長野市域への疎開と工場疎開

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米軍機による日本本土空襲が必至の情勢となった昭和十九年一月、東京都と名古屋市で初めて疎開命令がだされた。これ以後内陸県である長野県は軍事的にみて比較的に安全だとみなされ、工場・軍機関・一般人・学童の疎開先となっていった。

 それは長野市域とその周辺の町村の人口増加となってあらわれ、表30にみられるように、長野市人口が十九年二月に七万七六六九人だったものが、翌二十年十一月には八万九九二三人と一万二〇〇〇人ほども増加している。そのなかには、疎開者がかなりふくまれていると考えられる。それは周辺の松代町・篠ノ井町・若槻村・七二会村についてもいえることである。


表30 戦時下の人口動態(一部)

 表31によって松代町への府県別疎開者数をみると、断然多いのが東京都で、横浜をふくむ神奈川県と名古屋をふくむ愛知県がこれにつづいている。松代町の人口増加分三七一二人のうち、疎開者が一三六一人である。


表31 松代町への府県別疎開者数

 また、疎開者の受け入れ数の推移(図4)をみると、松代町の場合そのピークは二ヵ所あって、その第一のピークは十九年三月であった。それは一月の防空法による疎開命令と、三月の一般疎開促進要綱が出された直後のことで、松代町には一ヵ月に一七三人の一般疎開者が転入した。そのうち東京都からの疎開者は一三七人であった。第二のピークは、二十年三月十日のB29による東京夜間大空襲のあとであった。そのときは一九一人が松代町に転入した。


図4 松代町の年月別疎開者受け入れ数の推移 (同前書により作成)

 松代町においては、十九年三月現在、一三六一人の疎開者のうち独立家屋と間借りの住居での居住者が一〇一一人で、残りは同居であった。疎開者は慢性的な食糧・衣料不足のなかで、家族の別居生活・二重生活による経済負担やさびしさ、ふなれな土地でのさまざまな苦労、他人との生活によるトラブルなど、きびしい深刻な日々の連続であった。飢えをしのぶために、衣服などと食糧を物々交換するなども日常的なことであった。

 昭和二十年六月十八日県内政部長名で「学校校舎ノ転用ニ関スル件」の通牒が出され、疎開工場のための校舎転用がおこなわれた。塩崎村では二十年六月二十六日村議会において、塩崎国民学校体操場を東京都世田谷区玉川用賀町皇国第四〇七五工場に転用貸しつけることを議決した。同工場は酸素兵器、航空計器製作仕上げを任務としていた。その貸借条件は、「一、木造瓦葺平屋建一棟、この建坪四七五・二平方メートル、この賃貸借月額三・三平方メートルあたり三円とし毎月二十五日までに納入する。二、貸付期間は、契約の日から一ヵ年とする。三、貸付期間中の修繕等の費用は、借受人の負担とする。」というものであった。契約後、同軍需工場疎開のために体操場へは機械や資材を搬入させ、機械のすえつけも始められたが、事業開始にいたらないうちに敗戦となった。


写真65 昭和19~20年に東京都各区長が疎開にともなって発行した地方転出証明書

 また、二十年六月からは塩崎村見山部落の西方の山あいにある雁沢地籍に、長野市にある皇国第三九二工場の分散疎開をするために鳥坂の入り口に飯場がつくられ、「朝鮮人労務者」による工事用道路付けかえ作業が始められた。これも工場予定地の整地作業中に敗戦となった。さらに敗戦直前の五月には見山南部の山腹に日出航空工業株式会社(社長米山直太郎)の地下工場建設計画が進められていた。この計画にあたって五月二十三日付で、塩崎村長風間清一郎から大要つぎのような会議通知が地主たちにだされていた。

 戦局は正に皇国の興廃を決する決戦段階に突入して、本土の空襲はいよいよ激しいものとなり、今こそ航空機の増産確保は焦眉の急務となってきました。今回、篠ノ井町の日出航空工業株式会社が本村見山付近の一部の地層その他を調査したところ、この付近は地下工場として最適地だということが分かり、そこを疎開工場地にしたいとの申し出がありました。そこでこのことについてご相談したいことがありますので、ご参集ください。

 なお、この日出航空工業株式会社は、中島飛行機株式会社小泉製作所(海軍機製造)の協力工場として設立されたもので、計画された地下工場は、零式戦闘機をつくるための施設であった。当時の関係者によるとこの地下壕掘削のため、鹿島建設から貨車で一五〇両におよぶ機械と資材が搬入されて、現場には二棟飯場が建設されたという。この地下工場は七月二十日ころ、国鉄から浜松の国鉄機関車製造工場疎開のために譲渡してほしいとの依頼があって、関係方面の了解のもとに国鉄への譲渡が決定した。しかし、まもなく八月十五日敗戦となり、工事は中止された。

 塩崎村への工場疎開はそのほとんどが準備段階で敗戦を迎えるが、ただひとつ六月六日に操業にこぎつけた工場があった。それは稲荷山駅前に開業した上田無線の下請け工場で、飛行機部品の製造を仕事とする共栄製作所であった。これも操業二ヵ月余にして敗戦を迎えることになった(『塩崎村史』)。

 なお、長野市内の各学校への工場疎開もおこなわれた。長野師範学校では、名古屋から三菱飛行機第一製作所、東京からは凸版印刷株式会社を迎えて、学校工場を二十年四月から開いた。長野高等女学校は、東京の百貨店の三越・白木屋・高島屋の軍需縫製部門を迎えて、教室にミシンを備えつけて十九年七月から工場化した。長野工業学校は十九年六月から市内の仁科工業株式会社と提携して、工作機械を使っての学校工場を始めた。これは工業実習を兼ねた学校工場の試みであった。