし、第一次近衛文麿内閣は陸軍の戦争拡大論を受けいれ、華北へ派兵を決定、さらに八月には上海へと陸軍派兵を決定し、「日支事変」はとどまるところを知らず拡大していった。歩兵第五〇連隊へも動員令が下り、北支へと渡った。戦争への拡大を反映して、『信毎』は「北支事変勃発以来」「事変は今や全支に拡大、戦況に対する国民的関心は一刻もゆるがせにできない情勢にあるので、その日の戦況はその日に読者の手許への報道方針をたて」八月十九日から夕刊二回発行を断行した。戦争の拡大にともない、陸海軍の動員兵力数は急増した。現役徴集兵の不足分は、充員召集と臨時召集によって充足された。これらは戦時や事変のさい在郷軍人を召集するもので、令状に紅色の用紙を使用したことから一般に「赤紙」とよばれた。


写真7 召集令状がくると親類縁者、近所の人びと総出で見送った (『長野の百年』より)

 昭和十三年三月までに県内各地から応召されたものは「約三万二、三千名、其内農村ヨリ召集セラレタルモノハ約二万六、七千名ニシテ、農村労働人員ノ五パーセント見当ニ当リ、何レモ一家ノ中心タル壮年者」(日本銀行松本支店『金融報告』)であった。また、「馬匹ノ徴発セラルルモノ凡(およそ)四千頭、県下畜力ノ一〇パーセント見当ト推測セラレ、而モ悉(ことごと)ク良馬ニテ残レルモノハ不良馬多キ状況トテ尠(すく)ナカラズ畜力不足ヲ生ジ」(同前)る状況におちいった。

 昭和十二年から十五年にいたる長野市域からの召集状況は、表5のようである。動員下令の回数は、勃発の年は一二回ともっとも多くなっている。そのかわり翌年からは、臨時召集令の回数が増大している。充員召集の人数は、十二年がもっとも多い。そのほとんどが陸軍の入隊であった。いっぽう市域の農村部からの応召状況の一端をみると、表6のようである。寺尾村の昭和十二年の召集状況は、七月七日の衝突以来十二月までに応召が三三回におよび、人数も六三人に達している。もっとも多いのは八月で、二九人が応召されている。その三分の二は旧盆以降に集中しており、連日応召されたようすがよくわかる。つぎにつづくのが十月で、八日間に二二人が応召されている。これらの応召は中国での戦線の拡大に対応しており、しだいにその数の多くなっていく傾向にあった。


表5 長野市の日中戦争召集状況 (昭和12~15年)


表6 寺尾村における応召状況 (昭和12年)

 いっぽう、壮丁に達した男子の入営も以前にも増してはなばなしく新聞で報道されるようになった。昭和十四年を例にとるとつぎのようである。

 一月、長野駅前の「感謝 皇軍奮闘 長野市」と書いた塔の前には、多くの市民が朝はやくからつめかけた。「駅には日の丸の海、歓送旗の林だ、怒濤のような愛国行進曲から軍歌と大群衆の合唱、割れるようなブラスバンドの響き」のなかを「吹雪を衝いて氏神様に心願こめた若者等は、東亜再建の大志にその熱血を沸らせて、雄々しい一歩を踏み出した。」入営する若者の頬は「冴えざえと紅潮、瞳は明るく燃えて、足取りは若々しく力強」かったという。「しっかりやってこいよ」「大丈夫だ」「何の心配するでねえぞ」と「激励と誓いがはげしく交される」「固く握られる手と手、羽交いじめする母子」などとその光景が「よくぞ!男に生れける、入営風景・長野駅の興奮」の見出しで『信毎』は報道した。「祝え、歌え、万々歳だ!仏都、旗の総攻撃」の新聞の見出しにみられるように、戦勝祝賀の行事も大々的におこなわれている。

 十二年十月二十八日、市内の小学生尋常四年生以上、長野高女と長野実科高女の全生徒約一万二〇〇〇人を駅前広場に集め、城山小学校校庭まで感謝の戦捷行列を実施した。「去る日出征勇士を送った〝敵は幾万〟、日本陸軍歌を今日は一段と朗かに高唱しながら国旗を打ちふり打ちふり行進曲を奏でて行けば、紅白の幄幕を張り軒毎に国旗を掲げた中央通りの祝勝気分は弥が上にも沸きたち、街頭を埋めつくした市民は思わず万歳を唱和して歓迎した」という。またその年の明治節の市民運動会の前には「戦闘祈願愛国大行進」がおこなわれた。中央通り昭和通り角から末広町までのあいだに市内各町から集まった約八〇〇〇人は、まず午前九時の花火を合図に明治神宮に遥拝し、少年団のラッパ鼓隊を先頭に市長、市会議員、消防組、軍人分会、愛国国防婦人会などのあとに一般市民がそれにつづいた。城山県社で戦勝祈願のあと城山グラウンドで市民運動会の競技にはいった。競技は事変下のため、三〇〇メートル徒歩競争、六〇〇メートルリレー、マラソンの三種目であった。


写真8 昭和12年11月、中国の南京占領を祝ってのちょうちん行列
(『写真にみる長野のあゆみ』より)

 日中戦争は、庶民の生活にさまざまな面で影響をあたえた。その一端を「事変」の勃発した昭和十二年でみるとつぎのようである。

 一月から五月までは三七組の申しこみという盛況をみせていた城山県社の神前結婚式もそれ以降は一件も申しこみのない状況となった。その原因は「事変」の拡大にともない男子の数が減ったこと、嫁入り道具の箪笥(たんす)材料の桐や漆などが輸入禁止となったことにともなう暴騰、べっこう櫛や指輪にたいする事変特別税賦課による値上がりなどにあり、結婚適齢期の女性は結婚難におちいった。また、更埴地方の温泉や料理店、カフェーなどはさっぱり客足がなくなり、ほとんど休業状態となったという。

 この年には国家主義によって国民を思想的に統合し、日常的に国策に協力させ戦争体制に動員するための組織的な運動が始まった。これは国民精神総動員運動といわれた。ときの政府は「挙国一致」、「堅忍持久」、「尽忠報国」の三大目標をたてた。長野県では九月二十四日国民精神総動員長野県実行委員会規程を公布し、精神運動の目標と実践細目を定めた。十月の国民精神総動員市町村実行委員会設置規程の公布を受けて、長野市では二四九人の委員をきめ、十月十九日に第一回の協議会ならびに結成式を開いている。委員は「政府ノ方針ヲ体シ一大覚悟ヲ以テ其ノ実践ノ徹底ヲ図リ以テ皇運ヲ扶翼シ奉リ尽忠報国ノ誠ヲ致サン」との宣誓をし、「今此(こ)ノ時 克服ヲ目指シテ国民精神総動員ノ実施」をすることになった。二十五日には実践事項の徹底をはかるために、①市内各区では区実行委員会を組織し、②定期的な神社仏閣への参拝、③時間の励行、④勤労奉仕班の組織、⑤銃後後援の持続強化、⑥廃物の蒐集提供の五点を全市的に実践する事項として市長に諮問もおこなわれている。

 「国民精神総動員に際し国民諸君に望む」というビラが十月十四日に全戸に配布された。それには「国民精神総動員とは大和魂の総動員です。我々の日常の生活の中で、自分の本務を尽くし、自分の能力に応じて国家のためになることを実行して御奉公しやうといふ運動で、(一)堅忍持久の精神で、防空に努める心構へ、流言などに迷はされない心構へ、国家の機密や軍事機密を守る心構へを充分養ひ、(二)困苦欠乏に堪へる心身の鍛練、(三)和協奉公の精神、(四)銃後の後援を強化持続し、慰問や家業を手助け、(五)非常時の財政経済政策に対する国民の協力、商売上の売り惜しみや買占のやうな不当なことは誓ってせぬこと、国債を買入れること、国産品を愛用すること、金を使ふことは差控へるなどこれに協力する、(六)資源の愛護に心がけ、国の資源として役立つものはすべて節約し、廃物や屑物を大切に保管して利用を図る 国民精神総動員は全国民のなさねばならぬ国民運動であります。全国民だれにでもできる実行運動で、これに参加し国運の隆昌を図り、日本精神の一致団結を以て暴戻なる敵軍を撲滅し、支那政府の反省を求めて東亜に真の平和をうちたてやうではありませんか」と日本精神の発揚・銃後後援の強化持続・非常時経済政策への協力・資源愛護がうたわれていた。


写真9 雪だるまも国債売り出しに協力と写真ニュース報道

 昭和十三年二月十一日から十七日までの一週間は、国民精神総動員強調週間が全国的におこなわれた。長野市では全国の運動に合わせ、「紀元節奉祝日」「自治訓練日」「生活改善日」「産業報国日」「資源愛護日」「心身鍛練日」「皇軍感謝日」を設定している。四月一日から七日までの長野県国民精神総動員強調週間では「銃後ニ於ケル重責堅持ノ精神ニ弛緩ヲ来スコトナク不撓不屈堅忍持久ノ精神ヲ振起スルコト」や事変の長期化を予想して「困苦欠乏ニ堪フル不退転ノ精神ヲ涵養スルコト」、出征兵士への「感謝ノ赤誠ヲ表示スルコト」などが強調された。

 上高井郡川田村では、「国民精神ノ作興、応召家庭生活安定援助、生産ノ拡充ト消費ノ節約」について一貫した方針と組織のもとで実行するため「全村総動員協議会」を組織し、「全村総動員協議決定事項」を作成した。それには毎月一日と十五日の早朝には神社へ戦勝祈願の参拝し、時局講演会の開催により国民精神の作興をはかること、役場内に応召家庭相談所とその下部組織として各地区に相談係を設置して応召家庭への援助を実施すること、農会技術員や青年学校職員、農産学校卒業生、さらに篤農家や農業の学識経験者を加えた委員会を設置したり、農家の独善的・孤立的経営を改善するために農家組合の強化拡充をはかり、自給自足主義経済の確立や養蚕業の経営合理化による経営の共同化や農村婦女子への生産技術の習得をはかる等により、生産の拡充につとめること、食生活の改善、貯蓄観念の確立等により消費を節約すること等が決められている。

 昭和十一年長野県から恐慌・不況下の農村の経済更生のための強化指定村に指定された東条村では、村できめた「生活改善実施項目」が表7のようになっている。国民精神作興にはさまざまな精神教化の儀式が盛りこまれ、農村経済更生をめざしつつ国民精神総動員の国策順応への道がとられている。


表7 東条村における生活改善実施項目 (昭和11年)

 この精神運動で大きな影響を受けたのは商店であった。精神運動の一つの中元廃止運動で、呉服屋・砂糖屋・陶器屋などの購買力は押さえられて商戦は不振におちいった。いっぽう仏具屋や灯籠屋は、戦死者の帰還にともない例年の五倍の売り上げがあったという(『信毎』)。

 長野県は昭和十二年十二月の「新年奉祝式次第誓詞ニ関スル件」の通達を、県下各市町村長および学校長あてに通達した。各市町村では区長や各種団体長あてに通達されている。この通達にのっとり、一月一日には各市町村および各種団体では「今後時局ガ如何ヤウニ進展シ如何ナル困難ガ加ハッテ参リマシテモ堅忍持久アクマデ之ニウチカチマス」という誓詞をいっせいに発表した。これは中央から地方下部組織への上意下達を示す典型的な例で、以後何ごとも中央の指示どおりに動くという色彩が強くなっていった。

 十三年の五月からは「国家総動員法」が施行され、また電力国家管理法が公布されて、重要物資から生活必需品にいたるまでの経済統制が急ピッチですすめられた。三月から六月にかけてガソリン・飼料・鉄鋼などが配給制となり、九月には石炭、十一月には鉄屑・銅・鉛等が加わった。またゴム製品・皮革・金属品・木材をはじめとしてあらゆる物品の公定価格がきめられ、統制されたもとでの生活が余儀なくされた。十四年七月には国民を強制的に軍需産業に動員できる国民徴用令が、十五年四月からは米・味噌・醤油・塩・マッチ・砂糖等の生活必需品に配給・切符制が導入された。米は一人一日二合五勺~三合ずつ配給する消費規制がとられた。市の米穀小売商業組合では旧市を四、新市を三の統制区に分けて共同配給組合を設立して配給する体制がとられた。これにより市内の一八〇軒の米屋のうち、大麦・小麦の政府買いあげにより雑穀売りだけでは商売が成りたたないという理由で、店を閉めたものが二〇軒以上を数えた。節米のため九月から麺(めん)類も配給となった。市では長野市麺類配給統制組合を設立し配給した。その他に小麦粉・米糠・糯米等も、配給統制要綱にもとづき配給制がとられている。北石堂町の全世帯四五〇戸では、国防婦人会が中心となって共同炊事場を設立し、夕食の米にかわってうどん・パン等を代用する節米運動をする動きもみられた。長野市西洋料理組合百余軒で働く女性一五〇人は、代用食にパンやケーキを作りカフェーに共同配給することや、更級郡産業組合の主婦会も節米と食改善を目的に一日一食はパン食にと農村でもパン食にする動きもあった。


写真10 昭和16年1月14日付『信毎』附録の公定価格便覧

 そのいっぽうで「家庭国防」や「経済戦争」のスローガンのもと、貯蓄奨励や消費の節約、代用品の奨励等がくりかえし強調された。この運動には銃後を守る女性や主婦が大きな役割を果たした。女子青年団では古雑誌や古新聞、木綿、金物などの廃物を蒐集し、国防婦人会県本部の軍需資源更生運動に合わせて、国防婦人会が綿くずや毛くず、玩具・水筒・飯盒・弁当・鍋・釜・歯磨チューブなどの金属類をはじめとしてあらゆる生活用品の廃物が回収された。


写真11 白いエプロンにたすきを掛け日の丸の旗をもつ国防婦人会員

 銃後後援活動の組織化も進められ、十二年九月には長野県支那事変銃後後援会が発足した。「官民一致の協力援助」のもと「扶助援護事業の強化徹底」をめざしたこと、そのため発起人に民間人七〇人が名を連ねたところに後援会の特徴があった。昭和十三年段階で応召者の世帯数は一二一三戸に達している。この家族の生活程度状況は、市の調査によると表8のようであった。市では生活に支障をきたす家族のために、縫製作業や刺繍(ししゅう)作業、製莚(せいえん)作業の授産事業をして援助をした。授産事業には、昭和十三年に三三七人が従事している。


表8 軍事扶助法による応召家族の生活程度状況 (昭和13年)

 昭和十三年二月七日から三日間、昼夜六回相生座で、長野県支那事変銃後後援会と長野市出征軍人後援会共同主催による軍人軍属家族慰安映画会を開催した。「召集令」、「血染ノスケッチ」等の上映に「厳寒ノ折柄ニモ不拘一家揃ツテ来ルモノ多ク和気靄々盛況」をきわめた。事変一周年記念日の七月七日には、諏訪神社の御札と慰問状を発送した。十四年二月市町村の各種軍事援護団体は、銃後奉公会の名称に統一されることになり、長野市は四月一日から長野市銃後奉公会を設立した。それは長野市出征軍人後援会と長野・芹田・古牧・三輪・吉田の各奨兵会を統合したもので、会長には市長がなった。十月三日から九日までの全国いっせいの銃後後援強化週間には城山県社での出征軍人の武運長久、女子青年団による慰問袋の発送、後町小学校での事変室の市民への公開などをおこなっている。事変室の公開には一般市民九千余人が訪れた。紀元二千六百年の建国祭にあたる十五年二月十一日には市内在郷軍人分会・国防婦人会・愛国婦人会・男女青年団など参加五十余団体、二万人を総動員する愛国大行進を実施し、皇軍の武運長久を祈った。

 昭和十四年から毎月一日が「興亜奉公日」とされ、精神運動は一段と強化された。この日は「全国民ガ戦場ノ苦労ヲ想ヒ、自粛自省的確ニ之ヲ実際生活ノ上ニ具現シ挙国一致・盡忠報国・堅忍持久ヲ以テ興亜ノ大業ヲ翼賛シ奉ル」日と位置付けられ、①早起きの励行、②国旗の掲揚、③神社仏閣参拝、宮城遥拝、④戦没将士ノ墓地清掃、⑤慰問文ノ発送、⑥禁酒禁煙、⑦遊興ノ禁止、⑧家ノ内外ノ清メ、廃品ノ整理、⑨緊縮節約、⑩心身ノ鍛練、などの新生活実践項目が示された。このころから「贅沢は敵だ!」のスローガンが頻繁に使われるようになる。そして十五年には翼賛体制が確立していく。それは「皇民たる自覚の喚起、国民志気の振興、国民生活の全面的刷新達成に積極的建設的協力をおこない、一億一体となって戦時生活を確立」し、戦争に県民生活のすべてを動員する体制であった。県や市では具体的に、①日常生活に於ける臣道実践、②貯蓄の奨励と虚礼廃止、③時局に備えて心身鍛練、④誉れの家を挙て援護、することを示した。十月十三日、城山小学校校庭において「大政翼賛運動ノ発足ト、日・独・伊三国条約成立ニ当リ、国民精神ノ昂揚」の目的で「大政翼賛三国結盟県民大会」が開かれた。国民精神総動員県本部をはじめ各種団体役員、市内各小学校代表など約二〇〇〇人が一堂に集まり、「我ガ帝国ヲ指導力トスル日満支三国聯環ノ大東亜共栄圏ヲ確立」することを誓いあった。