日中戦争勃発後、昭和十三年(一九三八)にはいると、企画院が物資動員計画を策定し、四月からは国家総動員法が公布された。戦争遂行を目的とした人的物的資源の統制、諸物資の製造制限、販売・配給統制がはじまった。
十三年五月一日から実施されるガソリン販売のチケット制度の実施を一ヵ月前にひかえて、ガソリンの専任巡査が県内各警察署に配置され、消費を取り締まることになった。料理屋のガソリンこんろをはじめとして、一度に一リットル以上のガソリンを買いいれるには、事前に購買チケットを求めなければならなかった。このチケットはガソリンの消費量を約三割節約するためのもので、一年前にくらべて三〇パーセント、ガロン(三・八リットル)六六銭にまで騰貴した。県内バス業者は、車の発車時に要するガソリンをいくらかでも節約しようと、五月一日から停留所を設け、停留所以外はノンストップを申しあわせた。これによって、従来のように客が路傍で手を上げれば乗車できた慣行はくずれた。ハイヤー営業所では、袋小路への乗りいれお断りを決議した。このため袋小路の料理屋では玄関横づけができなくなり、天気の悪いときなどには芸者衆など困惑し、商売に影響した。
長野市米穀小売商業組合では共同配給組合を設立し、十五年八月一日から市内消費の米を全部同組合を通じて配給することになった。この組合組織は、既存の米穀小売業者の個人経営を根本的に解消し、強固な配給統制によって米穀配給の公平を期そうとするものであった。
その手だてとして、同市米穀商業組合統制区を旧市四地区(桜枝町、東町、岡田町、緑町)、新市三地区(吉田、古牧、芹田)に分けて、七つの共同配給組合を設立した。この地区内に店舗をもつ精米小売業者は一丸となって、共同精米所を設立し、ここからいっさいの白米を消費者に配給した。組合員は各自の所有する精米機を取りはずすことを条件とし、さらに従来の配給先の売掛金、その他営業上の権利義務いっさいを配給組合へ譲渡した。
市同組合の運営はつぎのように合理化され、利益が配分された。まず、出資の方法として、従来各商店が取りあつかってきた玄米一ヵ月販売高八俵を標準に、一口一〇〇円(一俵一二円五〇銭)と定め、資金一五万円で市内七ヵ所の配給所から配給業務をおこなった。このため従来、一五五人が四一台の籾摺(もみすり)機と七九台の精米機をつかって精米していたが、これを全部取りはずして、かわりに配給所に一六台の高性能精米機を設置し、その他配達等も能率的になって労力は半減した。
組合員の出資(総額一五万円)と労務状況をみると、出資のみで配給労務にたずさわっていないもの(ほとんど従来、兼業者)が七二人おり、組合員のうちで労務従事者と非従事者の割合はそれぞれ約半々をしめていた。七ヵ所の配給所の純利益合計は、一ヵ所平均一六〇〇円になっていたが、このうち、転業積立資金を差しひいた一五三〇円が一五三人の組合員に配当された。その金額は出資割四〇パーセント、実績割四〇パーセント、平均割(人頭割)二〇パーセントの割合で案分された。
産業組合は四種兼営が普通であるが、県庁職員で組織されていた長野市内の高嶺購買組合は消費組合で、配給をなくしたらその存続はたちまち困難になる。高嶺産業組合は米の配給所として認められるが、配給区域が限定されると、すでに産業組合の役割は無に等しい。すなわち同組合員三〇〇〇人は市内に散在しているため、組合員であっても区域外のものに配給することはできなかった。そうである以上、組合員としての意味がなくなった。
このように、統制経済はいっぽうで、つぎの四分野にみられるように、商業・流通上にさまざまな問題や課題を引きおこした。
第一に、飯米の代用食については、さきにめん類の公定価格を設定し配給をはじめたが、長野市の十五年九月分の配給量は三九〇〇貫(一四・六トン)で、米穀商業組合を通じて八万人の市民(消費者)に配給されるはずであった。ところが、青果商が市内の魚商、乾物商、食糧品商をまとめて、従来の実績を盾に市に配給の分担を迫ってきた。市もこれを認めざるをえず、米穀商組合を加え長野市めん類共同配給組合を結成して業者別に七八〇貫ずつ分配したために、めん類の自由販売がおこなわれることになった。
従来、これら業者の販売した実績は、みやげ品・嗜好品・贈答品として製めん業者が任意に作ったものを店頭で売っていたもので、統制経済下では市民の重要食糧となっためん類の自由販売を許すことは、観光客の手に渡る危険性が生ずるため、米穀商はおおいに憤慨した。
第二に、十六年十月から農産物の一定限度以上の自由販売はできなくなった。県では生産地では郡を単位に一つないし二つの蔬菜、果実の出荷団体をつくらせ、これを通じて一切の青果類の販売をおこなうことにした。出荷団体は原則として生産者で組織して団体員以外のものは出荷できないことにした。また、生産物の出荷には県農会があたり、どの都市にどのくらい、どの消費地には何箱と、出荷の指図をおこなった。いっぽう、消費地では一定の消費区域をきめ、この区域ごとに従来の市場、青果卸業者を合同させ、一つの荷受団体を作らせる。この結果、出荷区域の郡と郡の横の連絡が絶たれ、郡から他の郡への出荷ができなくなった。たとえば更級郡の商人が長野市でりんごを買って更級郡下で売りさばくことはできない。長野・上水内郡下のりんごは出荷団体を通じなければ郡外へのもちだしが不可能となった。
長野市では従来の三つの青果市場と卸業者が合同して十月中旬から資本金一八万円の長野青果配給統制会社を設立し、いっさいの市内配給(一元的販売)をまかなうことになった。しかし、こうした統制組織ができても抜け道があった。すなわち、青果業者は消費地域内なら統制によらない自由販売が許されることになっていたので、資力ある業者は、直接生産地に買いだしにいき、買いあさった。農家にしても荷受団体(市場)へ出荷するより直接、業者に売ったほうが市場に手数料を取られず、そのうえ運賃も要しないので、買いだしにくる業者に売った。組合では統制を機会に整備をねらったが、腰くだけの状況になった。
第三に、長野市内の砂糖配給は切符制実施以来、円滑におこなわれてきたが、店によっては現物の不足をきたすことがあった。同市砂糖小売商業組合ではこの弊害を一掃するため、十五年九月十日から全国的にもはじめてといわれる手数料のプール制を実施した。これによって消費者はどの店へ行っても購入することができるようになった。普通の例では昭和十三年、十四年度取扱実績によって配給量をきめたのであるが、同市では県の希望もあって、切符制実施当時による実績主義によった。すなわち、十五年十月、小売業者は市役所から無記名切符六ヵ月分をうけ、第一ヵ月目は自由購入者の氏名をそえて卸商に申告、配給を受けると同時に購入者にたいし、六ヵ月分の自店名入り切符を発行した。
ところがその店名入り切符も四月で期限が切れたため、ふたたびここに新たな実績をつくり、それによって店名入り切符六ヵ月分を発行しなければならなくなった。この切りかえ期を好機として各小営業者は、販売実績を高めるために隣組長にまで働きかけて顧客獲得に大わらわとなった。この方法は、消費者がもっとも買いやすい店から買えるように、従来の因習的売買関係を徐々に是正するいっぽう、そのときどきの店の能力をひきだすところから出発したものであった。しかし、切符の切りかえ時ごとにこのような顧客獲得合戦を演じたのでは、同業者間に摩擦を生むこととなり、せっかくの良心的配給も課題を残すことになった。
第四に、衣料品が点数制となって十七年二月から実施されたが、二月から一ヵ月間の点数調査をおこなったところ、総点数一九万六〇〇〇点(売上高一二万円)となっていた。このうち、約六〇〇〇点を農村地区の人びとが買っており、残りの一九万点を市民が消費していた。つぎに市民の一ヵ月の消費実績をみると、日がたつにつれて、切符を大切にする傾向がみられ、消費の減少は明白であった。また、切符が郡市部とも共通となっていたため、農村から市街地へ買いだしにくるものが約二割をしめており、その分だけ市街地の衣料品が農村に流れだしたとして、この食いとめ策が問題となった。