長野市域においては戦時下の労力不足に対応するため、農業労力の補給と調整をすすめた。旧長野市においては日中戦争開始直後の昭和十二年(一九三七)八月、区単位の勤労奉仕班を設置して区長が班長となり、市全体の統轄は市長がおこなって、人馬の応召徴発による労力の不足の補給調整を実施した。農馬は農耕や運搬に役立ち、廐肥もうみ出し、賃貸しすると人の二人分の日給を稼いだ。軍馬としての徴発は農家の痛手であった。そこで長野市農会が中心となって指導し、調整した組織はつぎのようなものであった。
長野市農会は市内中等学校生徒の勤労奉仕の割りあてと斡旋をおこない農業労働力の補給にあたった。この方式は良策として評価され、県知事の視察の対象となった。十三年中の中等学校生徒の勤労奉仕の内容は以下のようであった。
①昭和十三年六月十三日より十六日迄女子中等学校生徒
奉仕せる主要作業 養蚕方面、奉仕延人員 五二〇〇人、奉仕農家数 五六三戸
②昭和十三年六月二十日より二十四日迄男子中等学校生徒
奉仕せる主要作業 麦刈整地其の他、奉仕延人員 三二〇〇人
③昭和十三年九月五、六日、二日間女子中等学校生徒
奉仕せる主要作業 養蚕業、奉仕延人員 一二〇〇人
④昭和十三年十月二十日男子中等学校生徒
奉仕せる主要作業 稲刈、奉仕延人員 八六〇人
⑤昭和十三年十月二十九日三十日両日男子中等学校生徒
奉仕せる主要作業 麦播、奉仕延人員 七二〇人 (『長野県農会報』)
長野市農会は、応召農家の不能耕作地を農家組合で共同耕作するための奨励金を交付したり、その他、労働能率の増進をはかるために農家組合共同作業を奨励し普及につとめた。そして、不足労力の補給には優秀な機械器具の調達と利用が重要であることに着目して、市と農会が共同して動力農機具の設置普及のために、「石油発動機並動力脱穀機購入奨励金」を交付した。また、畜力利用のために牛馬の購入を斡旋したり、利用技術の向上をはかるために、牛馬耕伝習会などを開催して奨励金を交付した。
川中島平を中心にした旧更級郡については、昭和十六・十七年段階の労力の補給調整はつぎのようであった。この地域の農業上の課題は、米麦二毛作の改善による食糧増産である。そのためには、まず田植を早めることが先決であった。そこで春蚕の掃き立てと上蔟(じょうぞく)の促進、麦の適期刈りとりなどすべてを早めはやめに運ぶことがもとめられた。これを打開するために採用されたのが、労力調整のための共同作業と共同炊事であった。さらに、労力の不足を補うため、県内および富山県からの「農業報国移動班」の応援の受けいれをした。これらにより、田植えは十七年度の場合例年より三日前後も早まったという。
米の増産に大きな役割をはたしたのが、病害虫駆除のための郡農会による「共同防除班」の設置であった。郡農会は、十六年度に予算一万余円を計上して水田用動力噴霧機五台を購入、郡農会直属の防除班を編成した。各町村農会でもぞくぞくと噴霧機を購入して、郡内では動力噴霧機一七台、槓桿(こうかん)式噴霧機一九〇台をもつこととなり、防除体制が一躍整備された。これらの噴霧機を使用して、郡農会直属の防除班や農家組合の共同作業班が稲熱(いもち)病防除にあたった。そのさい、更級農業拓殖学校生徒もこの防除作業に参加し、同年七月下旬から九月上旬にかけて、三回にわたって全水田の過半にあたる一八〇〇ヘクタールを防除することができた(『長野県農会報』)。
現長野市域における労力の補給・調整事業のなかで、全国的に注目されたのが更級農業拓殖学校生徒の労力奉仕であった。当校は、農学校の専門性と特殊性を生かして、病害虫駆除を内容とする勤労奉仕作業に取りくみ、地域の食糧増産に貢献したことで知られている。昭和十四年郡農会や関係町村農会もこれに協力して、各地に集団防除組合を結成して同校の労力奉仕を受けいれた。初年度の実施結果は表14のようであった。
生徒は一回に四隊(一隊は約三十人編成)が出動し、隊は学校からいっさいの器具を持参し、毎回午前八時までに現地に行き、作業前に現地の防除組合員に実施上の要点を説明、生徒は主として調剤、器具操縦、薬剤撒布にあたり、営業者はもっぱら薬剤の運搬、器具の運搬をなし、全体指導は学校職員があたった。薬剤撒布は朝露の乾いたあと開始し、夕方は露がたまりかけたら終了した。
昭和十六年、農林省は全国に病害虫防除班設置の制を敷いた。その制度は、更級郡が創始した集団防除組合がモデルになったといわれている(『長野県農会報』)。