昭和十年代にはいるとわが国の食糧事情は、景気の回復にともなう都市部における米の需要拡大や、日中戦争の戦局のひろがりによる軍用米の急増等のために、悪化の一途をたどることになった。そこで政府は、米穀配給統制法(十四年四月)、食糧管理法(十七年二月)を公布し、米麦などの主要食糧を国家の管理下において、米の割り当て・供出・配給の統制をすすめた。さらに政府は、米麦等の増産をめざして、十六年(一九四一)二月には市町村農会に農産物作付、共同作業の調整などの統制権限をあたえる農業生産統制令を公布した。
県は国のそれらの統制策に即応して米穀配給統制要項(十四年十一月)、米穀移出取締規則(十五年四月)を定めて米の供出、買い上げ、販売、配給などを一元化した。さらに十七年一月には食糧増産総動員、耕種(作付け)改善基準の設定、農業統制の強化、共同作業の実施、肥料配給の合理化と自給肥料の増産、農村婦女子教育の再検討などを推進するための戦時食糧農産物増産促進要綱をさだめて食糧増産政策をすすめた。
食糧危機が深刻化した十九年には、あらゆる空き地を利用する麦・雑穀・いも類などの作付けや、甘藷・大豆・蕎麦(そば)・麦類・稗(ひえ)・南瓜(かぼちゃ)・玉蜀黍(とうもろこし)などの緊急増産の施策も講ぜられた。国民勤労動員令が公布された二十年三月に、校庭などの空き地のうち市街地の国民学校は半分、農山村の国民学校は三分の二、中等学校・青年学校は全部を開墾して、南瓜・甘藷を作付けしてその増産をはかるよう指示した。
しかし、このような食糧増産のための諸施策も、その遂行上において大きな矛盾をかかえていた。その第一は軍需産業における鋼材不足によって脱穀機や農機具などの生産が頭打ちとなり、さらに耕耘(こううん)作業に欠かせなかった農耕馬の多くが徴発されて、農業における重要な生産手段が奪われていったことである。第二は徴兵と徴用によって農家の働き手であった青年男子が奪われて、極度に農業労働力が不足したこと、第三は戦争の影響により化学肥料が欠乏し地力が低下したことであった。このように農業生産のうえで困難な時期に、現長野市域においては具体的につぎのような対策がとられていた。
旧長野市は昭和十年代にはいり、耕地面積の狭小化など都市近郊農村の特徴があらわれ、それに順応した農業経営の改善がはかられた。既存の耕地が鐘紡工場、飛行場、学校、住宅、道路等の用地に転用されて、農家一戸あたりの耕地面積がせばまり、全農家の五七パーセント余が五反未満となった(表11)。そこで耕地の集約的利用が奨励され、水田における二毛作の普及徹底や労働集約度の高い果樹、蔬菜等へ転換の契機となった。
長野市農会は、日中戦争の開始後農村精神の作興・農会経営の振作・農業生産の維持増進・農業労力の補給調整など十項目にわたる重点施策を発表した(『長野県農会報』)。
そのうち、農業生産の維持増進にかかわる内容では、とくに「主要作物の増殖並栽培技術改善」が強調されている。その実行方法として、①水田ならびに畑地の休閑地利用 ②実地指導地の設置 ③農村部青年の農業技術研究会の開催 ④種子購入助成金交付 ⑤肥料の斡旋 ⑥軍需農産物の作付ならびに調整をあげて、水稲、大小麦の作付面積の増加と栽培の技術改善等によって食糧増産をはかろうとした。
また、重点施策のなかで注目されるのは肥料対策であった。戦争による化学肥料の欠乏を予想しての配慮である。そこには「事変に伴ひ肥料の配給の不円滑を洞察し、自給肥料の増産並に肥料の合理的施用を奨励する為め、左記事項を行へり」として大要つぎのような実践項目をあげている。それは、①堆肥廏肥増産奨励・堆肥増産品評会の開催・堆肥舎の建設補助金の交付 ②家畜の飼育奨励・大小家畜の飼育奨励・養豚養鶏奨励のため該当組合に補助金交付・種畜の購入斡旋 ③人糞尿塵埃の利用・市農会に自給肥料委員会を設置・十四年度より市農会直営の人糞尿塵埃の利用施設の設置 ④緑肥栽培奨励・桑園の間作と緑肥の奨励などであった。
これらの施策のなかで各方面から注目されたのは、市農会直営の人糞尿塵埃の利用施設の設置であった。これによって、困難な糞尿の処理とその利用の問題が一挙に解決したからである。十四年三月、長野市農会は「屎尿(しにょう)処理規定」等を定めて、農家が肥料不足の戦時下において市街地の屎尿を円滑に利用できるようにした。これは市街地在住者と農村民の両者の福利の増進に役立つことになった。
川中島平を中心にした旧更級郡の平坦地域は、一戸あたりの耕地面積がせまく、集約化された農業経営を余儀なくされていた。主要農産物の郡内作付面積は米三六〇三ヘクタール、大麦一三〇〇ヘクタール、小麦二二五〇ヘクタール、桑三二〇二ヘクタール、りんご三〇〇ヘクタールで米は郡内の自給をみたす程度であった。現金収入は主として養蚕および大麦・小麦によるものであり、なかでも水田裏作の大麦・小麦は品質収量ともに県下一といわれ、全国的にみてもまれにみる好適地であった。小麦は優良品種の伊賀筑後オレゴン種に統一され、反あたり収量も五石以上に達していた。
そこで関心をよんだのが、水稲とその裏作の麦を基本とした二毛作経営をどのように改善するかという問題であった。更級郡農会は二毛作の改善のために、二毛作増収競技会を実施した。これはあたえられた単位面積のなかで、いかに効率よく米麦の増収をはかるかという競技で、十二年以後郡内全村が参加しておこなわれ、食糧増産に多大の貢献をした(『長野県農会報』)。
もう一つ更級郡農会と蚕業関係団体が郡をあげて取りあげた方策に、春蚕掃き立て促進と田植促進運動があった。これは国策である米穀増産と繭増産の両者を達成させるために考案された対策の一つである。従来、猫の手も借りたいころといわれた六月中下旬から七月上旬にかけては、蚕の上簇(じょうぞく)、麦刈りと脱穀、田植えが集中し多忙をきわめた。したがって円滑な農作業ができにくく増産も期しがたいので、蚕の掃き立て・上簇時期を早めようとする運動であった。上簇時期が早まればいきおい田植え時期も早まり、それが米の増産につながると考えたのである。この運動は十四年度から始められ、郡下全町村参加のもとにそれぞれが掃き立て・上簇・田植えなどの最終予定日を決めて取りくみ成果をあげたとされている(『同前書』)。
急務であった田植促進の運動は、太平洋戦争開始の十六年以後もつづけられ、小麦の収穫時における動力脱穀機の導入による共同作業、田植えのための県内外からの勤労報国隊の応援などによって、三日ないし一週間の田植えの促進をみたのであった。
現長野市域の一部を形成する旧埴科郡は、農家一戸平均耕地面積は六反歩(〇・六ヘクタール)強であり、従来から集約度の高い農業経営がなされていた。この地域は気候風土に恵まれて、水稲栽培でも全国でもまれな七月十日前後の田植えという条件で反収三石以上をあげていた。しかし、人口の増加に比較して耕地面積がせまいこともあって、抜本的な農業経営の改善が叫ばれるようになり、埴科郡農会は、①耕地面積の緩和と調整 ②技術の集団的改善 ③有畜農業の普遍化 ④兼業収入の増加の四点の改善方針を示した。
そして緊急課題である米穀増産について具体策を明示し、その実践を促した。そのおもなものは植え付け時期の促進、平均収量の引きあげ、施肥の合理化の三点であった。とくに強調されたのは植えつけ時期の促進で、これは表12のような実験的研究成果に裏づけられた対策であった。埴科郡のおこなっている七月十日過ぎの植えつけ時期を五日ないし一週間早め、それによって米の収量を二割近く向上させようとするものであった。
なお、当時米作以外で特筆すべきことでは、清野村の甘藷苗の栽培、反あたり千貫(約四トン)をめざした寺尾村の甘藷栽培などがあり、それぞれ地域の特性のうえに立って伝統産業を発展させていた。
米穀生産の状況を「供米郡市別割当等」(表13)によってみると現長野市域に関係する五郡市は供出の進捗率の上で県平均の六九・三パーセントをはるかに凌駕している。これは生産統制がおこなわれた戦時下にあって関係地域の農民が食糧増産に努力した成果ともいえる。