自動車会社の統制と自動車学校の創設

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大正初年から昭和へかけて長野市近辺における乗合自動車の営業者や自家用車の増加と発達にともなって国や県からの規制や取り締まりもしだいに強まるようになってきた。

 大正七年(一九一八)五月一日県は「自動車取締規則」を定めた。これは営業用自動車と自家用自動車についての規則であるが、詳細かつ厳格なものであった。とくに営業用についての内容は、①速度制限 ②営業路線 ③車両の種類 ④動力の種類 ⑤制御・制動・音響等付属器具の構造 ⑥路面の幅員等であった。これらの内容のうち当時の時代を示すものをあげればつぎのようである。

①速度は、人家稠密の場所や夜間には一時間八マイル(約一二・八キロメートル)、その他は一時間一五マイル(約二四キロメートル)、街角、橋上、往来雑踏の場所等では歩行者と同一の速度で徐行。

②道路の交差部・街角・橋上・坂路・往来雑踏の場所・前方を見通しできない場所等では、絶えず音響機を鳴らすこと。

③行進の前路約三〇メートル以内に牛馬・諸車・または歩行者等がいるときは、音響機で警告すること。

④軍隊にたいしては、右側、その他は左側に避けること。

⑤牛馬に近づくときは、速度を緩め、恐怖させないよう注意すること。


写真43 大正10年ころの長野駅と乗合自動車
(『写真にみる長野の百年』より)

 大正八年二月十五日、県はつづいて「自動車取締令施行細則」を定め、自家用、営業用ともにさらに細部にわたって規制をつよめた。これよりさき明治三十六年(一九〇三)九月二十九日県は「自動車取締規則」を定めたが、大正期の取締令は、これと大筋で類似するが営業者の増加に応じて内容を強めたものである。

 大正十二年(一九二三)には、自動車関係者のなかからも新たな動きがうまれた。全県下の自動車運転手および関係業者を網羅し、知事を総裁に、警察部長を会長として、長野県自動車協会が設立された。目的は、優良運転手の表彰や交通事故の防止等であった。そのため協会は、運転技術向上の研究講習会、会員相互の親睦、意志の疎通、知識の向上をはじめ、交通事故の防止、交通道徳の涵養宣伝などにつとめた。そして大正十四年十二月二十三日には同協会長野支会創立のため、長野署に約三〇人が参集して同署長を会長に推し、会則や予算などをきめて発会式がおこなわれた。

 大正十五年十二月一日、県下初の自動車学校が更級郡篠ノ井町大字布施五明(長野市篠ノ井)に創立された。これは県自動車協会(会長藤岡長和)が、さらに時代の要請にこたえ、優良な自動車運転手の養成にあたるため、同協会付設の自動車学校として計画したものである。この計画が発表されると設立場所について、北信長野市、南信松本市がともに招致運動を展開し容易に位置の決定にいたらなかった。十五年六月には、総経費約九〇〇〇円、うち五〇パーセント以上を地元の寄付、その他は自動車営業者の寄付、募集生徒数三〇人、実習用の自動車三台(三種類)を購入、授業料月額四〇円などが発表(『信毎』)された。地元篠ノ井町では町をあげて運動し、町当局が町有競馬場の無償貸与(四五〇〇円相当の寄付)を申しいれ、他の運動を制した。

 開校式は寒風の激しいなか実習場となる競馬場でおこなわれた。開校当時の初代理事長は藤岡長和、校長は北村勉、入学生は本科普通科(三ヵ月教育)三〇人、練習車はT型フォード(写真44)であった。開校当初校舎はなく学科教場には町の通明尋常高等小学校の二室を借りていた。昭和二年(一九二七)六月通明小から篠ノ井大門町の町営建築購買利用組合建物を借りいれて移転、さらに同三年十二月十三日泊武治を設立者として私立学校認可をえ、同年四月元御厨小学校(廃校)の校舎を借りうけ改築して現在地に移転した。六年八月五ヵ月(普通科のほか二ヵ月)教育の高等部を新設し、七年八月高等部学科の県試験免除をえた。授業料は普通科一ヵ月三〇円、高等科同二五円であった。なお、免許受験料は本校卒業生八円、その他は一三円であった。しかし、昭和十一年当時、卒業生の合格率が悪くなり、入学希望者も激減して同年八月ころには在校生六人と、業務は不振におちいった。そこで経費の節減とともに練習用自動車を入れかえするなど教育内容を充実して全員合格につとめたため、以後入学者も増加して危機を脱した(『私立長野県自動車学校概況報告』ほか)。


写真44 練習車T型フォードの手入れをする自動車学校1期生
(『長野県自動車学校の50年』より)

 いっぽう、国では自動車増加による燃料使用が増大し、その節減のため昭和九年六月八日商工省令で「一定の試験に合格した型式のガス発生炉を自動車に設置するときは、費用の半額(三〇〇円限度)を奨励金として交付する」と達した。しかしこれは実際上取り扱いに不便があり、すぐには十分な目的を達成できなかった。昭和十二年日中戦争勃発後は戦時体制により、これまで営業の拡大をつづけた自動車会社に各種の規制が強まり営業に影響をおよぼした。

 十二年十月国は燃料国策上と揮発油価格の上昇から、県を通して各自動車会社にたいし、「その後年々ガス発生炉に改良を加えたので、その節減をはかり、揮発油の代用として、木炭ガスの利用を促進するため、貨物・乗合・特殊自動車について、それぞれガス発生炉設置可能な予想台数を報告」させ、その実施をすすめた。

 篠ノ井自動車学校では、ガソリンの配給がなくなり昭和十三年十一月代用燃料として、木炭の自家生産を開始し、ガス発生炉の操作や手入れを学習した。この自家生産は昭和二十四年燃料事情が好転するまでつづいた。こうして石油自動車や木炭自動車および薪車の使用が開始され、県下にもこの種の車が走るようになった。これらの車はガソリン車にくらべ、特別な準備や手入れが必要なため、担当運転手には会社から乗務手当や手入れ手当が支給された。

 十七年長野電鉄の営業報告書(表21)によれば、この時期にガソリン車が激減している。また各バス会社では、燃料規制により路線の休止や中止等がおこなわれた。川中島自動車の例では、①昭和十三年四月ガソリン規制で戸隠・田口(新潟県)間ほか五路線の運行を休止、②十四年三月石油自動車と木炭自動車の使用を開始、③十五年十二月善光寺裏遊覧道路やブランド薬師めぐりの不定期遊覧バスの運行中止、④十七年九月陸軍金沢師団徴発自動車(ガソリン車)の内示等である。長野電鉄バスの昭和十六年七月の例では、燃料節約による非常時局の国策に順応するため、①当社電鉄線と並行路線の長野・須坂間のバス運行休止、②その他比較的閑散路線として若槻村徳間・豊野間ほか一三路線のバス運行休止等であった。


表21 長野電鉄第44期車種別室両数

 昭和十五年一月、自動車界は、これらの国策に協力体制をとるため長野県自動車交通報国会を結成し、つづいて県下の各地域や会社でも所轄地域の警察署長を顧問にして自動車交通報国会を結成している。

 長野県自動車学校の経営主体である長野自動車協会は、昭和二十一年三月改廃され、新たに財団法人長野県自動車学校として認可され二十一年四月一日より新発足した。