世界で初めてライト兄弟がガソリンエンジンの飛行機を飛ばしたのは、明治三十六年(一九〇三)十二月である。この飛行機は複葉機(二枚主翼)で一六馬力エンジンを使用し飛行時間もわずかに一分間であった。日本では同四十三年(一九一〇)十二月代々木練兵場で日野大尉がグラデー式単葉機(一枚主翼)で高さ一〇メートル、距離六〇メートルを飛んだのが最初である。
長野市民が市内の広場で飛行機が飛ぶのを初めて見たのは、大正元年(一九一二)十月である。長野市権堂町山口屋に事務所をおく、主催の信濃飛行会(事務取扱者平山惇一郎)と賛助の信濃毎日新聞社とが同年十月に、民間飛行家の都築鉄三郎による「飛行機大会」を市内城山広場で開催した。都築は岐阜県生まれで明治四十四年三〇歳のとき、都築式一号機を完成し所沢飛行場で高さ数メートル、距離六〇メートルの初飛行に成功し、さらに翌年五月には、ドイツのルングラー単葉機を模して二号機を完成した。このころの飛行機はまだ長距離飛行はできなかったので、飛行機は解体して鉄道院による飛行機運搬の専用貨車(運搬費用八〇円の相場)で運び、現地で組み立てるという簡単なものであった。解体・組み立てには最低二日ずつ計四日間もあればよかったが費用もかかることから、観覧料は普通一般二五銭、特別三五銭、小人一五銭、中等学生団体一二銭、小学生団体八銭であった。大会の開催は予定より一週間おくれて十月二十七日と二十八日であった。初日は官民有力者教育家数十人を招待しての試運転、翌日は一般への公開であった。当日の団体申しこみは、長野師範学校三〇〇人のほか、小山、井上、須坂、御山里、宗賀、西条、氷鉋、芹田、三輪、古牧、柵、都住、西寺尾、大塚等の小学校、長野商業、下高井農商、上高井農、中野塾その他十数校があり、入場者は数千人にのぼった。しかし、この城山会場は狭く、二日間とも飛行は数十メートルの滑走だけ、時間は二秒にすぎなかった。
十一月三日には、信濃毎日新聞社が主催で、場所を丹波島橋の東寄り芹田村川合新田の法京道(現長野赤十字病院付近)一帯の田畑を整地して都築鉄三郎による「飛揚公開」を無料で開催した。これはその名のとおり「飛揚」すなわち滑走ではなく、空を飛ばせて見せるものであった。第一回は滑走の往復で終わり、第二回は滑走約一〇〇メートルのあと飛行機は三メートル半の高さを飛んで着陸した。第三回は約六〇メートル滑走のあと離陸し、約四〇メートルに上昇、二三〇メートル余りを飛行した。
大正三年(一九一四)第一次世界大戦が始まると、諸国の飛行機生産と性能向上への関心が高まり、日本も例外ではなかった。陸海軍の軍用機だけでなく、民間企業でも飛行機の組み立てや生産が始まり、飛行機の飛ぶ姿が多く見られるようになった。
長野市でも、大正五年五月二十八日、諏訪岡谷地方の信濃タイムス社主催で現地組みたてによる、長野、須坂、屋代間の連絡大飛行大会が丹波島橋東寄りの中州を会場にしておこなわれた。飛行士は伊藤音次郎、機体は恵美号とよばれた。当日は三会場に延べ数万人の群衆が集まった。午前は長野会場からおよそ五〇〇メートルの高度で千曲川布野橋(現村山橋やや上流寄り)付近の着陸地をめざしたが、燃料の調子がわるく、着陸せずに丹波島に引きかえした。この間一八分という。午後は燃料を入れかえてやはり五〇〇メートルの高度で、屋代の千曲橋付近の会場にいたり着陸し、三〇分間飛行機の説明をして丹波島に引きかえした。松代町の矢沢頼道は当日の日記に「二十八日、頼忠伴ヒ丹波島河原ニ於テ挙行ノ飛行機参観、帰途町田氏ヘ立寄ル酒肴ノ饗ヲ受ク」と記している。
大正六年七月十七日にも、同じく丹波島西方河畔一帯の広場に滑走路をつくり、アメリカ人アート・スミスによる宙返り・キルク抜き・横転などをおりこんだ一〇分間におよぶ大曲芸飛行がおこなわれた。これらの飛行大会により長野市民の飛行機への関心もしだいに高まっていた。
昭和六年(一九三一)六月十日、長野市の都市計画案は内務省の認可となるが、その事業案の一つに「長野飛行場用地買収」があがっていた。これ以後市では、都市計画の常任委員から委員をあげ飛行場設置の計画推進にあてることにした。
同年七月、松本市の長谷川飛行士を招き候補地三ヵ所の調査計画をたてたり、八年五月には市議会から「飛行場建設委員」七人をあげて本格的に設置にむけ調査研究することになった。委員会があげた最初の候補地は、大豆島、朝陽、柳原の千曲川筋と若槻村であった。同年八月二十三日から二日間、下志津(千葉県)飛行学校教官の下田少佐を招聘し、委員の案内で調査にあたった。その結果、第一候補地は大豆島から朝陽村へかけた桑園地帯、第二は飯綱原一の鳥居付近、第三は川合新田南の犀川べりとした。
昭和九年八月、市ではさきの三ヵ所候補地のうち、飯綱高原開発の一方策として飯綱原を第一候補として、芋井村と敷地提供の交渉をしていた。ところが芋井では、一の鳥居南方地域三〇万坪の村有地提供について、「この地域は農林省の観光造林地帯になっている関係上、補償料として一万五千円を要求」し提供を断るとしていた。これにたいし市は一万円を限度として意見が合わずいきづまった。
同年七月、逓信省は、向こう一〇ヵ年計画で全国の主要都市を結ぶ大がかりな民間航空路開設案をたて、初年度分予算四九万円を決定した。この計画には、東京・長野経由新潟線と大阪・富山経由長野線の二線がふくまれていたが、長野飛行場設置が万一遅延し十月一日までに完成しないときは富山までというものであった。
このように、中央の航空情勢が長野飛行場設置に拍車をかける状況にあったが、時あたかも市では、市長選挙の問題で紛擾がおこり、飛行場建設問題は一年近く棚上げになる状態がつづいた。
昭和十年五月、ようやく市政の内紛も収まりをみせたところで、市はおくれた土地確保に本格的に取りくむこととなった。未解決の芋井村飯綱高原の土地問題は一時凍結することにして、飛行場委員会は、その手始めに新潟、青森、仙台、富山、大阪、名古屋などの先進都市を四市議が二手に分かれて視察し、飛行場建設の実現にのりだした。ところが土地問題は予想外に地元の反対が強く、これから約一年半、二転三転候補地をかえることになったが、いずれも困難をきわめ容易に解決にはいたらなかった。その間候補にあがった場所はつぎのようである。
①柳原村、大豆島村、飯綱高原
②柳原、朝陽、大豆島、安茂里、青木島、稲里、今里
③青木島と真島村の丹波島寄り地籍
④若槻村田子東条地籍の約二〇万坪
⑤大豆島、柳原の適当な場所
⑥大豆島、朝陽村地籍約六万坪
昭和十一年九月三日飛行場調査委員会は、絶対反対の大豆島・朝陽村をあきらめ、三転して川合新田村落と松岡村落の中間地域を候補地にあげることになった。翌四日まず川合新田の地主代表および正副区長と折衝を開始した。
藤井市長は上京し、逓信省には経過を報告して今後の手続きを打ちあわせた。また都市計画の主務省である内務省には今後の土地買収の方策について相談したところ、同省では「都市計画予定地である川合新田の場合には都市計画法によって進めるがよい」との意向を示した。これは最悪の場合、土地収用法の適用を意味しており、国としても長野飛行場の土地問題は切迫状態の認識であった。このようななかで、飛行場設置を促進させる動きが市民のなかにも出てきた。九月十四日、芹田地区では、芹田一〇区の区長会、在郷軍人分会、青年会、婦人団体、国防諸団体等が連盟して、「芹田各種団体期成同盟会」を結成し発会した。
同年九月十七日夜、川合新田区協議員会は、慎重審議練った結果「市提示の逓信省案を承認するに意見一致した」として、代表北村助之進から市へ正式回答してきた。これでようやく用地買収その他具体的方策について地元と協議をすすめることとなるかに見えた。ところが同月十九日、川合新田区では主に地主小作等の区民大会を開催して「飛行場設置絶対反対」を叫び、またも難関に立ちいたった。
市は同年十月六日市議会で、位置はあくまで川合新田でいくことをあらためて決定し、主務省へ建設許可申請をすることにした。そしてこの許可がおりしだい土地収用法の手続きをとる腹をかためた。十一月二十五日には内務省への建設申請書が、知事の決裁をうるにいたった。
十二年の正月を迎え、地元側は用地買収について具体的方針の明示をもとめ、絶対反対から協調的態度に転換した。これ以後、市は飛行場建設費四七万円、うち土地買収費二一万六〇四五円を議決し、五月までのあいだに土地七万二七七九坪(約二五ヘクタール)の買収評価額坪あたり二円九七銭を示して交渉をすすめた。これにたいし地元側は六月十日市との懇談会で坪あたり六円を要求してゆずらず、市もこれ以上は交渉継続の余地なしとしてまたも決裂し、土地収用法の適用もやむなしの状態となった。
このあと同月十六日、四ヶ郷用水関係役員と飛行場用地内の用水路変更について懇談し、初めて市の要求がいれられた。翌七月十二日市は地元側地主と個別交渉を開始した。そのさいの買収値段はつぎのようである。
賃貸価格(土地評価額)を六等級に分類し、これから公用公課(国・県・村税等)一割二分を控除したものを三分二厘(三・二パーセント)の率で換算し坪あたりの単価とする。
一等三円三〇銭 二等三円二銭 三等二円七五銭
四等二円四八銭 五等二円二〇銭 六等二円
この価格を基本とした交渉にたいし、七月三十一日までに同意したものには、奨励保証の意味とし坪三円五〇銭で買収する。
この結果、七月二十八日、まず松岡関係の六〇人は、全地主会議を開き、「市の立場にも充分同情すべき点があり、殊に時局に徴し飛行場建設は緊急要件となっているに鑑み、市提示の条件を応諾する」に一決したとして市に回答した。つづいて三十日、川合新田区でも最後の態度を決定するため対策委員会を開き、「地区の負債になっている旧新田川合堰改修借入金七千円を、市に肩替りして貰う事を条件として市の交渉を全面的に承認する」ことに一決した。そして翌三十一日代表委員北村助之進等五人と市が折衝し、つぎの条件で双方が了解した。
①川合新田地域内水田一万四〇〇〇坪に対する、善光寺用水組合納付の年賦償還負担金約二四〇〇円を長野市が完納すること。
②川合新田区の所有墓地を、市において他の適当なる箇所を選定し、原型のまま移転すること。
③買収用地内の桑園は十月十五日まで、水田は十月末日までに、市に引き渡すこと。
こうして、昭和十二年八月二日川合新田公会堂で、地主側委員二七人と市高野助役、徳倉委員とで買収応諾の手打式がおこなわれ、難航九ヵ月の飛行場土地問題はようやく解決をみた。この交渉成立の裏には、岡田県知事の奔走があった。そして同年八月六日、逓信省の「長野飛行場建設許可」が正式におりることになった。
昭和十二年十月十八日午前一一時から、長野飛行場建設起工式が現地でおこなわれた。この開式時刻には、かねて打ち合わせていた熊谷飛行学校の陸軍機が式場上空に飛来し、三〇メートルの低空にまで舞いおりて熊谷飛行学校長のメッセージを入れた通信筒を投下し、機内から手を振って東の空へ姿を消した。
以下、飛行場起工から竣工までの大要はつぎのようである。
① 昭和十三年四月初旬、工事に市連合青年団が勤労奉仕を申しだし、市はこれを受けいれ、さらにこのさい市内中等学校方面にも呼びかけ、無料奉仕により工事の促進をはかることとなる。
② 四月下旬、七万二〇〇〇坪の外郭にめぐらした幅二メートル、深さ一・五メートルのコンクリート水路二三〇〇メートルができあがり、飛行場を横切る四ヶ郷用水も暗渠に改造された。牽引機関車も五台で、一日平均三〇〇人の人夫を動員し、工事を急ぐ。滑走路は幅員三〇メートル、延長六〇〇メートルがコンクリートである。
③ 五月十八日、熊谷陸軍飛行学校上田分教場長が建設中の長野飛行場を検分し、「理想的である」として軍が使用の希望をほのめかす。
④ 七月初旬、市民は建設工事に連日炎天下に労力奉仕をしているが、そのいっぽうで、市は不参加者から出不足金を徴収し、なかには幹部の慰労宴会費にしているとして、警察は市に徴収の中止を警告した。
⑤ 七月下旬、市内各町男女青年団のほか、中・小学校生徒が、日曜ごと(五月三日から)に平均二五〇〇人が奉仕、なかには会社の出張やその他で主人が留守の家では、代理に若い奥さんたちの姿もみられた。
⑥ 十月十五日、長野と同一の民間航空路線となる金沢飛行場が竣工式を挙行する。
⑦ 十月十八日、長野飛行場の竣工式挙行となる。
昭和十四年三月二十八日、逓信省告示第八三二号により、工事竣工認可と飛行場使用開始がつぎのような内容で許可となる。
①設置の目的 公共用
②経営者の名称 長野市
③所有者の名称 長野市
④飛行場名 愛国長野飛行場(図2)
所在地 長野市川合新田、同稲葉
長野県上水内郡大豆島村
⑤面積、地形 総面積二四万八〇四〇平方メートル余
滑走区域東西六〇〇メートル
南北六〇〇メートル 長方形
⑥設置概要 信号柱
⑦設置期間 昭和十四年三月二十五日より
同 二十二年八月五日まで
同年四月一日、国内民間定期航空路線のうち、東京・札幌線と東京・大阪線が就航となる。
同年六月下旬、大日本航空会社による長野を中心とする東京・新潟・大阪間の定期航空路が七月十五日よりの就航、ダイヤ・料金等(表20)が正式に決定した。
同年七月十五日、長野空港開港、当日は市民等およそ一〇〇〇人が飛行場におしかけた。まず午前一一時二〇分に東京発の定期便がダイヤどおりの時刻に、航空局長代理等を乗せて到着した。そのあとつづいて大阪発金沢・富山経由の定期便が一一時五五分に到着した。ここに長野飛行場の定期航空は予定どおり無事に第一歩を踏みだした。
その後運航は順調であったが二〇日後の八月四日、長野発一四時四〇分の東京行き定期航空機(スーパー機六人乗り)は、碓氷峠付近で台風の影響をうけ荒天のため、長野へ引きかえし旅客は信越線で上京し、旅客機は長野で一夜を明かすという初めてのトラブルが生じた。このときは荒天が二日間にわたったため他の定期便も欠航した。そしてこのようなトラブルは当然ながらその後も免れなかった。
十四年七月二十六日、長野市会は「愛国長野飛行場を逓信省に献納する」ことに原案どおり決定し、正式手続きをとったうえ、長野飛行場は政府直轄の飛行場となった。これはすでに十一年八月藤井市長が市民に協力をもとめる声明のなかで「市は逓信省の依頼をうけて土地買収交渉をしているにすぎない。買収後は飛行場を政府に引きつぎ、費用は市と政府が折半に負担する」といわれていたことであり、建設当初から逓信省への献納は計画にふくまれていたのである。
開港後は、時代の赴くところ、軍部の飛行訓練や青年層のグライダー訓練などにもっぱら使用された。その間一度大型爆撃機「呑龍」の着陸が試みられたが、滑走路不備のため機体が破損するということもあった。
昭和二十年八月には、アメリカ軍機による長野空襲でその標的となり、近隣住民までもが被害をこうむることとなった。