昭和十六年(一九四一)十二月八日太平洋戦争に突入すると、長野市会は同日緊急の市会を開き、天機奉伺の執奏依頼電報を宮内大臣松平恒雄あてに打つとともに、内閣総理大臣兼陸軍大臣東条英機・海軍大臣嶋田繁太郎・参謀総長杉山元・軍令部総長永野修身あてに、「決死奉公聖業完遂に邁進せんことを誓ふ」との市会決議を打電している。
真珠湾攻撃をはじめとする奇襲作戦によって、日本軍の緒戦の勝利がつづき国民はその勝利にわきかえったが、十七年六月ミッドウェー海戦以降日本軍は守勢にまわり、犠牲者がしだいに増えていった。しかし、市民にはまだ敗戦の危ぐはなかった。市内長門町では、十月三日の夕方「出征兵士御家族慰安の夕」が開かれている。出征兵士の留守宅を守る家族を激励慰安する目的で、県立図書館(現市立図書館)の三階講堂を借りて開催した。出し物は、舞踊・寸劇・落語・楽器演奏などであった。当日の運営は応召していない青年らがあたり、出征兵士の家族のほとんどが出席したり見学者が多数訪れたりと盛況であった。
兵士の出征にあたっては、全村・全地区をあげて盛大な壮行式や見送りがおこなわれた。『とよさか誌』からそのようすをみると、一般村民はもとより、たすきがけの婦人会員、「祝応召」「祝入営」ののぼり旗を押したてた青年会員、日の丸の小旗を振る児童などが、長蛇の列をつくって軍歌を歌いながら各神社に参拝し、豊栄村役場に集合した。壮行式では、村長・在郷軍人分会長・婦人会長・青年会長のあいさつ、餞別贈呈、出征兵士のあいさつ、村長の発声による万歳三唱などがなされた。その後、出征兵士を先頭に行動し松代駅まで見送ったという。しかし、戦局の悪化とともに軍事機密保持と称して、式は朝早く簡略におこなわれ見送りも自粛させられていった。出征兵士には、女性たちが千人針を贈って武運長久を祈った。千人針は長さ一五〇センチメートル・幅三〇センチメートルくらいの哂(さらし)の布に千個の赤糸の縫玉をつけたもので、戦場で腹に巻いてお守りとした。なかには、五銭硬貨(死戦をこえる)や一〇銭硬貨(苦戦をこえる)を縫いつけたものもあった。
十八年、政府は「勅令在学徴集延期臨時特例」・改正「兵役法」・「徴兵適齢臨時特例」を公布して国民兵役の対象者対象年齢を大幅にひろげた。
十九年にはいると、松本第五〇連隊などの守備するサイパン島・テニアン島・グァム島の守備隊があいついで玉砕した。トラック諸島守備隊のある兵士の体験談によると、「十九年なかばから孤立し補給が途絶えた。島民から接収したり借りたりした土地を開墾して、甘藷を中心とする自給自足の生活を始めた。海に出て魚を捕るのは当然のこと、ドブ鼠やトカゲ・カタツムリなどまで食べ、なんとか飢えをしのいだ」という。
十九年十二月九日長野県内初空襲による上田市小県蚕業学校(現上田東高等学校)の焼失などの被害を受けた。この間、十月十八日「兵役法施行規則」の改正公布により一七歳以上が兵役となった。これに合わせて長野連隊区司令部では陸軍少年兵の募集をおこなった。十月三十一日の締めきり日までに、募集人数の三倍をこえる応募があった。志願者の多くは、神風特別攻撃隊に刺激された「軍国少年」たちであった。
二十年になると、東京大空襲・沖縄地上戦など戦闘員、非戦闘員にかかわりなく犠牲者は増大していった。八月十三日には長野市も空襲されて大きな被害犠牲を受け、ついに八月十五日敗戦をむかえた。
長野市の満州事変以降十五年戦争による犠牲者は、『県史近代』③には戦没者三九八九人・満州開拓犠牲者六一〇人とある。『松代町史』続巻には詳しい戦病死者一覧が載せてあるが、これによると、松代地区の戦病死者六七〇人・満州開拓団勤労奉仕隊犠牲者一四四人の合計八一四人である(表26)。犠牲者は、昭和十二年に一二人とやや多いが、やはり太平洋戦争開始後には増加していき、十九年二五六人、二十年三七五人と、たった二年間で六三一人となっている。また二十一年以降でも、シベリアや中国などの捕虜収容所での死亡者や復員後の死亡者も六五人と少なくない。満州開拓団関係では、二十年八月二十七日の東安省勃利(ボーリー)佐渡開拓団跡事件での犠牲者が一〇六人と非常に多い。この事件では、池田健太郎東索倫河(ひがしそろんほ)埴科郷団長(元寺尾尋常高等小学校校長)以下、在団者二二九人中二一五人が死亡した。
日本赤十字社長野県支部では、昭和七年三月八日の臨時救護班二七人の編成派遣以来、終戦までに救護医員・救護書記・救護看護婦による救護班を三六班・七九〇人にわたって編成派遣した。これらの救護員は、中国大陸や南太平洋の島々に派遣され、傷病将兵や一般人の救護にあたった。しかし、戦闘や災害に巻きこまれたり病気などに倒れたりして、数多くの犠牲者をだしている。とくに、十二年以降は激務からくる結核性疾患による殉職が多かった。長野県支部関係の殉職者は、救護医員一人・救護書記二人・救護看護婦二九人(うち長野支部救護看護婦養成所・現長野赤十字看護専門学校卒業二五人)となっている。
このほか各村史(誌)、区史(誌)などによると、犠牲者の人数は市内古牧区で一八五人、西長野区で六九人、若槻村で一七五人、七二会村で一七五人、塩崎村で一六四人、綿内村で一八五人、など多人数にのぼっている(表27)。
戦病死者の葬儀は、各市町村の主催でおこなわれた。十四年春には、長野市で初めての合同慰霊祭が城山小学校校庭でおこなわれ、善光寺一山の僧侶の読経のうち遺族をはじめとする多くの市民が参列焼香した。また、四月十九日には善光寺大本願で護国英霊追悼法要がおこなわれた。遺族六〇人余のほか、高野忠衛長野市長など多数の来賓も参列している。さらに十七年五月にも、城山国民学校校庭で一四英霊の合同葬儀がおこなわれた。
長野市周辺の村葬では、かなり大がかりになることが多かった。もよりの駅まで村民が英霊を迎えに出て、葬送のラッパとともにしめやかに行進した。日を改めての葬儀には、県・郡の役人、官公署の役人、郡内各町村長や各学校長・産業会長・在郷軍人分会長などが参列し、また、村内の役職者・在郷軍人分会員・婦人会員・消防団員・青年団員・学校児童らも参列した。村長が葬儀委員長となり、村の各戸ひとりあて会葬するなどしている。しかし、戦局の悪化とともに、しだいに葬儀をおこなうことができなくなり、戦後になって改めて合同葬儀をおこなったところもあった。
保科村では「大東亜戦争戦没者名簿」によると、十三年十月八日の合同村葬を皮切りに、毎年一回ないしは二回の村葬がおこなわれている。戦病死者の人数が、あまりに多くかつ多方面にわたっていたため、死亡の確認が二十四年ころまで大幅に遅れた。そのため、敗戦後の二十一年以降も順次村葬がおこなわれ、最終は二十四年三月七日となっている。
なお、十四年十一月には、傷痍軍人長野療養所(現国立療養所東長野病院)が若槻村に開所した。この療養所はおもに結核性傷痍軍人収容のための医療施設で、当初の収容ベッド数は五〇〇床であった。その後傷痍軍人の人数が増加したため、十八年には一〇〇〇床へと増加されている。