建物の強制疎開と市街の変貌

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満州事変以後、空襲を受けた場合の被害を最小限にくいとめることを目的としてさかんに「防空演習」がおこなわれ、民間における最大の軍事的行事となっていった。昭和十二年(一九三七)四月五日に「防空法」が公布され、十月一日から施行された。十七年四月十七日米軍機によって本土が初空襲され、しだいに本格的空襲がおこなわれるようになると、十八年十月「防空法」は改正され、防空の範囲を拡大して勅令で工場移転や建物疎開などの命令が出せるようになった。

 十八年十二月「都市疎開実施要項」が閣議決定されると、重要施設(官公署・軍事施設・軍事工場)の周辺に防火区域を設定するため空き地帯を作るとの方針で、周囲の建物を強制的に取りこわすこととなった。東京では、一日三万五〇〇〇人の疎開工事挺身隊を組織し、事業の急速完了をめざすことが十九年五月八日決定されている。

 長野県では、長野・松本・上田・岡谷・諏訪の五市の重要施設や建物の防護を目的として「長野県重要施設周辺建物疎開実施要項」を策定したうえで、昭和二十年七月八日疎開区域を決定すると即日申し渡しをおこなった。この建物強制疎開の内容は、七月十五日までに移転準備を完了させ三十日までに建物の取りこわし作業を終了するというもので、きわめて性急な日程であった。取りこわしには警防団・勤労報国隊・学徒報国隊・義勇隊が動員され、場合によっては軍も出動するという大がかりなものであった。長野県内五市で三七五〇戸が取りこわされたとされる。

 長野市では、長野駅前一帯・日本赤十字病院本館・信濃毎日新聞社・産業会館・長野郵便局・八十二銀行・電話局・勧業銀行の周辺が対象区域とされた。これにより、末広町長野駅前一帯で一二戸、西後町長野郵便局・八十二銀行周辺で一〇戸、権堂町入り口周辺で一二戸など、強制的に撤去させられた。一部住居部分の残った家もあったがほとんどが全壊で、親戚などに身を寄せたものの、店の営業の根拠地を奪われ大半がそのまま廃業を余儀なくされている。このうち駅前にあった木造三階建て「釜鳴」中島屋旅館は、代替地はなく三万二〇〇〇円(当時)の立退き料が支払われたのみという。この駅前の強制疎開には、青服を着た長野刑務所の受刑者も撤去作業に動員させられている(写真59・図3)。


写真59 建物の強制疎開によって市街地の家が取りこわされる
(『写真にみる長野のあゆみ』より)


図3 東後町・西後町建物強制疎開
(川上今朝太郎写真集『昭和で最も暗かった9年間』より)

 仲町通りにあった長野県町教会も、勧業銀行に隣接していたため周辺民家とともに建物強制疎開の対象となった。七月十五日の礼拝を最後にして、教会堂と牧師館が取りこわされた。それ以後、牧師一家は旭町幼稚園(当時は「旭戦時保育園」と称した)とつながっていた婦人宣教師館に住み、礼拝は婦人宣教師館の客間でおこなわれた。

 つづいて県は、八月一日付で県内六市一町の五九地区を「間引疎開地区」として、空き家などの取りこわしの区域とその面積を指定した。長野市では七つの地区が指定された。関係する町区は一七町、合計面積は約一万八一六〇坪(約六ヘクタール)と大規模な計画になっていた。

 さらに、駅前にあった如是姫像は金属回収で撤去され、そのあとには防空壕が掘られた。また、中央通りは本土決戦にそなえて、アスファルトをはがしての防空壕づくりがさかんにおこなわれた。いたるところで大きな穴がつくられ、道路とは思えない惨状を呈した(写真60)。


写真60 中央通りの防空壕づくり (同前書より)

 また、昭和十三年国家総動員法の成立、十四年総動員物資使用収用令の実施などとつづくと、「ぜいたくは敵だ」「買はぬ決心、勝ち抜く決意」の大キャンペーンとなっていき、ついには「看板撤去運動」が起こるようになる。売買するものがなくなってくると大きな看板は必要がなくなってくるわけで、まず十六年早春には善光寺仲見世および仁王門付近、大門町から中央通り・長野駅前の約三キロメートルにわたって、商店の看板がつぎつぎと撤去させられた。なかには、「商業転進・報国の店」の張り紙をだし積極的に看板を撤去して商売がえした店もあった。この看板撤去は夏の終わりころまでには終了し、何の店かもわからない殺風景な商店街となった。市内一の繁華街権堂町では、太平洋戦争開始間もなく名物のすずらん灯は金属回収で供出されたため裸電球ひとつにかえられ、ローマ字看板は敵性文字として強制撤去させられている。「本土決戦」が叫ばれるようになると、家財道具一切から戸障子など持ちだせるものすべてをもって近郊へ疎開する店もあり、あたかも廃墟の街へと変わっていった。そのうえ、住宅や土蔵の白壁には墨を塗りたくって、敵機の目をあざむこうという空しい隠蔽工作までおこなわれた。