松代大本営の建設と強制労働

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太平洋戦争末期の昭和十九年(一九四四)秋から埴科郡松代町と周辺の西条・豊栄・東条・清野の各村々に、戦争を指揮する大本営の地下壕が突如極秘のうちに建設され始めた。大本営関連施設は翌二十年にかけて上高井郡須坂町・同都住(つすみ)村、下高井郡平野村、上水内郡安茂里(あもり)村・芋井村などに拡大され、善光寺平にひろがった。

 大本営は、陸軍参謀本部を大本営陸軍部、海軍軍令部を大本営海軍部として天皇が最高指揮官となり戦時の戦争指導をすすめる最高統帥機関として宮中に置かれていた。この大本営を東京から松代町に移転しようという計画が陸軍によって急浮上してきた。それは大本営が日本本土防衛の最後のラインとして設定した「絶対国防圏」が連合国軍の反撃により危うくなり、連合国軍の空襲が必至と予想された昭和十九年に、大本営陸軍参謀井田(岩田)正孝少佐が陸軍次官富永恭次中将に大本営の移動案を建言したときである。

 昭和十九年五月ころ富永次官の内命により井田少佐らは大本営の適地を探すため長野県に入り、松代町付近に候補地を選んで報告し、七月東条英機陸相(首相)の許可をえた。七月から八月、サイパン島はじめマリアナ諸島が連合国軍に占領されたため、開発されたばかりのB29爆撃機による空襲がただちに本土におよぶと考えた軍部は、大本営をはじめ重要軍事地下施設を緊急に建造しなければならなくなった。

 東条内閣崩壊後成立した小磯国昭内閣の杉山元(はじめ)陸相は、十月四日大本営の建設命令を出し(「マ一〇・四工事」)、十一月十一日工事の最初の発破がかけられた。松代町付近が適地とされたのは岩田少佐らによると、①本州の中央部にあり海岸線から遠い、②前面に川中島の平坦地があり近くに陸軍の飛行場がある、③松代の山々は岩盤が硬く一〇トン爆弾にも堪えられる、④労働力が豊富である、⑤防諜上秘密が守れる、⑥信州は人情が良く信州は神州に通じ風格がある、といった理由をあげた。また、大本営を東京から移転させる目的は、連合国軍の空襲から大本営を守り、さらに本土決戦の指揮をとり、最終的には「国体の護持」つまり絶対主義天皇制を守るということにあった(岩田少佐らの証言)。


写真66 松代大本営半地下式の天皇ご座所予定地
(『写真にみる長野のあゆみ』より)

 地下壕は図5のように松代町を中心に善光寺平一帯に分布して掘削が進められ、表32のように進められた。松代の象山(ぞうざん)に政府の一部と日本放送協会・中央電話局(延べ約五九〇〇メートル)、舞鶴山に大本営作戦室(参謀本部)と天皇・皇后などの仮皇居(延べ約二六〇〇メートル)、皆神山に食料庫(延べ約一九〇〇メートル)が計画され、計約一〇キロメートル余(壕は独立)という大規模なものである。


図5 松代大本営関係施設 (『松代大本営歴史の証言』により一部補作)


表32 松代大本営等の工事概要

 全体の工事の施工と指導管理は東部軍経理部があたり、地下建設隊長(長野施設隊長)は加藤幸夫建技少佐、技術指導は運輸通信省熱海地方施設部、実際の掘削工事はトンネル部分は西松組、建物は鹿島(かじま)組が請負い、地域の土建業者に下請けさせた。土木建築工事費(地下壕部分)は一〇三三万円という記録があるが、加藤施設隊長は一億円は上回らないだろうと証言し、吉田栄一工事主任は二億円程度と概算している。

 地下壕掘削工事の主要な労働力は、日本国内にいた朝鮮人労働者と植民地だった朝鮮半島から強制連行されてきた朝鮮人によるもので、合わせて多いときで七〇〇〇人といわれる(朴慶植調査)。朝鮮人強制連行調査団編の記録では、五回にわたって計四〇〇〇人が連行されてきたとしている。このほかに東部軍作業中隊などの日本兵と周辺の市町村から徴集された国民勤労報国隊、大学高専生と地元中等学校生・国民学校生などが勤労奉仕に駆りだされた。労働者たちはドリル(ロッド)で岩に穴をあけダイナマイトを穴に仕掛けて爆破し、ツルハシ・シャベルで石屑(ずり)をトロッコに載せて坑外に出すという、危険で原始的な作業をつづけた。朝鮮人労働者は劣悪な三角兵舎などの住居にくらし、高梁(コウリャン)・大豆・麦・とうもろこしの粉などの粗食で一日二~三回交替の長時間労働に堪えた。そのため作業による事故死・栄養失調に苦しみ、格別寒かった昭和十九年冬から真夏の二十年八月敗戦まで、きびしい監視下で労働に従事した。犠牲者は諸説あるが正確な数字はわからない。


写真67 岩山をくり抜いた松代大本営の入り口

 昭和二十年一月に大本営は本土決戦を正式に決定し、松代工事について東部軍は三月二十三日第二期工事(「マ三・二三工事」)に入り、大本営作戦室の整備と仮皇居建設にとりかかり、本土決戦と天皇・皇后の東京からの動座に備えて舞鶴山地下壕建設に労働力を投入した。そのため四月から付近の西条村住民一二四世帯・六百余人を短期間に村内外に強制移転させた。二十年六月阿南惟幾(これちか)陸相らは大本営建設の進捗状況を視察し、また、陸軍の移転計画を知った木戸幸一内大臣は小倉侍従らを松代に派遣した。小倉侍従は皇位の象徴である三種の神器を入れる賢所(かしこどころ)を仮皇居と別に作るよう示唆した。七月弘法山山麓に急いで建設をはじめたが未完に終わった。

 ポツダム宣言が発せられたあと木戸内大臣は昭和天皇に、国体を護持するために信州行(松代大本営)を奨め、天皇も七月末には同意したが、結局実現はしなかった。すでに天皇・皇后を護送する車が用意され、通信隊が松代・須坂に派遣されていたが、八月十六日東部軍は松代関係の全工事を中止した。朝鮮人労働者は解放され、帰国者が相つぎ、日本軍の作業隊、勤労報国隊も解散した。

 戦後連合国軍(進駐軍)が松代大本営の実態を調査にきて、写真にとり東部軍から報告を出させた。舞鶴山の地下壕や仮皇居は中央気象台の分室となり、のち気象庁地震観測所と改称された。象山地下壕は篠ノ井旭高校郷土研究班や市民団体の運動によって長野市役所が一部を管理し、一般に公開している。現在、全国的に戦争遺跡の保存運動が高まり、松代大本営は重要な遺跡の一つとして全国から見学者が訪れている。