戦時下の工業教育は、戦争遂行のための生産力の向上をはかる必要から、高等工業学校の大はば拡充とともに、中等工業学校も技術者養成のための学科の増設や学校の新設が推進された。長野工業学校につづく、岡谷工業学校(旧諏訪蚕糸学校)や松本工業学校もこうしたなかで設立されている。
長野工業学校の学科編制の動きを、国の政策とのかかわりでまとめてみると表18のようである。
十一年(一九三六)三月、県の学則が大幅に改正され、本科に機械電気科・応用化学科・土木建築科が、夜間に授業をおこなう専修科に、機械科・電気科・土木科・建築科がおかれることになった。本科は修業年限四年、定員四〇〇人、専修科は二年、一二〇人であった。入学資格はともに、高等小学校卒業者か中学校二年修了者であった。このほか、工業に関する特殊事項を研究補習するため、工業学校卒業生を対象とする年限一ヵ年の研究生が本科の三学科についておかれた。また、機械電気科には機械仕上と自動車、応用化学科に醸造、土木建築科に測量と家具の修業年限二年(自動車科は一年)の選科生がおかれた。選科生は満一四歳以上の男子・高等科二年を卒業したものを入学資格としていた。
十二年になると、技術者および熟練工養成に関する一般方策により、第二部の開設がすすめられるようになり、長野工業学校では十月に、第二部機械科が設置された。この科は入学資格が中学校卒業または同程度の学力を有するものとされ、修業年限一年で定員は四〇人であった。
さらに、翌十三年三月の学則改正により、本科機械電気科が機械科と電気科とに分離したので一学級増となった。その結果が表19である。これにともなって十四年には電気機械科棟の二階建て、応用化学実験場などの増築がおこなわれている。
十五年四月にふたたび学則の一部改正がおこなわれ、高等小学校卒業程度を入学資格とする修業年限四年、定員四〇〇人の第二本科が、機械・電気・応用化学・土木・建築の五科に置かれた。かわりに専修科が廃止された。卒業生の就職は軍需による好況で、いずれも建設・鉄鋼・造船・化学・機械など軍需関連の大手企業にすすんだものが多かった。
十六年(一九四一)太平洋戦争開始後優位に戦線を拡大したが、ミッドウェー海戦を境に戦局は逆転し、十七年四月には東京が空襲をうけるようになった。戦禍を避けて工場の疎開が始まり、長野市域にも日本無線などが移ってきた。こうしたなかでも工業教育は軍需産業のにない手である技術者養成のために、これまで同様に拡充がはがられた。十六年三月には、高等小学校卒業を入学資格とする第三本科建築科が認可され、四月には二年制四一人が入学した。
さらに、十七年四月には土木建築科が土木科と建築科に分離されて一学級増となり、十八年四月には応用化学科が製造を中心とした工業化学科と改称された。
また、十八年の中学校令により第二部機械科と選科が、十九年二月には第三本科建築科も廃止となっている。この中学校教育制度の改正により、中学校・高等女学校・実業学校の入学資格・修業年限は統一され、国民学校初等科六年修了者が入学資格で、修業年限四年、高等科修了者は三年となった。これにより高等科修了者・修業年限四年という長野工業学校の創立以来の特色ある制度は廃止となった。なお、十九年には国民学校初等科卒業修業年限五年に変更されている。
このような一連の学科の拡充・課程の多様化とともに、生徒の学校生活にもつぎの三点の変化がおきていた。①天皇・国家への忠誠意識を高め自覚を促すための軍事教練の活発化と配属将校の発言力の強化、②十三年四月の「国家総動員法」による集団的勤労作業、③十六年度からの繰りあげ卒業、であった。
勤労奉仕も初期は、応召家庭の農作業、社寺の清掃・設備修理、軍用施設の整備作業などであったが、しだいに学徒工員として工場への勤労動員による軍需品生産や学校工場での武器部品の生産、校庭の開墾等の作業がウェイトをしめるようになっていた。『信毎』紙上にも、十九年五月には実習場を工場として学窓即工場の一体化を実現するため五〇台の旋盤を四年生の手で組みたてていること、また、五月下旬からは日曜返上で午前八時から午後四時半まで、授業は教練と実業学科のみ一日一時間、他は自学自習、電気科では移動勤労報国隊も組織され、三年生が自動車解体作業を移動しておこなっている姿などが報じられている。
工業の指導・改良施設の設置は市や県の力で進められた。やがて精密機器工業を中心とした振興政策がとられるようになり、とくに工業技術者や熟練工の養成が急がれた。松本市・岡谷市と誘致を争った「長野県工業試験場」は長野市に決定した。建設位置については、県と市との協議で若里の鐘紡工場北方の五〇〇〇坪を選定することに決定していたが、市会で反対意見が出たため市では保留とした。市会では改めて工業誘致委員と土木委員の手で、①新国道九反地籍、②鉄道工場東方七瀬地籍、②若里の三ヵ所の候補地について実地調査をして協議した。しかし、紛糾したため投票によって決着をはかったところ、原案とは異なる七瀬地籍と決定した。この混乱の背景には、市が委員会にはからず独断で県と相談して決めたことへの不満と、買収費が若里より七瀬のほうが安くすむことを理由にした議員間の縄張り争いがあった(『信毎』)。この市会の決議にもとづき、県に陳情したが県では、すでに姫塚付近に決定したので変更は困難と答え、既定方針どおり若里の鐘紡工場北方の地ですすむことになった。
こうして長野県長野工業試験場は、十四年四月に商工水産課内で業務を開始した。職員は野田場長のほか、商工技師・商工主事補・検査員各一、検査補助員七の計一一人であった。
十四年八月から三五万円の経費をかけて、若里五〇〇番地(現、信大工学部の位置)に建設していた工業試験場は、第一期工事の終了をまって十二月三日、鈴木知事・高野市長・県議・市議・場長らが参加して開所式をおこなった。建設にあたっては、緊急に必要とされる鋳物・機械・化学等の工業に主力を注ぐため、国の補助三万円、地元長野市から建設費半額補助と敷地五〇〇〇坪の寄付を仰いだ。鋳物・機械の両部門がまず完成したが、つづいて五万五〇〇〇円を投じて、木工部・鉱石分析室も設けることになっていた。繊維・染色を担当する松本工業試験場とともに、長野工業試験場は大きな期待をかけられて誕生したのであった。
同時に併設開所した長野県長野機械工訓育所は、十七年七月機械工養成所と改称し大量養成にのり出した。長野では鉄工科・旋盤科など四科があった。入所は一四歳以上、品行方正、意思堅固、身体強壮な男子五〇人収容で、一年間の修練制で、四月と十月に希望者を募ることになっていた。
太平洋戦争への拡大と、米機の空襲などにより、軍需工場の分散化計画により工場の疎開が始まると、県は長野県工業化計画要綱を発表し、遊休中の製糸工場を活用して航空機・精密測定器・光学機器などの受けいれをすすめたので、工場数は急増し、部品加工工場を中心に終戦時には一五〇〇に達するほどになった。