昭和十二年(一九三七)七月日中戦争が勃発すると、日本の経済体制は政府の直接統制下に組みこまれた。国家の総力をあげて戦争遂行目的を達成することをねらい、軍需生産に中心をおく戦時統制経済の段階に入った。国民生活にたいしては、物価統制から始まり配給統制や賃金統制にまでおよんだ(表25)。
十三年四月一日「国家総動員法」、六日「電力国家管理法」が公布されると、経済統制関連の法令等は矢継ぎばやに施行実施されるようになった。綿糸から始まった統制がしだいに強化され、ガソリン・飼料・硫安・鉄鋼・石炭・鉄くず・銅・鉛・錫があいついで配給となった。また、綿・羊毛・麻製品・皮革・ゴム製品・金属品・木炭・石炭などの標準価格がきめられた。七月には、物品販売価格取締規則による公定価格がつぎつぎと決められていった。その結果、生活必需品の不足が生じ「売りおしみ」「買いだめ」という事態になり、さらに「闇取り引き」がひろがっていった。
十四年四月には「米穀配給統制法」、十一月には「米穀配給統制応急措置令」が公布され、主食の価格統制に加えて強制「買い入れ」がおこなわれた。県産米のうち販売用はすべて米穀販売組合または農業倉庫に集荷し、これを過去の実績に応じて両者で配給販売することとなった。米価は、一石(一五〇キログラム)あたり最高価格四三円、一升(一・五キログラム)売りで四七銭ときめられた。長野市をはじめとして県下の各市では、全国に先がけて十五年八月一日から米穀の配給制と通帳制を実施した。十一月一日から「米穀管理規則」が施行され、農家の自家用米以外はすべて供出させ政府管理を徹底することとした。各市町村では、県からの供出割りあてにもとづき個別農家への割りあてをおこなったが、その事務処理は困難をきわめた。長野市では、十六年三月配給統制組合をもとに個人業者を吸収して米穀配給組合を組織した。そのうえで、配給機構・配給区域を整備し、旧市内を鐘鋳川で南北に中央通りで東西に分け、第一区から第八区として各区所在の配給組合がその区の配給を担当することとした。この配給組合を使って、正月用のもち米の配給はひとりあたり七合ときめられ、十二月二十六日からのたった四日間で完了させている。これに合わせ、大豆ひとりあたり一合と小豆ひとりあたり五勺が配給されることになっていた。強制供出と農村の男子労働力不足により、自作農家でも食糧に窮するようになり耐乏生活を余儀なくされていった。
市民生活は悪化の一途をたどり店頭に品物がなくなるにしたがい、一般市民は闇物資の買い出しをせざるをえなくなっていった。市内から長野電鉄線などを利用し近郊に買い出しに出かけるものも多く、早朝に出発し農家を何軒もまわってようやくわずかな食糧を手に入れ帰途についた。長野駅では取り締まりがきびしいため、いくつか手前の駅で下車した。善光寺下駅などは格好の下車駅で、夕方になると買い出し部隊であふれたという。生きぬくためには違法は承知のうえで闇に頼るしかなく、買い出しが一般市民の生活上もっとも大きな仕事とすらなった(写真56)。警察はその取り締まりに狂奔し、買い出しの人びとの下車しそうな駅や農村と市街地を結ぶ橋などを、一斉取り締まりの場所として検問摘発を頻繁におこなった。警察の手入れ情報が入ると、人びとはその手前で下車したり帰路を迂回したりして、知恵をしぼって警察の目をくぐりぬけた。『信毎』で取り締まりのようすをみると、見出しには「女、列をなして野菜など六百貫、捕った買出し五百名」とある。この記事によると、警察は九月三日の日曜日をねらって朝陽駅・柳原駅・丹波島橋の三ヵ所で取り締まりをおこなった。柳原駅でのようすは「長野電鉄の電車がつくたびに、二、三十名の婦人連が風呂敷を持ちリックを背負ひ、大きな農家をねらって手あたり次第買ふといふ有様で、南瓜・ナス・キウリなど野菜を買ひあさり、取り締ったものだけでも二百貫」とある。朝陽駅でも二〇〇貫、丹波島橋で一五〇貫の野菜類が取りあげられた。
新聞紙上では、代用食に野生の雑草料理として「アカザ・スギナ・クローバー・ハコベ」などを使った料理がさかんに紹介されたり、「決戦郷土食」として「ソバくず汁・雑穀だんご汁・甘藷だんご」などが紹介されたりしている。ソバくず汁は、煮たった湯にこまかくきざんだネギや人参などを入れ、煮干し粉を加えてから塩と醤油で味つけをし、水でとろとろに溶いたソバ粉を流しこむ。杓子で掻きたてとろりとしたらできあがりというものであった。
こうしたなかで、廃品回収と代用品の奨励・消費の節約がくりかえし強調された。その一翼をになったのが、愛国婦人会や国防婦人会であった。愛国婦人会長野県支部は、十四年四月から軍用機献納運動をおこなったほか慰問袋・慰問状の作成や千人針の作成に力をそそいだ。十六年ころの愛国婦人会長野市分会の役員は、高野イシ・降旗富江・小林よしであった。「白のカッポウ着にたすきがけ、日の丸の小旗」でおなじみの国防婦人会も、慰問袋・慰問状・千人針の作成や蚊帳の吊り輪の献納・廃品回収などさかんにおこなった。また、防空訓練や竹やり訓練の先頭にも立った。十二年ころの長野市支部長は小田切もと、副支部長は菅野たき子・船坂千代子であった。会員の拡大や活動の強化に対抗意識を燃やしてきた両団体であったが、太平洋戦争開始直後の十七年二月大日本連合婦人会をふくめて三団体を統合して「大日本婦人会」を組織した。その主たる活動には、軍人援護、国防訓練、勤労奉仕・食糧増産、貯蓄奨励、翼賛選挙協力の五つの柱をかかげていた。役員は、愛国婦人会や国防婦人会からの横すべりが多かったといわれる。
国民が耐乏生活に苦しむようになっても膨大な軍事費を生み出すために、国民貯蓄や国債(公債)の消化が割り当てられた。十三年五月の国民貯蓄奨励運動以来、市町村ごとに目標を設定し必ず一〇〇パーセント以上の貯蓄実績や国債(公債)の消化が義務づけられた。十四年六月発行の第一一回「割増金付貯蓄債券」は、その裏面に「一、此ノ債券ハ臨時資金調整法ノ規定ニ基キ発行シタルモノニシテ債券売出ニ依ル収益金ハ大蔵省預金部ニ於テ運用スルモノナリ。一、此ノ債券ハ金拾円ニテ売出シ償還ノ際金拾五円ヲ支払フモノナリ」とある。一回の総額は三〇〇〇万円(券面総額四五〇〇万円)で売りだされ、富くじつきで一等一〇〇〇円・二等一〇〇円・三等一〇円が割増金として支払われるようになっていた。この最終償還期日は、昭和三十年十月となっている。また、十七年二月から売り出しの「大東亜戦争割引国庫債券」(口絵)は、券面価格一〇円・売り出し価格七円であった。この償還期日は昭和二十七年となっている。いずれも、敗戦後は反古(ほご)と化した代物であった。
昭和十六年三月十日の治安維持法の改正により、予防拘禁制度が導入され戦争遂行のための「非常措置」拡大がはかられた。このため特高警察の取り締まりは、国民生活のささいなことにまでおよんだ。太平洋戦争開始の翌日全国的な大量検挙検束がおこなわれ、県でも治安維持法違反の被疑事件で一三人が検挙され、予防検束で一〇人が検束されている。この被疑事件は、「信濃毎日新聞学芸欄」関係、「いはひば短歌会」関係、「信州文学社」関係、「信州詩人協会・リアン社」関係の文化運動にかかわるものであった。「信毎学芸欄」事件では、大正末期に三沢精英が編集長に就任して以降学芸欄を中心に左翼的傾向をおびたこと、坂本令太郎・堤清・今井博人ら歴代学芸部長が左翼文化運動に指導的役割をはたしたことが罪状に問われた。「いはひば」事件の罪状は、二・四事件以後の左翼文化運動の再建をはかったこと、町田惣一郎(古物商・上高井郡須坂町)の短歌「当面する人民戦線の内容を語り合つゝ田圃道ゆく」が問題視されたことであった。「信毎学芸欄」事件では山田袈裟雄(信毎印刷工・市内上千歳町)、今井博人(新聞記者・市内狐池)ら四人、「いはひば」事件では宮崎茂(「いはひば」主幹・市内田町)ら二人など、四つの関連事件で計八人が起訴され懲役二年、執行猶予四年の判決をうけている。
当時長野刑務所には、戸坂潤(哲学者・昭和二十年八月九日獄死)など、治安維持法違反で検挙下獄された思想犯が一般受刑者とともに収監されていた。
さらに、二十年七月二十七日には憲兵隊に検挙される教員が出た。長野地区憲兵隊は信濃教育会(旭町)の北寮に入っていたが、全国の空襲が激しくなると善光寺裏山の納骨堂に移った。これを知った後町国民学校の訓導上原好人は、「憲兵隊は市民を残して夜逃げした」と発言し憲兵隊に検挙された。かれは一週間留置されたが、取り調べを受けたのは三回だけというご粗末さで、八月二日には釈放され二週間後には敗戦をむかえている。
防諜という美名のもとに「見ザル・聞カザル・物言ワザル」が強調され、国民はただ命令にしたがうだけの生活になった(写真58)。流言飛語には特高警察や憲兵隊のきびしい取り締まりがおこなわれた。