善光寺白馬電鉄(通称「善白鉄道」)の前身には、経営陣や名義上から、「鬼無里鉄道」、「長北電気鉄道」、「北長電気鉄道」とよばれる三つの異なる時期があった。
大正八年(一九一九)六月長野商工会議所では、長野駅を起点に茂菅、柵(しがらみ)、鬼無里を経て北安曇郡北城村(白馬村)に達する「鬼無里鉄道」の布設を企画し、議員一同を仮発起人と定め専任委員には荻原要吉、小林文之助ら七人をあげた。そして同年十二月までには実地測量も終え、総経費一三〇万円、資本金五〇〇万円くらいの株式会社として、近く総会の決議を経て、委員全員が発起人となり布設許可の申請を出すことにした。その意図は「目下計画中の信濃鉄道延長の大町・糸魚川間が開通すれば長野から北陸線との距離もおよそ三〇哩(約四八キロメートル)短縮され、また鬼無里山中に生産する木材や鉱物等の輸送に利便である。すでに鬼無里とはすべての了解を得て地元はもちろん県内外共に株主を募集する」というものであった。
これによれば、のちの善光寺白馬電鉄(以下、善白と略称)の基本構想はすでにこのときに描かれていたのである。しかし、この計画は資金が集まらず中止となった。
この計画とは別に、大正十一年(一九二二)二月現信州新町近辺の尾沢県議ら資産家有志が、長野・大町(大町市)間の犀川土尻川添い軌道電車布設を計画したり、また、翌年一月には尾沢県議を発起人代表として長野・飯田(北安曇郡白馬村)間のうち長野市から上水内郡新町までの軌道鉄道布設を計画するなどの動きもみられた。
大正十四年十月長野市の吉岡関太、塚田嘉太郎ら有志は、長野・北城村四ツ谷(白馬村)間の鉄道開設を計画し、期成同盟会を組織して具体的作業をすすめることにした。同年末までには測量も終わり十五年八月三日の発起人会で「長北電気鉄道」と名づけ、全長二二マイル(約三四キロメートル)、総工費二五〇万円として、沿線一市六ヵ村長の賛同を得たところで鉄道省に布設営業認可の出願をした。
資本金の募集には吉岡や羽田長野市助役らが奔走し、県外では渡辺銀行ほか数人の投資者をえたが、地元はもちろん沿線の各地では思うように集まらなかった。けれども昭和二年(一九二七)一月丸山市長や小林・左治木商工会議所正副会長らは主務省にたいし認可促進の陳情をした。ところが渡辺銀行が不況の波で破綻し、六月には同時に委員長秋月子爵も手を引くことになった。それでも二年十月鉄道省の認可が近日中におりる形勢になったので、この機会を逃してはと、これまでの資本主や委員長、出願人の名義を変更し、さらに会社名も「北長電気鉄道」と改めて、十月十六日発起人総会を開き、丸山市長以下二八人の創立委員を決定した。翌十七日の発起人協議会では、資本金を四〇〇万円とし、うち二〇〇万円を後援者、一五〇万円を長野市、五〇万円を沿線有力者として募集の割りあてや分担をきめた。その一ヵ月後の二年十一月十六日には長北電気鉄道(前の会社名)の「布設と営業」が鉄道省から認可され、同時に「工事着工認可の申請を昭和四年十一月十五日までにするよう」条件が付されていた。
二年十二月には「北長電気鉄道株式会社設立趣意書」を、中央をはじめ県内外および地元有力者に配布し資金の募集に奔走した。趣意書の内容は、かつての「鬼無里鉄道」のものをわずか広げた程度で大筋は踏襲するものであった。北長電気鉄道の資金募集は三年六月ころには、東京方面の額が一七五万円ほどになりほぼ見通しがつき、発起人総会を開いて会社設立の運びとなった。
昭和三年七月八日発起人総会を開き、東京栃木方面の代表をはじめ約五〇人が参集した。座長に草津鉄道の河村社長を推し、定款の改定、創立委員の選任、株募集方法等を協議した。委員には座長の指名により二九人が決定し委員長には子爵山ノ内豊秀が指名された。この定款で鉄道および会社名を「善光寺白馬電鉄株式会社」と改称し、創立総会に提案することにした。そして目的については、①戸隠神社や裾花峡の名所旧跡をおりこんだ遊覧電車としたり、②飯綱高原を地元から無償で提供をうけて開発し、東洋に誇る大避暑地とする、③会社がわの希望により会社経営の大ホテルを建て巨費を投じてゴルフ場をはじめ各種遊技場をつくる等であるが、このあと長野市にたいし四〇万円の補助金交付を要請した。
この補助金問題は、これ以後市議会をはじめ地元長野市と沿線各村等が、いりみだれて賛否両論まとまらず、市当局は苦しい立場に立たされた。賛成論は、「市がかつて近隣町村編入合併の際に、条件として布設した長野電鉄(長野・須坂間)にたいし、補助金交付をした前例にならう」としたが、反対論は、「善白はそれには相当しないとして、①減額説、②皆無説、③確実な会社による工事着手後に相当額を交付する」などであった。けっきょくこの市会では「工事完成の暁から一五年間継続支出で四〇万円を補助する」ことを決議して一応のおさまりをみた。
四年(一九二九)五月には、長野商工会議所実業組合連合会、区長懇話会、市政研究会、中山部同郷会等の各代表および市会側から正副議長、参事会員三十余人が、善白電鉄助成会を創立した。この助成会の働きにより、資本金を減額して創立を急ぐことにし、四年十一月十日創立総会が開かれここにようやく善白の正式成立をみた。このときの主な決定事項はつぎのようである。
定款改定 社名は善光寺白馬電鉄株式会社
資本金二〇〇万円
社長 立見豊丸 (東京)
副社長 左治木清七(長野)
常任取締役 吉岡関太 (長野)
取締役 利根川久衛(東京)
同 中原岩三郎(東京)
監査役 笠原十兵衛(長野)
同 岩下友雄 (長野)
こうして困難をきわめた工事着工の認可申請も、主務省の条件期限となっている同年十一月十五日前にようやく提出することができた。助成会は、このあと「善白電鉄達成会」と改称し、会長に丸山市長、副に羽田助役と船坂市議会議長が推され沿線各村長を市会長として、ひきつづき活動することになった。
善白の工事申請は五年(一九三〇)十一月八日長野・鬼無里間が認可となった。請負業者は山陽工業会社に決まり、五年十二月四日松嶋地籍の裾花河畔(現県道松島トンネル対岸)で起工式(写真34)をあげ、とりあえず柵村土合までの工事に着手したが、いくつかの難問題が派生した。市が昭和六年度予算の編成にあたり補助金交付問題の再燃である。さきの市会決議を変更して昭和六年度から直ちに補助金交付を開始してほしいという運動である。加えて十二月には妻科地籍の地権者がわから「土地代三万円に対し直ちに三千円を支払うとしながら未だに支払わずに、会社がいっぺんの交渉もなく切り取り工事を開始した」と憤慨の抗議がでた。この問題はかなりこじれて訴訟問題となり長い審理がつづいた。その理由は、六年に入って経済界不況のため予定の資金が集まらず、請負業者を窮地に追いこんだことにあった。そのため工事労賃の支払いが滞り労働争議も起こり、警察の介入により市や会社などに厳重警告も出された。この資金調達に関しては一部市理事者の辞職問題などもあり、市民のあいだに異常なセンセーションをまき起こした。このようななかで市民の目も市や会社への不信と工事の遂行を危ぶむものも出て、地元新聞紙上では工事の中止を訴える論調もみられた。
それでも工事は、六年十一月末までに、八幡川(妻科)から善光寺温泉にいたる約四マイル(六・四キロメートル)のうち八〇パーセントが竣工し、四つのトンネルも完成、裾花川に架かる橋の橋脚もあと二ヵ所を残して七ヵ所が竣工した。しかし、これらの工事はきわめて難工事で、経費は初めの予算をはるかに超えてすでに五一万余円が投資されていたが、資金の調達は依然困難で請負業者の窮状は増大した。
そこで、六年十一月二十八日の市会では、突如日程を変更して善白にたいする補助金交付の意見書を議題とし、賛否議論のあと一七対七の多数で、「鉄道の一部が完成の際に市の財政に応じ適度の補助金を交付する」ことを決議した。しかし、この内容では窮地にある善白の前途をいっそう追い詰めることになった。また、同年十二月に入っては、岡田から妻科沖へかけて、善白の線路敷と都市計画の道路敷が重複する事実が判明し、両方とも異なる主務省(内務省と鉄道省)の認可済みのため、簡単には解決がはかれない状況がつづいた。
こうして、同年十二月下旬に開かれた株主総会でも更生は困難で、善白も自然解散かと予想された。七年五月の市会で、十六年度まで毎年約一万五〇〇〇円の補助金交付を決議はしたが、会社が引きつづく不況のため資金資財の調達ができず、また市内部でも政党関係の紛争がおこり、さらには多くの救済事業や都市計画事業等に追われて、このあと二年半余り善白の工事は中止の状況となった。
工事中止後は、東京の伴裕之が社長に就任したが、依然資金調達は困難であった。そして九年八月ふたたび長野・善光寺温泉間の第一期工事に着手するため、妻科地籍の土地買収について交渉を重ねたが、地主側はやはり「見積もり価格三万円全額の即時提供」を強行に主張し交渉は進展しなかった。
九年(一九三四)九月善白は、伴社長を残して重役は責任をとって総辞職し、長くつづいた訴訟事件も同年十月には審理も終了した。十二月伴社長は裁判所を訪れ「第一期工事は独力で責任をもって必ず予定期間(十一年十一月二十八日まで)に完成させる」と契約し、ここに懸念されていた中心の資金問題が解消された。そこで発起人総会を開き新重役として、相談役宮下友雄ら四人、取締役羽田重一郎ら一三人、監査役北村助之進ら九人を決定し、この陣容で再度用地買収と工事に着手した。十一年十一月中旬には、予定の第一期工事南長野駅と善光寺温泉東口までがほぼ完成した。これにより十一年十一月二十一日鉄道省の運輸営業認可があり、同二十二日には待望の開通式となった。式は起点の南長野駅構内でおこなわれた。
戸隠までの延長工事五・一キロメートルについては、十一年度以降年額約五万円の政府補助が交付されることになり、用地買収、土工、隧道など一部は済んだが、これも日中戦争の影響で資金資財の入手が困難となり工事はまたも中止となった。その後、工事の促進に努力し昭和十六年十一月裾花口駅(図1)まで一キロメートルの延長工事を再開し、十七年十二月十七日運輸営業認可があり、同二十六日運行を開始した。
裾花口駅は、芋井発電所と並んでおり、裾花峡を示す立岩とよばれる大絶壁が目の前にそびえる景色のよいところである。車両はガソリンカー二両で、日本車両会社東京工場が造った最新式鋼鉄ボギー車であった。流線型の長さ一二メートル、幅二・七メートル、高さ三・七メートル、外部の塗装は最初あめ色(小豆色)であったが、その後塗りかえて上半をオームグレーライト、下半をオーバーランドブルーにした。定員六六人(多いときは一〇〇人くらい乗せた)、二両が交替で運行していたが、ほかに貨車が二両あった。
乗客数は予想外に多く、通学者、温泉客のほか戦時下の軍事工場等への通勤者もあり、ときどき臨時増発をするほどであった。会社職員数は三五人くらい、一日往復一三回くらい、所用時間は全線で二〇分くらい、運賃は初め長野・善光寺温泉間一八銭であったが、裾花口まで延長になってからは二五銭(ときどき変更があり一定ではない)であった。
太平洋戦争の戦況悪化により政府の「企業整備令」発動があり、昭和十九年(一九四四)一月十日限りで善白は営業を停止し、鉄道を解体のうえいっさいの資財を軍事供出させられた。そのため沿線の通勤者や住民はバスの増発を県へ陳情したり、善白も鉄道の跡地を改修して二頭馬車の専用道路計画の申請準備をしたが、その実現をみることなく終戦となった。
戦後、会社は経営陣がかわり鉄道の復活を申請したがかなわず、線路敷地の処分をつづけた。いっぽうでは同列会社の現長野運送(十八年創立)とともに主に運送会社として営業を継続し現在にいたっている。この間昭和四十四年(一九六九)裾花ダムの建設にともない、同年七月三十日鉄道運輸業務は正式に廃業した。