明治初期から「水火災の警防禦」を目的として組織された消防組と、昭和十二年(一九三七)八月に「防空訓練」を目的につくられた防護団とは、おのおのその組織と命令系統とを異にしていた。そのために有事のさいに両者を一元的に統率して、事態に対処するのは困難であった。そのようななかでとくに防空の問題は戦局の推移からみて、緊急な課題であった。そこで、日中戦争開始直後の昭和十二年八月からは防護団を中心に、全県的な防空演習がおこなわれるようになった。
長野市においては十二年八月十一日、城山小学校校庭に防護団員四〇〇〇人を集めて、防空予行演習を実施した。演習の内容は、実焼夷弾の実験・毒ガスの実験とその消毒作業などであった。夜は古牧地区での焼夷弾落下訓練と全市にわたっての灯火管制が実施された。つづいて八月十七日から三日間にわたって、全県下を対象にした大規模な防空演習が実施され、長野市街地の中心部が爆撃されたという想定で、飛行機・高射砲隊・機関銃隊・救護隊・防護団などが出動して実戦さながらの訓練が昼夜にわたってくりひろげられた。また当時、敵機の来襲を防止するために「灯火管制」の必要性に着目するようになり、十三年八月に長野県は「灯火管制規則解説」を配布してその徹底を期した。灯火管制はその後も防空のかなめとして重視され、十九年の埴科郡寺尾村防護団長から各班長にだされた防空訓練伝達用紙にも「今夕ノ空襲警報発令ノ際ニ於ケル愛宕山下以北殆ド全部灯火管制不徹底ナリ、注意セラレタシ」等の文言がみられた。
翌十三年十一月二十六日にも、全県的な防空訓練がおこなわれ、長野市では大門町藤屋ホテル・駅前通り・県庁付近等にエレクトロン焼夷弾・毒ガス弾が炸裂したとの想定で実施された。
昭和十四年一月に公布された警防団令にもとづき、消防組と防護団の両者を一本化して「防空、水火消防その他の警防を任務」とする警防団が設置されることになった。警防団はその主要な任務を防空において、警察が指揮監督権を掌握して、国家的な機関として出発した。こうして十四年四月中には、長野県令第八号「警防団令施行規則」にもとづいて、県下三八五市町村に警防団が組織された。
長野市においても同年三月、長野市会において長野市警防団の設置が議決され、同時に長野市警防団組織規定が制定された。そこできめられた本部ならびに各分団の区域と定員は表24のようである。これによると長野市警防団組織は、本部と八地区の分団からなり、それぞれの分団区域と団長以下の定員が定められた。きめられた総定員数は一〇〇〇人であった。そして長野市警防団諸給与規定によると、団長以下団員には年手当、本部常備員には月給が支給されることになった。その他、団員にたいする災害補償に関する規定も明文化された。
伝統ある消防組の警防団改組にあたって、十四年三月二十三日長野市城山において、消防組解散大会が挙行された。この日午前九時長野駅頭には、県下消防組の組頭四〇四人とそれぞれの消防組の金馬簾(ばれん)を捧げ持つ旗手四〇四人の計八〇八人が集合、長野消防組のラッパを先頭に中央通りを行進して善光寺にいたり、午前一〇時半から金堂において殉職消防組員一一人と日中戦争で戦没した消防組員の慰霊祭をおこなった。殉職消防組員のなかに小松原大火のときの殉職者もふくまれていた。慰霊祭のあと城山小学校の校庭で、長野県支部主催の消防組解散大会が開催されて、組織変更等に関する協議がおこなわれた。大会終了後、城山グラウンドにおいて消防協会富田支部長の巡閲があり、つづいて分列式をおこなって午後二時閉会した。
十四年にはいり、各町内において近隣地域の防空組織が細分化され、一朝有事のさいの具体的方策がたてられた。たとえば、長野駅前末広町においては、町内連合防火群組織をつくって、各家庭防護対策の徹底を期した。それは連合防火群長→各防火群長→家庭防火担任者という指揮系統で、おのおのの役割と任務が詳細にきめられていた。その心得には、主人の不在の場合の主婦やこどもの役割や家庭防火の原則的なことが具体的に示されていた。
十四年四月の警防団が新設されてから初めての防空演習は、同年十月二十四日から四日間にわたって実施された。このときの訓練の重点は、加茂小学校を中心におこなわれた児童の避難訓練であった。十五年十月一日からの東部防空訓練にさいしては、長野警察署から長野市の全家庭に「防空市民心得帳」が配布された。そのなかには、防空警報が発令されたときの各家庭が何をなすべきかの任務がくわしく示されていた。十六年十月十二日からの防空訓練は、敵機の爆弾と焼夷弾による無差別爆撃にたいしての隣組と警防団の協力連携活動が重点で、権堂町では芸妓隣組の出勤もみられた。
十七年七月十五日からの防空訓練は、太平洋戦争遂行下であったことを反映して、大火災の発生を想定して実践的なものになり、長野県警察本部からは「隣組長防空指揮心得」と付録の「家庭防火の心得帳」が配布された。そこには、隣組長の役割は軍隊の分隊長と同一であって、その指揮能力が問われるといい、具体的にその任務を解説している。また各家庭にたいしては、防火の心得を絵入りで解説している。この年の十二月一日から十一日にかけての「大東亜戦争第一周年記念防空強化運動」期間に長野市では、警防団員による各家庭の防空設備の可否の点検、市内の映画館での防空防火の映画の上映、市内各所での警防講演会などを実施した。なおこの運動は以下のような日割りでおこなわれた。
準備期間 十二月一日「消防防火施設整備の日」、二日「灯火管制の日」、三日「救護施設の日」、四日「防空監視隊の日」、五日「警防計画の日」、六日「特設防護団の日」、七日「防空補助隊の日」、八日「感謝記念の日」
訓練期間 九日「防空施設の検査」、十日「家庭隣組、特設防護団(隊)の防空防火救護の訓練」、十一日「特設防護団の訓練」
十八年にはいって強調されたことは、防空退避をどうするかという問題であった。県は十八年七月「防空退避施設指導要項」をつくって、待避所の構築を督励した。それは、一般木造・コンクリート建築、工場・学校等にわたっても、その構築要領を示したもので、一般には防空壕の構築の問題として受けとられていた。長野市末広町には、その指導要領が隣組備付用として残されている。十九年四月に長野市では、市長・警防団長・警察署長連名で、「防空待避所設置に関する件」を焦眉の急務として通知している。
十八年九月には県下六市の総合防空訓練が実施され、長野市は二十一日に官公署・学校・会社・工場・隣組などの団体個人が一丸となって、一人の傍観も許さないというきびしいものであった。無差別に敵機が盲爆し石堂町は猛火に包まれたという想定のもとで、救急隊が救護をするという場面もあった。十九年も戦争による極度の人手不足のなかで防空訓練がおこなわれ、やがて二十年八月の実際の敵機の来襲を受ける事態となった。戦争末期の昭和二十年一月から敗戦の八月までの長野市警防団の動きを「自昭和二十年一月至十二月警防団年間行事につき長野市事務報告書」のなかから摘録するとつぎのようである。
一月 一日 警防課新設
四日 警防団出初式挙行
(中略)
七月 一日 防空要塞確立ニ関シ全面的整備ニ着手セリ
十三日 於武徳殿 県警察本部並長野市管区司令部主催ノ防空図上訓練実施セラレ各関係者出席ス
十七日 神奈川県ヨリ応援ノ消防自動車並市消防自動車総出動ニ依リ戦意昂揚ノ街頭行進ヲ実施ス
十九日 於市役所 各医療救護所主任者ノ参集ヲ求メ緊急打合会開催ス
三十一日 於武徳殿 防空救護教育訓練実施セラレ、各救護職員出席ス
八月 十三日 長野大空襲。午前六時四十五分頃ヨリ午後五時三十分ニ亘リ、数機ノ編隊ニテ五回ノ爆撃ヲ受ケ、攻撃目標ハ飛行場及運輸機関ノ破壊ニアリ、ソノ主力ハ長野飛行場長野機関庫ニ集中サレ、機関庫ヲ中心ニ大火災発生、錦町通リハ其ノ延焼爆風ニヨリ相当ノ被害有リタルモ大空襲ニ比シ、建築物並人畜ノ被害ハ極メテ軽微ナリ
十五日 大東亜戦争終結ノ大詔渙発セラル
十月 九日 警防課廃止、観光課新設セラル
(後略)
以上のことから、戦争末期における長野市の警防団の緊迫した動きがわかる。当時の困難な状況にあって、防空対策に懸命な努力をはらったが、八月十三日の米軍艦載機の波状攻撃の前には徒手空拳、なんら有効な手段を講ずることができなかった。やがて八月十五日敗戦を迎えて、十月九日長野市は警防課を廃止するにいたったのである。