市町村民の勤労動員

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日中戦争から太平洋戦争にかけては、国民精神の総動員下にあって市町村民は絶えず軍事や軍需の動員にさらされていた。それは戦局の重大化にともなって、極限に達していた。それは膨大な兵力の増員の結果、軍需産業部門における労働力不足、農村における農業労働力の低減となってあらわれ、それを補うための一般の勤労奉仕や学徒勤労動員が実施されるようになった。現長野市域においても、それを打開するためにさまざまな方途が講ぜられた。昭和十二年(一九三七)後半に、県は各市町村において、勤労奉仕班を組織するよう勧奨活動を始めた。

 七二会村では日中戦争にともなって人馬の徴発による影響を克服するために、勤労奉仕施設を設置して、県から補助金の交付をえようとして事業計画を作成して申請した。その計画は、勤労奉仕部は村農会、産業組合、養蚕業組合、在郷軍人会、男女青年団、消防組などが協力して、村内に十班の奉仕班を編成して、応召家庭にたいし労力を提供しようとするもので、そこには集落を単位とする一〇班四〇組合の班編成組織と事業収支予算書が添えられていた。『七二会村史』に記載されている昭和十三年のその勤労奉仕の実績は、表28・29のようなものであった。


表28 勤労奉仕実績表(6月) (昭和13年)


表29 勤労奉仕状況 (昭和13年)

 こうした農村における農業労働力の調整のほか、軍需産業の発展による軍事工業労働力の確保が、重要な課題になり、昭和十四年七月国民徴用令が出された。いわゆる「白紙召集」により軍需工場に、国民を強制的に徴用できるようになり、さらに十七年二月九日の長野県国民勤労報国協力会実施要領等によって、県民の勤労奉仕の協力が義務法制化された。

 戦局の進行とともに、男子の出征や軍需工場出勤で欠乏をきたした労働力の補充が女子にかかってきて、それを打開させるための女子勤労挺身隊が結成された。いっぽう、学徒勤労動員もしだいに強化され、十八年六月十八日には国民勤労報国協力令の協力期間の延長、年齢の引きあげ(男子を一四歳から五〇歳)等の改正がはかられ、二十年三月六日国民勤労動員令による、根こそぎ動員にいたるのである。その間における現長野市域に関する資料は、学徒動員以外はほとんど発見されていないが、二、三のことがらにふれるとつぎのようであった。

 その第一は、更級郡塩崎村における十八年九月二十五日の塩崎村勤労報国隊の結成である。『塩崎村史』によれば、塩崎村ではこの日役場において、国民学校長、青少年団長、婦人会各区支部長の協議会を開催し、勤労報国隊を結成することになった。これにより男子は一四歳から五〇歳まで、女子は一四歳から二五歳までの未婚者は、青少年団等で組織する勤労報国隊に編成されることになった。塩崎村青少年団勤労報国隊の編成は、「青少年団勤労報国隊長田中雄(村長)、青年隊隊長広田公男(国民学校長)、一個中隊・二個小隊編成 隊員六〇人、女子青年隊隊長広田公男、一個中隊・四個小隊編成 隊員二〇〇人」となっていた。

 これとは別に、翼賛壮年団の国民勤労報国隊結成式および健民運動大会が、同年十月十七日に同村国民学校で開催されている。そのときの競技種目はつぎのようであった。

1、百米 2、俵かつぎ競争 3、手榴弾投 4、国防競争 5、軍装競争 6、棒押 7、俵運搬継走 8、八百米継走(予選) 9、番外(昼食) 10、綱引 11、八百米 12、杓子競争 13、百米決勝 14、屈進競争 15、俵かつぎ競争決勝 16、俵運搬継走決勝 17、棒押決勝 18、八百米継走決勝

 現長野市域で国民勤労報国隊が動員された場所はかなりの数にのぼったとみられるが、その一つに日本無線長野工場がある。同工場は、航空機用通信機などを製作する工場であるが、昭和十九年三月長野市栗田に設立され、正規従業員は四三〇〇人ほどであったが、そのほか二七〇〇人の国民勤労報国隊の労務者が働いていた(『日本無線長野工場社史』)。

 昭和十九年一月から、二五歳未満の未婚女子を対象とした女子勤労挺身隊の動員が始まる。同年四月、長野高等女学校を卒業した女子勤労挺身隊が、県内の他の高女卒業生とともに愛知県の豊川海軍工廠(こうしょう)へ出動している。


写真64 昭和19年12月8日に社長訓辞を聞く日本無線の従業員、学徒報国隊、女子挺身隊、産業報国青年隊
(日本無線『三十年の歩み』より)