満州開拓と市町村民

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満州開拓は昭和七年、拓務省が建てた一〇万戸五〇万人という満蒙大移民計画に始まる。この年、長野県でも知事を総裁とする信濃海外協会の愛国信濃村建設計画がたてられ、同協会による資金募集・満州愛国信濃村建設の趣旨の徹底をはかるために海外移民の講演会が県下各地で開かれている。十月一日松代小学校で、信濃海外協会幹事西沢太一郎の満州事情講演会があった。この講演は「満州愛国信濃村建設ノ件ニ関シ満州事情ヲ一般ニ認識セシムル」目的があった。この年には、在郷軍人を中心とする全国規模の編成による第一次弥栄村開拓団が組織され、翌年満州に入植した。この開拓団には長野県から三九人の移民があったが、この段階では、現長野市域からは応募はなかった。


写真12 満州開拓団の入植記念日に
(坂田雪男所蔵)

 同じ年、信濃教育会満蒙視察団の一人である山王小学校長伝田精爾は『信濃教育』(第五四五号)に「満州一瞥」を投稿している。そのなかで伝田は「移民者の初代は美衣美食などは思ひもよらない。一代かかって何町歩かの土地を子孫に伝へうるに過ぎない。初代土地を開き、二代家を建て、三代にして子々孫々の安定を得れば足れりと思ふの覚悟を持たねばならぬ」「近時日本内地に於ても種々なる意味から満州移民の必要を説かれて居るが、結局この心なくては到底その目的は成就せらるまい」と移民の覚悟と安易な移民を戒めている。


写真13 『信毎』発行の新東亜建設大地図の一部 (池田智提供)

 農業移民に主体をおいた昭和十年までの拓務省募集の第四次移民までは、「試験移民」に位置づけられている。昭和八年吉林省樺川県湖南営(きちりんしょうかせんけんこなんえい)に入植した千振開拓団には、長野市から二人、柳原村から一人の移民があった。この開拓団は関東・東北・甲信越・北陸各県の帝国在郷軍人分会が送出母体となり、そこから選抜された在郷軍人であった。また、昭和九年入植の第三次瑞穂村開拓団には、信里村から二人の移民があった。これも帝国在郷軍人分会が送出母体となっている。この第三次瑞穂村開拓団には、昭和十年に長野市稲葉から一人、十八年に篠ノ井町から国民学校長一人が加わっている。

 長野県の満州移民への本格的な取りくみは、昭和十年に開催した移植民協議会を契機としている。そこでは昭和七年にたてた満州愛国信濃村建設計画の再検討がなされ、県独自の「満州信濃村建設計画」が建てられた。『満州信濃村建設指導要項』には、拓務省の満州大量移民計画の枠内で、県独自に一県一村の信濃村と一町村一部落を建設するということが明示されている。県は移植民行政を推進させるため、十一年には学務部職業課を新設、翌十二年には同課に拓務主事を置いた。移植民協議会では市町村役場に移植民係を置くことが提起され、十二月の「移植民講習会」の最終日には「市町村移植民係打合会」が開かれている。このように県が移民に積極的な姿勢をみせたのは、県の満州農業移民政策が「其試験期ヲ終リ、大量国策移民送出」の時期になったと位置づけたからであった。

 昭和十一年の「満州農業移民募集ニ関スル件」には「長野県人をもって一村落を建設することが可能となったこと」「満州に模範的な信濃村を建設すること」が特記されている。また「満州信濃村建設趣意書」では「山岳重畳トシテ耕地少ク今ヤ農村山村ヲ挙ゲテ更生ニ努メツツアリト雖モ次三男ノ如キハ郷土ニ於テ分家独立スルコトスラ容易ナラザル窮状ニアリ。之ガ打開ノ途ハ、一ニ海外移植民事業ノ振興ニ俟タザルベカラズ」と恐慌期からの農山村の窮状をあげ、「農村ノ次三男ヲ始メ、耕地少キ為更生困難ナル農家ヲシテ満州ノ新天地ニ発展セシメ子孫永住ノ楽土ヲ建設セシメルモノ」で、満州信濃村建設運動は長野県の「特殊事情ト国民的使命ノ自覚ニ立脚」したものであると位置づけられている。

 県単独の信濃村計画は第五次黒台信濃村の建設として具体化してくる。これには二〇〇人募集のところ五〇〇人余が応募した。更級農業拓殖学校の拓殖科生徒九人をふくむ先発隊二一人は、七月二十六日城山県社で祈願祭、県庁で壮行会ののち、各界の激励を受けて長野駅を出発、三十一日にはハルピンに降りたった。そこで一ヵ月の訓練を受け、九月末には東安省密山県王家焼鍋塔頭湖甲(とおあんしょうみつざんけんわんじょうしょうこたとほこう)に入植した。本隊は十二年二月に蔵春閣で壮行会、長野市青年学校生徒の喇叭(らっぱ)鼓隊を先頭に長野駅まで行進、渡満した。この第五次黒台信濃村には現長野市域から表9のように移民があった。渡満した最初の年には約五〇戸を区単位とする共同生活体制をとりながら個人家屋を建築し、十三年からは家族招致も始まった。また、この年には古牧出身の医師増田三喜が着任して診療所を開設し、医療体制も整備された。翌十四年には諏訪神社や学校もつくられ、新しい村としての形ができた。入植五年目からは個人経営となり、新天地での本格的な農業が始まった。一戸あたりの経営面積は、水田が〇・五ヘクタール、畑は五ヘクタールから一〇ヘクタール、牛馬は二~四頭、豚は二~二〇頭、緬羊三~三〇頭で、畑からは大豆、麦、とうもろこしなどの雑穀類や野菜が収穫できた。


写真14 更級農業拓殖学校の卒業証書
(中村助夫所蔵)


表9 長野市域からの満州への移民戸数の状況

 昭和十二年から十四年までは、政府の二〇ヵ年一〇〇万戸計画の第一期五ヵ年計画の一環として、満州信濃村建設計画がすすめられていく。三ヵ年で第六次南五道崗(みなみごどうかん)長野村開拓団、第七次中和鎮(ちゅうわちん)信濃村開拓団、第八次張家屯信濃村開拓団の三開拓団が編成された。現長野市域からは表9のように移民があった。

 一県一村の信濃村建設とは別に一町村一部落移住、すなわち市町村における分村計画も昭和十三年から具体化してくる。南佐久郡大日向村の分村は、全国初の試みであらゆる面で注目をあつめた。十三年の時点で県内では分村六ヵ村、分郷二ヵ村、信濃村一ヵ村の動きがあった。この年からは数ヵ村をブロックとして二〇〇戸から三〇〇戸の移民村をつくるブロック分村計画も登場し、県下二〇七町村で三二ヵ郷を分郷する計画もたてられた。その計画のなかには更級郡川中島村ほか一一ヵ村の川中島郷や埴科郡東条村ほか四ヵ村の松井郷、上高井郡の上高井郷がふくまれている。川中島郷や松井郷は計画のみで中止となり、新たに分郷計画された更級郷が十五年に、埴科郷が十六年に渡満した。現市域からは表9のように移民があった。県が通牒した昭和十四年の「満州分村実行要綱ニ関スル件」によると十四年段階の移民は「支那事変」が長期にわたるにしたがい「平時経済ノ根底ニ立チテ企画セラレタル満州分村事業ハ慎重再検討ヲ行フノ必要ヲ生ズルニ至レリ」と位置づけられている。このときから分村形態は一村から二ヵ年にわたって三〇〇人を送出して、現地に一村を建設する集団移民を基本形態とした。そして数ヵ村から数十人あてを送出して村を建設する分郷移民と年次計画にしたがって、一村から毎年三〇人を送出しそのつど村を建設する集合移民の形態が示された。


写真15 昭和17年3月更級在満国民学校第2回卒業記念写真
(『満蒙開拓の手記』より)

 昭和十二年から十六年までの第一期五ヵ年計画の時期には、長野県から一四の分郷開拓団が送出されている。そのなかで現長野市域が関係しているのは第九次尖山(せんざん)更級郷開拓団、第十次東索倫河(ひがしそろんほ)埴科郷開拓団、第十次三台子小諸郷開拓団の三開拓団である。第九次尖山更級郷開拓団は更級郡の二町二五ヵ村を中心とする開拓団で、昭和十五年に東安省宝清県(とうあんしょうほうせいけん)尖山に入植した。西寺尾村の一男性は渡満の動機を「わたしは学校を出ると大阪の日本アルミに勤務し、待遇も決して悪くはなかった。しかし、十六年三月、休暇で西寺尾の家に帰ったところ、特別昵懇(じっこん)の間柄にあった中村柳治村長が座りこんで、どうでも更級郷へ行ってくれとのことであった。はじめはとてもそんな気になれなかったが、満州開拓は国のため郷土のためだと、その理想像をいろいろと説明されたので兵隊にとられたと思っていきましょうと腹を決めてゆきました」と語っている。第十次東索倫河埴科郷開拓団は、埴科郡四町十三村を中心とする開拓団で、昭和十六年に東安省宝清県東索倫河に入植した。この送出母体は埴科郡町村会で、埴科郷建設本部長には松代町長が就任した。埴科郷は三ヵ年間に三〇〇戸を移民させる計画で進められたが、応募者が少なかったため、開拓団の幹部には助役や学校長、郡農会の技手、青年団長など郡の主だったものをあてて応募者を募った。現長野市域の町村からは表9のように移民があった。渡満した翌年には埴科郷国民学校が開校し、郷の鎮守の神として象山神社を分祀し、村づくりがおこなわれた。開拓の当初の計画は水田三二〇町歩、畑二四〇〇町歩であったが、昭和二十年の敗戦までには水田四四町歩、畑四五〇町歩の開拓に成功した。それは一戸あたり水田五反四三畝、畑五五反五五畝に相当していた。


写真16 東安省に入植した更級郷、埴科郷、上高井郷、長野村の位置
(『長野県満州開拓民入植図』の部分 宮沢正博提供)

 昭和十七年からの第二期五ヵ年計画では、長野県から送りだされた開拓団は一〇開拓団となっている。そのうち長野市域が関係しているのは、第十一次珠山上高井開拓団である。この開拓団には保科村から三人、綿内村から四人、川田村から五人の移民があった。

 一県一村の全県編成による開拓団や分村・分郷開拓団とは別に集合開拓団や農工開拓団、大陸帰農開拓団とよばれた開拓団も送出されている。集合開拓団は日本内地の農民によって構成された農業移民で、三〇戸から一〇〇戸を一部落一経済単位とするものであった。長野県からは三開拓団が送りだされているが、長野市域からの送出はなかった。農工開拓団は、軍の要請によって満州関東軍の野戦兵器廠での武器の手入れをするために送りだされた軍直属の全国混合の開拓団であった。身分は軍属で、土地や住宅などは軍から支給された。長野市域からは表9にみるように二つの農工開拓団に三人が応募している。


写真17 寺尾村の青少年義勇軍・満州農業移民・拓務関係書類

 農業の経験のないものたちを中心とする開拓移民が帰農開拓団である。長野県は昭和十八年に三開拓団を送りだしたが、そのなかには長野市の農業未経験者を中心とする第十二次宝興(ほうこう)長野郷開拓団があった。長野商工会内に建設本部を置き、長野市の翼賛壮年団が送出の中核となった。開拓団の団長には、翼賛壮年団幹部の勝田俊夫がなった。入植以降二ヵ年間で二〇〇戸の商工業者を送出する計画をたて、翼賛壮年団との共同主催による講演会や映画会を催し、団員を募集した。三月九日には基幹先遣隊八人が城山県社で祈願祭ののち渡満し、十七日に延寿県宝興に入植した。七月には聖旨奉戴拓士一人獲得運動を全戸に展開して団員を募集、さらに翌年一月を団員獲得運動月間として募集したが、初年度は基幹先遣隊をふくめて団員二六人、家族五三人の入植にとどまり、予定の五分の一にも満たなかった。そのため区常会・隣組常会を主体として市内九二区で各区拓士一人の獲得運動を展開したが、青年男子のほとんどが応召だけでなく軍事工場への徴用で他出していたために、容易に拓士志願者を探しあてることはできない情勢にあった。十九年十二月末の幹部は九人、団員五三人、家族一七六人という構成にとどまった。

 昭和十八年長野県農業会は、一八歳から四五歳の農村中堅男女四〇〇人と生徒奉仕隊二〇〇人を募集して、水田五〇〇ヘクタール、畑一五〇ヘクタールの報国農場を経営することにした。これは戦時下の食糧増産を主な目的とするもので、他の開拓団とは性格が多少異なっている。先遣隊を二月上旬から三月下旬まで三回派遣し、本隊は四月上旬渡満して十月に帰国するが、そのさい本隊から八〇人を選抜して越冬隊として満州に残らせ、翌年の入植をまって帰国させるという方法がとられた。しかし、太平洋戦争が激しくなり、農村労働力が不足していたから募集は容易ではなかった。県農業会は県拓務課の協力により、県下各市町村に人員を割りあて、また個別訪問などをして半強制的に人選をした。十九年段階で報国農場隊員三一二人、生徒奉仕隊三五人となったが、目標人員には遠くおよばないものであった。農作業は経験のないものばかりで、年少者と女子がほとんどであったから農機具や馬も十分に使いこなすことはできず、開田は一〇八ヘクタール、畑は五八ヘクタールを開拓したにすぎなかった。宿舎は一人あたり畳一枚分の広さで、布団は上下一組分があたえられたに過ぎず、生活環境はきわめて悪かった。ホームシックにかかるものやアメーバ赤痢と栄養不足で体力を消耗し、初年度は中途で帰国したもの二一人を数え、死者三人を出していた。二十年八月までの長野市域出身者は表9のようになっている。

 各開拓団では十九年ころから男性が応召されるようになり、農耕は老人や婦女子だけとなった。二十年八月にはソ連の参戦があり、八月十五日の日本の無条件降伏によって、無防備・無抵抗の団でも中国人の襲撃やソ連軍の略奪から逃れるために開拓地をあとにしなければならなかった。日本に帰国するためには飢えと病魔のなか入植地から逃避行をつづけなければならず、幼児から婦人、老人へと弱いものから命を落とすこととなった。第十二次宝興長野郷開拓団の生死の状況は表10のようであるが、八月現在一六一人いた団員のうち日本に帰還したものは七一人であった。第十次東索倫河埴科郷開拓団の場合、終戦後郷里の地を踏むことができたのは団の成人男子四八人でいずれも現地で召集されたものばかりであった。


表10 第12次宝興長野郷開拓団の生死の状況