昭和十六年(一九四一)十二月八日、日本は太平洋戦争に突入した。この日、信濃毎日新聞社は号外をだし、「帝国、米英と開戦、大本営陸海軍部発表(十二月八日午前六時)帝国陸海軍は本八日未明西太平洋に於て米英軍と戦闘状態に入れり」と大々的に報じた。米英両国にたいする宣戦の詔勅が出されると、長野県知事鈴木登は全職員に「沈着冷静一致協力シテ職務ニ邁進スベキ」と訓示し、また、県民にたいしては、堅忍持久・百難不撓(ふとう)の決意を切望するとの告諭を通達した。通常県会最終日を迎えていた県議会では、全員が起立して天機奉伺(ほうし)(天皇へのご機嫌伺い)をおこない、県会議長滝澤一郎の名で「大詔ヲ拝シ恐懼(きょうく)感激ニ堪ヘズ、謹デ赤子(せきし)ノ本分ヲ守リ、聖旨ニ副(そ)ヒ奉ランコトヲ誓ヒ恭シク天機ヲ伺ヒ奉ル」の執奏をこい、陸軍大臣東条英機と海軍大臣島田繁太郎に激励電報をうった。
松代町の八田彦次郎は、この日のできごとを「天気快晴静穏朝三十度気候寒シ。朝ラジオニテ今払暁西太平洋ニ於テ英米国ト交戦状態ニ入レリトノ発表アリ。午前、米英両国ニ対シ宣戦ノ大詔渙発(かんぱつ)セラル。今日ハ頻繁ニラジオノ臨時ニュースアリ」とあわただしかったようすを書きとめている。この夜、権堂花街やカフェー街はひっそりと静まりかえっていた。街から隣組からぞくぞくと人びとが市内各神社へ参拝し、神前に持久必勝を祈願したからである。
翌九日の『信毎』はさらに大きく、かつ詳細に戦争突入や人びとのようすを伝えた。一面の大見出しは、横書きに「帝国・英米と開戦」、縦書きに「宣戦布告の詔書渙発さる 十五日臨時議会を召集」とし、宣戦布告の詔書の全文とともに、海軍発表のハワイとシンガポール爆撃の概要とその戦果を報じた。県民のようすに関しても、「日・米英開戦の朝」と題してラジオの臨時ニュースに集まる人びとや信濃毎日新聞本社の特報に見いる長野市民、長野工業学校における開戦の張りだしに見いる生徒たちのようすをとらえた写真をのせた。さらに四段見出しで「幸先よい電撃ぶり=ホノルル空爆、上海(シャンハイ)米砲艦の降伏=この朝、仏都に漲(みなぎ)る進軍譜」の記事が掲載されている。すなわち、背の子をあやしながら軍艦行進曲を口ずさむ母親。市場へ買いだし途中の、「どうでえ、到頭(とうとう)やったナ」「ガンとやっつけろ」「お大尽が相手だ。張り合いだ 褌(ふんどし)をグイと締めて」「増税も債券もドシドシ引き受けた」「戦争はどうしたって勝たなけりゃならん」との威勢のよい魚屋四人の会話。このほか、街のニュース張りだしに、かけっぱなしのラジオの臨時ニュースに群れて一字一語に武者ぶるいする出勤通学の人びと。また、国民学校校庭での朝会に付近の親もどっと出て、校長の「戦争には必ず勝たなければならぬ、勝つまで続けるのだ」の叫びに胸をうたれ「やるぞーどこまでも」と大和魂の血潮にドドッと沸き立つ父兄たち。校内に張りだされたニュースの前に群れて、すぐにも職場へ飛びこみたい衝動をじっと押さえる長野工業学校の産業戦士の卵たち。といった調子で当日の市民の表情が紹介されたのである。長野市以外の各地のようすも載せ、それらを集約した形で紙面上段トップに「今ぞ日・米英決戦の時至る」の六段大見だし。それにつづけて「正義の火銃は、遂に火を吐いた 全県民は異常な緊張と決意に太平洋を睨(にら)む (中略)今はただ勝つあるのみ街に村に山に信州百八十万県民が叫ぶ〝英米撃つべし〟」(下略)とリード文を付し、さらに鈴木県知事の「一億総力戦だ! 戦時生活へ進軍せよ」との県民へ奮起をうながす一文、長野連隊区青野司令官からは全県一心を強調した「事変とは違ふぞ 必勝の覚悟せよ」の談話を掲載した。
この日、長野市では日米英戦にたいする市民宣誓大会を開いた。大会にあたって、各区長は隣組長を通じて各戸一人以上必ず参加することを指示し、参加人員一万人を予定した大会であった。朝六時半までに市民が城山国民学校運動場に集合し、六時四〇分から開会した。式次第は、①開会の辞(岡田助役)、②国民儀礼、③宣戦大詔奉読(石垣市長)、④訓示(銃後国民ノ覚悟ニツイテ 連隊区司令官母袋中佐)、⑤宣誓文ノ決議朗読(笠原市議会議長)、⑥宣誓文書発送(東条内閣総理大臣・陸海軍大臣・陸軍参謀総長・海軍軍令部長)、⑦聖寿万歳三唱(石垣市長)で、宣誓文はつぎのとおりであった(『昭和十六年度事務報告』)。
畏クモ米英ニ対スル宣戦ノ詔勅渙発セラル 茲(ここ)ニ長野市民宣誓大会ヲ開催スルニ当リ 官民一体時艱ヲ克服シ 決死奉公聖業完遂ニ邁進センコトヲ誓フ
昭和十六年十二月九日 長野市民大会
十日の『信毎』は長野市民大会のようすを「誓ふぞ決死奉公!今暁、長野で市民大会」として、「石垣市長宣戦布告の詔書を奉読、市民に不退転の決意を促し、長野連隊区司令部母袋中佐また決然帝国軍備の盤石を叫んで銃後必勝の信念の堅持を求め、(中略)宣誓文を参会一万の市民拍手のうちに議決、直に東条首相陸軍大臣、参謀総長、軍令部長に宛てて申達、やがて石垣市長発声」で万歳三唱し、市民の意気を示した、と報じた。
篠ノ井町では翼賛壮年団が九日朝五時に非常招集をかけ、通明国民学校奉安殿に集合し、必勝祈願をした。また、十日に朝六時半から七時ころまで臨時全国隣組総会がもたれ、ラジオをとおして大政翼賛会役員からこのたびの戦争開始についての話が種々あり、松代町の八田彦次郎も隣家に集まって聞いたと記している。
いっぽう、政府は十二月十三日に内務省令第三六号・第三七号にもとづき官国幣社に勅使を派遣した。このことによって県社以下の神社においても大祭による宣戦奉告祭を執行することになり、長野市でも市内神社へ神饌幣帛(しんせんへいはく)料供進使を参向させ、宣戦奉告をとりおこなった。十二月十五日が安達神社、十九日が加茂神社・諏訪神社・武井神社・安達神社、二十日が信濃護国神社(信濃招魂社)・駒形嶽駒弓神社・飯綱神社・弥栄神社で、最後は二十一日の守田廼(もりたの)神社であった。
こうした動きは翌十七年に入っても継続した。元旦には安茂里村翼賛壮年団が午前五時に国民学校校庭に団員五〇〇人を集め、拝賀式と大東亜戦争完遂必勝団員大会を挙行した。長野市翼賛壮年団でも午前一〇時三〇分に駅前末広町に各分団ごとに集合させ、降りしきる雪をついてラッパ隊を先頭に三〇〇〇人の団員が中央通りを行進し、城山国民学校校庭で大東亜必勝団員大会をおこなった。長野市内の隣組婦人常会ではもんぺ姿で午前零時を期して区内神社に必勝を祈願した。
ことあるたびに戦意の高揚がはかられたが、一般の人びとにあってはまだそれほどの緊迫感はなく、例祭も人びとでにぎわい香具師(こうぐし)(祭り日などの出店)も出て、ふだんと同じような生活がつづいた。