鐘紡と軍事工業

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蚕糸業の不況によって疲弊した地域経済の立て直しは急務であった。そこで、長野市・長野電燈(のち長野電気)・商工会議所などが協力して、豊富な電力・犀川の水・他府県に出稼ぎ中の本県出身工女の存在などを背景に、鐘紡(鐘淵紡績)の招致をはかった。地元地主との用地買収交渉が昭和九年(一九三四)秋に妥結したあと、市による地ならし工事がはじまった。

 しかしその後、鐘紡長野工場建設計画はかけ声ばかりで、いっこうに着工の気配がなく、八万坪の敷地を提供した地元関係農民は耕地から離れて三年越しで傍観してきたが、十二年三月、長野市北市、南市の両青年層は地元の総意として建設工事促進の運動を起こすことになった。地元農民が生活上の支えともいうべき耕地を提供したため、生活が苦境におちいっていたのである。すでに小県郡丸子町と上田市内の両工場は竣工もしくは完成の運びになっていた。長野工場だけが、肝心の引込路線工事の遅延により、取りのこされていたのである。


写真23 鐘紡長野工場の建設がすすむ昭和12年11月ころ
(鐘淵紡績(株)所蔵)

 鐘紡本社では同年二月、上田工場長を通じて、長野市長あてに、鐘紡長野工場敷地内の公有地を工場建設着工前に処分するよう要求してきた。この要求はすでに一月上旬以来のことで、敷地内の道路、水路等公有地を未整理のままとしておいて、将来紛議の種となるのを恐れた事前工作とみられた。長野市ではただちに公有地処分に関し調査を開始し、具体案ができ次第、協議することになった。これとあわせて、公有地処分前に工場建設に着工しても、絶対に建設進捗に支障をきたさなく、かつ紛議の心配ないと、鐘紡に計画促進を要請した。

 工場が新設され、操業を始めたのはようやく十三年十月になってからであり、十四年十二月の工員数は八〇〇人であった。同工場は戦前の鐘紡新設工場としては最後のものであった。

 日中戦争の勃発とともに、長野県産業も軍事色が強まり、工業と交通業においては男子就業者が増加するいっぽう、応召男子を補う女子の進出も目だった。それには、鐘紡の長野市進出も一役買っていた。表15はそうしたようすをあらわしている。


表15 長野市の産業別人口 (単位:人)

 日中戦争以後、県の蚕糸業中心の産業構造を転換するために、県鉱工業委員会では金属機械工業などの招致地域として長野・松本をふくむ七地域を候補とした。

 日本無線長野工場は十七年十月、長野市から買収した授産所(同市鶴賀)を新工場として作業を始めた。コンデンサー製作には、すでに東京本社で一ヵ月の見習いをすませて帰った三〇余人の女子勤労隊員たちに本社派遣の熟練工を加え、さらに市内から女子従業員を募集した。はじめのうち同社は女子ばかり四〇〇人規模であったが、その後、十八年十二月には同市緑町で高周波電力用コンデンサーの製造に着手し、十九年十二月からは栗田工場の全面稼働にはいった。こうして終戦時には正規工員四三〇〇人、徴用工・女子挺身隊員を合わせると七〇〇〇人にたっした。


写真24 昭和18年4月栗田地籍に建設中の日本無線長野工場
(『日本無線30年の歩み』より)

 しかし、その他多くの工場は規模において零細であり、その零細性は戦時の初期段階ではさほど問題にならなかったが、戦争末期の生産性向上を至上命令とした段階では大きな阻害要因となった。物資と人材の効率的配分策として、十八年六月に戦力増強企業整備要綱が打ちだされ、弱小企業の整理がはかられた。そのうちの三業種をとりあげると、つぎの①から③までがあげられる。

 ①長野県印刷業企業整備実施要綱(十八年十二月)によれば、整備実施にあたっては、総合戦力増強の要請にもとづき印刷業の人的物的生産力をあげて戦力化し、最大効率を目ざした。いっぽう、戦争遂行上、必要な印刷物確保のため最小限度の操業工場に生産力を集中して労務、資材の有効利用をはかり、これによって不要となる設備、労務を重点部門へ転用活用をおこない、戦力増強に役だてようとした。企業整備はつぎの算式にもとづいておこなわれた。工場の生産性指数(x)は機械設備生産性指数(p)、設備稼働率(q)、収益率(r)を算出し、これを左の公式に乗じて積をもって判定した。

 p×(0.5+q×0.3+r×0.2)=x

 その結果、長野市域では活版印刷の操業継続工場として、長野市南県町・大日方利雄(工場の生産性指数一〇四・二三、従業員八二人)、同市岡田町・田中重弥(同八一・五六、一七八人)にはじまって、西鶴賀町・奥山朝春(同四・一〇、六人)など一六工場が認可されたが、いっぽうで生産性指数の低い零細な一〇工場(従業員数で四人以下)が廃業とされた。

 ②戦争の現段階に対処し総合戦力増強の要請に応じ、人的物的生産力をあげて戦力化し、最大効率をあげようとした。企業整備は昭和十八年中に完了することを目途とした。この整備に該当する業者は、綿・スフ織物業、絹・人絹織物業の力織機を有する業者であった。長野県の製糸業では二五パーセントが転廃業の対象とされ、それによって供出鉄総量は一八〇トンと算定された。現長野市域では更級工場(更級郡篠ノ井町、海軍航空兵器本部関連)のみが対象となり、松代製糸共同改良組の扱いは未定であった。

 ③長野県は十九年六月、軍需省告示にもとづいて告示第二七〇号を発し、精米・製粉・製麺・味噌・菓子製造業などの食品製造業を中心に、金属設備の供出を目的として、「戦力増強企業整備」をおこなった。供出すべきもののなかには電動機、汽罐(きかん)(ボイラー)、自転車などもふくまれていた。

 長野県製粉工業組合のうち、県内四一人、現長野市域では、柄木田三廣(機械四台、更級郡篠ノ井町)、小山三蔵(同五台、同町)、西山甚四郎(同二台、埴科郡松代町)、酒井嘉一郎(同一台、同町)、松林菊治郎(同二台、東条村)、宮下恭平(同九台、市内七瀬町)、宮下竹三郎(四台、市内西後町)、丸山忍治(二台、市内東和田)、塩入三代吉(同一台、市内南石堂町)が残存業者となった。これにたいして現長野市域で六軒が転廃業をせまられた。これによる供出総鉄量(付属品をふくむ)は約一〇トンと見こまれた。

 長野県では企業整備による転用工場は、その多くが航空兵器部品工場に取ってかわった。その一部は表16にみられるが、このほかに、建坪が二〇坪ていどの零細な作業場・工場が数多く存在し、戦争経済をになった。こうして、軍事工業化とともに、長野市にも相当に工業の発達をみることができたが、その特徴として第一に吉田駅(現北長野駅)を中心とする地域にもっとも多く(一〇工場)集まっていた。それとならんで緑町(九)、中御所(九)があり、岡田町(六)がこれにつぎ、これらを合わせて長野駅を中心とする南部地域をみると、南千歳町(四)、南石堂町(一)などを含めると計三九工場になっていた。


表16 航空兵器生産工場調(長野市域分) (昭和19年3月現在)