昭和十二年(一九三七)日中戦争が始まり、戦争が拡大されるにともない国策の浸透徹底と国民生活の安定確保をはかるために、従来からの農村経済更生運動等に重要な役割を果たしてきた町内会・部落会・隣組等の、末端の自治組織を活用しようとする機運があらわれてきた。
県でも昭和十五年九月十一日の内務省訓令第十七号にもとづいて「市町村下部組織整備並に運営要綱」を定め、町内会・部落会をつくるときの留意点を示した。その意図するところは町内会・部落会およびその連合会ならびに隣組を整備して、国策遂行に役立てようとするところにあった。具体的には、①町内会・部落会をして万民翼賛の本旨に従い地方共同の任務を遂行させること、②国民の道徳的練成と精神的団結の基礎組織とすること、③国策の透徹とその円滑な運用に役立たせること、④国民生活の安定と統制経済の運用に用いることなどであった。
そして、より機動力を高めるために町内会・部落会の隣保実行組織として隣保班を設けることと、隣保班はそれぞれ常会をもつことが義務付けられたのである。そこで昭和十五年の夏から秋にかけて隣保実行組織が県内全域にわたってつくられ、そのさい従来からの五人組・十人組など近隣のよしみなどの伝統を尊重しつつ、一〇戸内外の戸数を基準にした隣組の組織化をすすめた。
県は市町村下部組織の準備をめざして、十六年三月町内会・部落会・隣組に部制を導入した。総務部・文化部とならんでとくに統制部が重視され、生活必需物資や肥料・飼料などの配給統制、勤労動員などの労働力の調整にあたった。さらに農事部・養蚕部・林業部・商工部の合計七部と、その後婦人部が設けられた。婦人部の設置は、大日本婦人会に統合された婦人団体の下部組織を、町内会・部落会や隣組と一体化させようとするものであった。このようにして末端の隣組が、国民の日常生活に欠くことのできない生活必需品の配給業務などを分担することで、ますますその地位は重要視され、同時に成年男子の戦時動員下の銃後における婦人たちの活動の場ともなった。
長野市は昭和十五年八月から市の下部組織整備を始め、長野市街の新体制づくりに取りくんだ。それは縦と横との連絡提携と下情上通をはかるための三段構えの常会組織の構想であった。そのねらいはつぎの四点である。
①一般市民と各種団体との連携を密にすること。すなわち、縦と横との密接な連絡に努める。
②従来のごとく上からの命令系統だけでなく、下からの声を上に有機的に反映させる。
③精神運動だけでなく、米・砂糖・マッチ等の物資配給の組織体とすること。
④常会と市会との連絡をはかる。
常会組織の第一段はおよそ一〇戸以下の家庭を合同した隣組常会とし、第二段はその隣組を相当数合わせて町常会をつくり、第三段はさらにその上に区常会をつくるというものであった。長野市で最初に全町あげての隣組発会式を兼ねて第一回の町常会を開いたのは、権堂町(五三〇世帯)であった。同町では六十余の隣組が組織され、常会の総会は十五年九月三日相生座に町民七百余人を集めておこなわれた。そこで六十余の隣組が組織され、県知事、長野市長の祝辞を受け、講演のあと常会規約が議決された。そして、地域共同体に基礎を置く生活改善・物資活用・冗費追放などの具体的活動方針もきめられた。市内の他の町も同年九月一日の興亜奉公日一周年を期して、「町常会」を発足させた。たとえば諏訪町では鐘鋳川べりの野天で、川の氾濫防備用の板を敷物がわりにして発会式をあげた。
また、長野市常会もこの日、城山館において市長はじめ四十余人(翌年二月六〇人に改組)の理事・幹事を集めて初の会議を開き当面つぎのような実践項目をきめた。
①兵士の歓送迎のときの国旗・餞別等は市銃後奉公会から贈り、その他一般からは贈らない。
②楽隊は歓送のときだけにする。
③祝宴は兵士の家で親族だけでやる。
④兵士の壮行式は、市銃後奉公会一本でおこない、新旧市部の二本立てはやめる。
⑤帰還のときの土産物は廃止する。
⑥婚礼の改善。調度品・式服は簡素にする。嫁の式服は留袖を限度とし、披露は一日に限る。引物・調度品見せは廃止する。
⑦葬式の改善。近親者以外の香典は廃止し、花輪・供物も廃止する。
末端の隣組常会運営の状況を示す具体的資料として、長野市北石堂町第一〇区五組の『隣組記録』がある。この記録は、昭和十五年九月九日から記載されている。隣組常会には各戸から世帯主またはその配偶者が出席し、会場は組内各戸輪番制とした。常会の内容は報告・協議事項が主であった。九月九日の常会は、砂糖・木炭の配給についての報告と、小麦粉・油類の購入が実現できるように区常会へその斡旋依頼の方途についての協議であった。なお、この日は今後隣組常会が目的実現に向かって邁進しようとの申しあわせがなされた。北石堂町第一〇区五組の『隣組記録』の十七年三月の常会の協議事項は、①戦勝感謝貯蓄 ②自給肥料の増産(堆肥生産加活動)③米穀供出と節米 ④満州開拓事業と南方開拓 ⑤民有林伐採報告の五項目で、これは同年三月に県が示した「常会に取り上げる事項」の五項目と同一内容であった。これらの資料から隣組に課せられた役割は、主として国民・財産の動員、半強制的な貯蓄、米麦金属の供給等であったこと、そのほか債券の購入、衣食料の配給、防空訓練などにも深くかかわっていたことが知られる。
さらに、北石堂町の同記録のなかから、決戦下における長野市民の耐乏生活の実態を示すものとして、「下情上通事項」(その配給方法・量目などをめぐって市民が渇望する生活物資等)を摘出してみるとつぎのようである。
①昭和十六年十月から十七年中 木炭・縫糸・鉄・釘・薪・二五ワット子持ち電球・石鹸・漬物用食塩・手拭・家庭用味噌・醤油・生菓子・ネル・さらし
②昭和十八年中 地下足袋・魚類・児童用傘・味噌醤油
しかし、このような「下情上通」のための隣組常会の要望事項の記録も、戦局の推移にしたがって、一八年末ころから常会資料から姿を消し、戦争遂行のための「上意下達」の末端組織となっていった。
そして、昭和二十年八月の敗戦を迎え、隣組および町内会・部落会等は二十二年一月、連合国総司令部の命令で廃止されていくのである。