昭和恐慌以後の経済界不況は、中小商業者の経営困難に拍車をかけ、養蚕製糸を主要産業としてきた長野県でははなはだしいものがあった。長野市でもまた甚大な影響をうけ、この更生をはかるのが焦眉の問題となっていた。その一環として、昭和十一年(一九三六)から十二年にかけて、長野商工会議所は県外からの観光客誘致のため、鉄道列車の利便をはかろうとした。
長野地方では四季を通じて、善光寺参詣客を主として、登山に温泉に、冬のスポーツに、年とともに観光客の数が増え、かつ、産業との取引関係においても鉄道を利用するものが増大していた。そのなかで、中央線を利用して関西・名古屋方面からの乗客が増えていた。したがって、それらの方面との関係を発展助長することは、当地方にとってもっとも重要なことであった。
長野商工会議所会頭・長野電鉄社長・長野市長は、信越線高原列車に準じて、名古屋・長野間に、昼開運転する急行列車を新設するよう、鉄道省に陳情した。
このほか、東京・大阪方面との貨物列車運転、新潟・長野間の昼間急行列車新設や列車のスピードアップに関し、鉄道省を訪問し陳情した。長野駅仕立ての東京・大阪方面行き貨物列車は前者は大宮駅、後者は稲沢駅止まりで、輸送時間の短縮が課題とされており、貨物増加と取引上の利便から、両方面への貨物直通列車を新たに運転し、スピードアップをはかるねらいがあった。この列車の増加は長野駅の拡張問題にまで発展した。日中戦争勃発で一時中止状態にあった長野鉄道工場の移転改築問題は、その後、戦争の本格化にともない、各種生産の拡充と交通量の増大等によって、政府が各地に鉄道工場の新設と拡張計画を立てていた。これを好機として、会議所と長野市は共同で移転改築実現の猛運動をくりひろげた。まず、十四年三月と八月の陳情ののち、十二月六日、神津(藤平)会頭と高野市長の連名で鉄道大臣あてに、移転改築用地負担の用意がある旨の陳情書を送付した。
その要旨は、「長野鉄道工場は現地で一部拡張改築がおこなわれるようであるが、現在の敷地では鉄道の発展にともなう鉄道工作の要求にそうことはできない。したがって、長野市内のもっとも適当な地に移転建築し、あわせて長野駅構内の大拡張をも実現することは鉄道本来の目的にそうものである」というものであった。
日中戦争前、新潟県側から長野県に呼びかけて実現運動を起こした直江津の築港問題もその後進捗していなかったが、戦争勃発に刺激されてふたたび地元直江津町と高田市が実現運動を起こしはじめた。そこで、長野商工会議所でも信越線に重大な関係をもつ同築港の実現に本格的に乗りだした。神津会頭、今村(清見)理事その他関係の交通、商業両部会員等が現地視察かたがた直江津町へ出張し、両県関係者の協議会を開くことになった。同築港が実現すれば、それまで新潟港を経由していた満州移民等は直江津から乗りこむことができ、また、比較的軽視されていた信越線も「日満支」連絡上、旅客・貨物の急行便増加もしくは新設などが考慮されていたので、実現が期待された。
こうして、長野商工会議所はあらゆる機会をとらえて、更生・振興につとめてきたが、いっぽうで、地元各商業者・店舗にたいして膝をまじえて話しあう機会が少なかったので、会社組織を更新し、経営方法を改善しようにも、その方法に迷い、金融の方途を模索する商業者の相談に応じる必要があった。この中小商業者の実情にかんがみ、その助成指導機関として、十一年八月、商工省に長野商業相談所の設置を申請し、十二月に開所された。なお、翌十三年には商工相談所に拡大した。その後、同相談所は戦時色が強まるにつれ、各種商業組合と工業組合の設立を推しすすめた。一例として、長野市では洋服加工業者によって設立された長野市洋服商業組合はあったが、既製洋服小売業による組合はなかったので、設立の指導をした。
長野商工会議所では、長野市内のおもな商業組合二〇種を業種別に店主数二二一三人、従業員数七一七八人について、転失業状態の調査をおこなった。それによると、十四年度にくらべて十五年度に業者数の増えたものは青果商のみで、全体では一年間に七二一人の従業員が減った。このなかには家族で商売の手伝いをやめたものもふくまれていたが、転業者で転業先の明らかなものは、重工業方面五七人、満州移民一九人、日雇業一〇人、合計八六人(店主四九人、従業員三七人)であった。
転業しないで残った商業者には、商業道徳を高める運動と勤労奉仕が待っていた。長野商工会議所では、厚生省と県の後援によって新商業道徳樹立のため、十六年七月、神林温泉(下高井郡)の三光道場に商店道場を開設することになった。受講者は市内の中堅商店従業員で組合推薦者約一〇〇人を選び、日本精神からはじまって、大政翼賛運動、新商業道徳の道を説き、商報運動、商店法、商店経営、時局と統制経済、時局問題等経済国際問題におよび、講義のほか心身鍛錬運動もあって新しい商業道の「配給戦士」の錬成をおこなった。
いっぽう、商業報国会長水支部主催の労務報国隊の送出はつぎのように実施された。第一回目は十六年九月一日出発、同月十日帰長で昭和電工大町工場にたいしておこなわれた。第一班長野菓子工業組合九人、長野市洋品雑貨小売商業組合一人、第二班長野市飲食店組合一〇人、第三班北信織物外商商業組合五人、長野市洋品雑貨小売商業組合一人であった。つづいて、第二回は同年九月十日出発二十日帰長、第三回九月二十日出発月末帰長となっていた。
昭和十六年二月に商工会議所議員選挙がおこなわれた。長野実業組合連合会において選挙委員会が組織され、各組合から推薦された候補者について、委員会で三二人を推薦した。議員候補者は選挙に向けてつぎのようなことを申しあわせた。①選挙事務所は選挙場より三町以内の場所、宿屋・料理屋・飲食店等大衆の出入りする場所は避けること、②選挙運動者を使用する場合は一候補者につき三人以内とする、③戸別訪問、個別面接、電話による選挙運動等をしない、④議員候補者、有権者、その他選挙関係者を交えた宴会はなるべくさけること、などであった。二月二十日の選挙には、九九七人が投票し、同日、三二人が商工会議所法第一二条第一号議員として当選し、このほか重要商工業推薦の(同法第一二条)第二号議員として、長野電鉄、長野貯蓄銀行、長野電気等が届けだされた。
商工業の発達育成を目的として全国各地に設立されていた商工会議所は国家の戦時的要請に組みこまれて、十八年三月公布の商工経済法にもとづき商工経済会となった。戦時下ではもはや、従来の商工業者個人の繁栄や改善発達の目標は否定され、産業間の円滑な連結をはかるために、会議所は解体された。経済会の使命は、食糧増産拡充への推進隊である各種勤労隊・労報隊の結成、満州開拓村の建設、各種組合の設立指導、企業整備の円滑な進展、これにともなう転廃業者の職場斡旋等であり、会頭らは職場で「戦場精神」を発揮し、これらの諸問題を処理しなければならなかった。
長野県内には五ヵ所の商工会議所があったが、商工省は長野県の商工経済会設立を十八年九月八日付で認可した。九月二十日になって、長野市の旧会議所に県単位の経済会が設立されたことによって、県内主要地域に支所が設けられた。商工経済会会頭には長野電鉄社長神津藤平が任命され、事務局長今村清見(前長野商工会議所理事)らによって運営された。
こうした時代の要請にともなって、それまで当会議所で経営していた長野商品陳列館は、長野県商工奨励館と改称され、戦力増強の一助となるような資料を収集し、一般の参考に供するとともに、商工業の改善発達に資することになった。資料収集については、とくに地下資源に力を入れ、長野県工業界との連絡のうえ、県民の地下資源への関心をうながした。