戦時下の市町村行財政

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戦時下、市町村の行財政はしだいに戦争遂行のためのものへと変わっていった。長野市の職員は、昭和十五年吏員七九人で、そこに雇い四一人と工助・助手一四人を加えると、一三四人であった。それがしだいに増え、十七年には吏員八九人、雇い四二人、工助・助手一八人、計一四九人を数えるほどになった。わずか二年のあいだに吏員で一〇人も増えたのである(表22)。


表22 長野市の職員数

 職員増員の背景には戦争の進行にともなう仕事量の増大があった。長野市では十七年十二月八日に市の処務規程を変更し、機構改革を実施した。すなわち、十五年に九課二二係、十六年には九課二六係であったものが、十七年十二月に八課三三係としたのである。おもな改革は、兵事課が新設され、観光課と都市計画課が廃止となったことである。廃止された理由は二つの課には課長がおらず、兼務であったことにもよる。このほか、庶務課を総務課、勧業課を経済課、学務課を教育課、社会課を厚生課、工務課を土木課と改称した。これにともない、係の移動・新設がおこなわれた。

 新設された係は、総務課の振興係と公園係、経済課の配給係、厚生課の厚生係・軍人援護係・職業係、土木課の材料係、会計課の出納係で、八つを数える(表23)。このうち、配給係はかつての物資係の仕事を中心に継承、厚生・軍人援護・職業の三つの係は社会事業係が分割されてできたものである。とくに目新しいのは総務課振興係である。この係は、新年祝賀式、建国祭、大東亜戦争第一次戦勝祝賀大会、第二次戦勝祝賀、記念式・表彰、支那事変記念日および旭日拝礼行事などを担当したほか、常会、大政翼賛会長野市支部、翼賛壮年団、大日本婦人会長野支部などを主管した。これらの仕事はそれまで社会課社会教育係が担当していたが、戦争体制の維持・発展を専一にになう係として新設されたのである。これによって、社会教育係は教育課に位置づけられ、体育に関すること(体操・体育大会、体力章検定など)をはじめ、青年学校、青年特別訓練所、青少年団(青年団・女子青年団・少年団)、移植民(農業移民・満蒙開拓青少年義勇軍)などを扱うようになった。どの課・係も戦争の拡大にともなって、それに見合うよう強化・充実をはかるべく機構改革されたのである。


表23 長野市役所の行政機構(職員数・吏員・雇・工助等)

 戦局が悪化するなか、昭和十八年六月一日から、これまでのものを抜本的に改めた「市制・町村制」が施行された。市町村長はこれまで市町村会の選挙できめられていたが、新法では市会が推薦した市長候補者を内務大臣が勅裁をへて選任、町村長は町村会で選挙し県知事が認可することになった。さらに市会が内務大臣の指定する日までに市長候補者を推薦しないときは、内務大臣が勅裁をへて市長を選任でき、同時に監督官庁に市町村長の解職権を認めた。また、吏員任免に関しても市町村会の発言権を縮小し、市町村長に助役の選任・解職の権限をあたえたほか、軽易な事件は市町村会の議決がなくても処理できるようにし、歳入出予算案も市町村長の提案以上に増額議決することができなくなった。戦争体制下のなかで、国策の迅速な浸透徹底ができるように国-府県知事-市町村長-市町村吏員-町内会という上意下達の行政機構にしたのである。こうした体制のなかで、市町村は自治的な性格と機能がほとんど奪われ、国の下級行政機関として戦争遂行にあたらせられたのである。


写真47 「感謝皇軍奮闘・邁進長期建設」のたれ幕をかかげた長野市役所

 このころ、大松代町建設の動きがあった。十八年五月二十六日、松代町ほか五ヵ村合併を促進しようと、北埴議員会が関係者九〇人余により、松代町公会堂で開かれ、役員などをきめた。長野市でも大長野市建設が目論(もくろ)まれた。日本無線株式会社の招致をきっかけに、工業立市をめざした長野市は工業立地の手狭なことから隣接町村の併合を考え、昭和十八年一月二十日の市議会で市議会議員全員を併合推進委員とするとともに、併合促進小委員会を発足させた。併合の範囲は大豆島、朝陽、柳原、古里、安茂里の五ヵ村であった。翌十九年一月には、四月から決戦下工業戦力発揚に力が発揮できる大長野市が発足できる見通しとなった。しかし、米英侵攻の敵前下に直面していることから、三月には急転し、合併一ヵ年見送りという結論をだした。大長野市および大松代町の実現はけっきょく、戦後へと延期されたのである。これは膨張する戦時財政基盤の確立が大長野市、大松代町建設へ志向させたものといえる。昭和十七年度の長野市の歳出決算をみると、歳出の経常支出七九万九二四三円余、同臨時部支出一〇五万六三円余、歳出合計一八四万九三〇六円であった。