長野電燈、信濃電気両社の合併計画は、昭和十二年(一九三七)一月二十二日の両社の株主総会の承認をえて、監督官庁の認可がおり、同年四月に新会社設立の運びとなった。会社名は長野電気株式会社と改め、資本金三三〇〇万円、本社を長野市吉田町においた。
長野電燈が発足した明治三十一年(一八九八)当時の資本金は四万五〇〇〇円、電灯個数一〇七〇灯であったのが、合併直前には資本金一六〇〇万円、電灯個数二四万灯に発展し、供給区域も長野市、南北佐久郡、上水内郡の一部におよんでいた。
信濃電気は長野電燈に遅れること六年、明治三十六年五月、資本金二〇万円をもって上高井郡須坂町に設立され、当時の配電区域は須坂町、小布施町、中野町で、一三五〇灯であった。ところが、昭和五年、同社の社長越寿三郎の退任を機に長野電燈系重役が旧株三万円、新株三万五〇〇〇円を買収し、経営権を取得した。その翌年から小坂順造が社長に就任した。配電区域は、合併直前には上下高井、更級、埴科、小県各郡の全域と下水内郡の一部にまでひろがり、資本金一七〇〇万円、電灯個数は二九万八〇〇〇にのぼっていた。
四〇年近い歴史を歩んだ両社は双方対等の条件で合併し、二市九郡にわたる電灯配給の一元化が実現した。それまで、両社合併の話は二度浮上したが、機運熟さずさたやみとなっていた。しかし、もともと信濃電気は隣接する長野電燈に電力を販売しており、昭和六年以降は小坂順造が両社の社長を兼務するなど、密接な関係となり、時代の趨勢と主務官庁の意向を入れて、両社間で合併に向けた意見の一致をみた。新会社の設立によってますます冗費の節約につとめ、また、配送配電の統制をたもって会社の基礎を確立し、供給区域内の各需要家の便宜とサービスの改善をはかった。
長野電燈・信濃電気の合併記念として、十二年七月、配電区域の各市町村へ、社会事業の助成金として総額一〇万二〇〇〇円の寄付申し出があり、県学務部長・総務部長名で通知されている。
長野電気は、その後十二年十二月に、東信の中外電力と鹿曲川(かくまがわ)水力電気、北信の野沢温泉水力電気等の事業を譲りうけた。同社は二七の水力発電所と「受電」によって電灯と電力の供給をおこなった。発電所は小規模のものが多く、平穏(ひらお)第一、高沢第二の両発電所のみが一万キロワット以上であった。
長野電気の半年ごとの収益は、表17にみられるように、電灯料収入一七〇~一九〇万円、電力料収入一一〇~一二〇万円で、電力供給先のおおまかな構成は大口供給が七割をしめ、残り三割は小口供給であった。電気事業者への供給先は平穏第一、第二、第三の各発電所から日本発送電(後述)への供給分が断然大きく、長野電鉄、上田電鉄、丸子鉄道などへも供給された。このほかの一般供給の供給先をみると、紡織、金属、製材・木製品、食料品などが目だった。長野電気から供給を受ける事業者のなかで、昭和電工小海工場、鐘紡長野・上田・丸子工場などの契約電力が大きかった。
戦争遂行のためには、電力の国家管理によって、企業数を減らす必要があった。まず、各電力会社が所有する設備のうち、主要送電線を強制的に現物出資させ、十四年四月に日本発送電株式会社という国策会社をつくり、新規の電源開発もそれにまかせた。日本発送電は、水力については発電所のある山もとで各電力会社から電力を買いあげて、それを自らの発送電によって消費地へ運び、各需要家へ電力を小売りする電力会社に電力を卸売りする関係の中核をなしていた。
十四年の電灯需要によれば、愛知県の東邦電力(六七五一万キロワット)と静岡県の東京電灯(一六四四万キロワット)は別格として、長野県では長野電気(三五一万キロワット)、信州電気(安曇・諏訪地方、一四四万キロワット)、中央電気(松本地方、一三〇万キロワット)、伊那電気鉄道(八一万キロワット)などがおもな供給業者であった。
また、同年の一般需要家向け電力供給についてみると、長野県内では信州電気(四万五〇〇〇キロワット)、ついで長野電気(二万二〇〇〇キロワット)がきわだっていたが、後者はそのほかに一万五〇〇〇キロワットの日本発送電への供給があり、その電力は重工業地帯である名古屋の東邦電力に供給された。
十五年七月、第二次近衛内閣が成立すると、日本発送電による火力・水力発電設備の一元的掌握と配電統合をねらって、国家総動員法が改正され、第二次国家管理が実現に向かった。その年、村田逓信大臣は、全国主要事業者代表を招き、懇談したが、その席で電力国家管理の成果を上げるためには配電管理の実施にまで踏みこむ必要性を強調した。そのさい、長野電気社長・小坂順造は、日本発送電に政府の指示通りに電気を販売しているのに、所有権まで引きあげられるのは納得いかないと反対した。さらに、小坂は貴族院議員として十六年二月の貴族院の審議で、国家管理にたいする問題点・矛盾点をただしたが、戦時経済統制と軍部の発言力が強まるなかで、電力関係者の足並みをそろえることはできなかった。
配電統制令が施行されたのは十六年八月であり、それにもとづいて、中部地方に配電会社を設立すべき命令書が、長野電気、信州電気等に発せられた。配電会社の性格は、配電事業の統制を目的とする国策会社として規定され、料金その他電気供給に関する重要事項は逓信大臣が決定し、役員は株主総会において選任したものを逓信大臣が認可した。また、事業計画、定款変更、利益金処分などいっさいを大臣の許可制とした。
こうして十七年四月一日に設立された中部配電株式会社の配電区域は静岡・愛知・三重・岐阜・長野の各県とされた。ただし、新潟県南部にくいこむ長野電気の供給区域は、当分のあいだ、中部配電区域とされ、いっぽう、下水内郡飯山町と隣接諸村(現飯山市域)と上水内郡信濃尻村(信濃町)の中央電気株式会社の供給区域は当分のあいだ、東北配電区域とされた。
新会社の資本金は二億円、総株式は四〇〇万株、社員九〇〇〇人余をもって開業した。このときの出資設備にしめる各社のシェアは東邦電力が六四・四パーセント、信州電気九・五パーセント、長野電気八・七パーセント等であったが、この東邦電力の優位性は役員人事にも反映された。すなわち、長野電気関係者では、花岡俊夫と大岩復一郎が理事に選出されたのにたいして、東邦電力からは、社長・副社長のほか理事に五人が就任した。
なお、長野電気の解散にさいし、外見上、国家にたいする報恩の意味をもつ寄付金(一〇〇万円)も、長野高等工業専門学校(十九年四月長野工業専門学校と改称、現信州大学工学部)創設費として活用され、十八年五月の開校が実現した。
ついで、十六年十月から十七年四月にかけて、電力国家管理は一段と推しすすめられた。各電力会社が保有する既存の水力発電設備やその他の送電線の日本発送電への強制的現物出資が二回に分けておこなわれた。十七年十月になると、東北配電とのあいだで、配電区域の調整がおこなわれ、新潟県域分を東北配電に委譲するいっぽう、長野県域分を同社から譲りうけた。十七年十月から十八年三月にかけて、残存配電事業の統合がすすめられ、この第二次統合によって資本金は二億六二五万円にふえ、本店および長野など五支店が設置された。