長野空襲と敗戦

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広島に原子爆弾が投じられ、「新型爆弾」「熱戦爆弾」の名で各新聞に部分的に報じられたのは八月十日であり、破壊力・爆風は恐るるに足りないという中部軍参謀の談話を載せた(『信毎』『毎日』等)。しかし、九日の長崎原爆ののち八月十一日付で載った下村情報局総裁の談話は、使用された新型爆弾は「人類史上かつて見ざる残虐無道なる惨害」をあたえたと認め、ソ連も宣戦して「今や真に最悪の状態に立ち至ったことを認めざるを得ない」と述べ、「正しく国体を護持し民族の名誉を保持せんとする最後の一戦」と国民に訴え、阿南陸相は全軍に「死中に自ら活を信ず」と布告した。

 戦局の真相が隠されてきたものの事態の深刻さを政府も認めてきた状況のなかで、八月十三日突如早朝から米軍艦載機が長野市の市部・近郊を攻撃してきた。奥住喜重によれば、日本空襲の第一期は大都市軍事工業地帯の高度精密爆撃、第二期は夜間大空襲など大都市焼夷空襲、そして第三期は中小都市の空襲であり(『中小都市空襲』)、昭和二十年六月十七日から八月十五日までで、長野空襲は第三期になる。県下では最大の被害を出した。七月三十一日から八月一日米機は七発のビラ爆弾をまき、「日本国民に告ぐ」という見出しで、数日のうちに軍事施設を爆撃すると予告し、戦争に国民を引っ張りこんでいる軍部こそ敵だから戦争を止める新指導者を立てたらどうか、と結んでいた。ビラは八王子・水戸・長岡などにもまかれ、それらの都市を空襲している。

 八月十三日太平洋上の鹿島灘にいた米軍機動部隊の艦上から発進したグラマンF6F、F4Uが上田方面から長野市上空に飛来して、午前六時五〇分ごろから午後三時半ごろまで五回にわたり断続的に攻撃した。ほぼ数機の編隊を組み、ロケット弾・焼夷弾・機関銃撃などにより、交通の要地である国鉄長野駅・長野機関区などと陸軍使用の長野飛行場を主として攻撃した。その他市内の目だった建物、郊外の国立若槻療養所、長野電鉄駅、畑に働く農民、道路の通行人などまで銃撃した。松代町では一機が民家に爆弾を投下している。


写真68 長野市の爆撃を報ずる8月14日の『信毎』

 この結果、長野機関区で職員八人、兵隊三人、吉田駅員一人の計一二人が死亡、同市川合新田の長野飛行場では掩体壕にあった練習機が破壊焼失、飛行場拡張工事の三人が死亡。近くの松岡・川合新田などの民家で一二人死亡。松代町で主婦・老人・こどもなど六人が死亡。長野療養所では五人の職員・患者らが死亡した。その他篠ノ井・川中島・吉田・川田などをふくめ少なくとも合計四七人が死亡した(長野空襲を語り継ぐ会調査)。物的な被害では長野駅周辺を中心に家屋の焼失、破壊をだしている。終戦二日前の日に起こったできごとであった。被害について長野県下で家屋の全焼全壊六二戸、半焼半壊二八戸、罹災者三五〇人という数字があり(『信毎年鑑』昭和二十二年版)、長野市では罹災者に衣料品・薬品・復旧資材を支給・斡旋している(『事務報告書』)。

 長野市の空襲は、末期中小都市空襲として地方都市の交通の要地および軍事的な飛行場を攻撃すること、地方住民になまなましい武力攻撃をして心理的な恐怖をあたえることなどに目的があったと考えられる。なお、当時極秘のうちに建設中の松代大本営地下壕について米機はまったく認識していなかったのではないらしく、象山地下壕の上にまできている。ただし一発の爆弾は少し離れた松代町の御安(ごあん)町に落としている。


写真69 空襲を受けて焼け落ちた国鉄長野工機部 (風間芳男所蔵)

 すでに新型爆弾を新聞で知っていた長野市民のあいだに不安がひろがっていて、十三日の夕方から周辺の山手に蚊帳(かや)や鍋釜をもって移動する人びとが多くなり、また川中島方面はじめ周辺の農村に避難をはじめた。

 長野飛行場は民間飛行場として昭和十四年三月業務が開始され小型飛行機が東京・大阪・新潟などに運航していたが、昭和十六年陸軍に接収され練習機の訓練に使われた。松代大本営の構築が始まり大本営と東京など各地の軍機関とを結ぶものとして重視されるようになり、大型軍用機の離着陸可能に拡張しなければならなくなった。

 昭和二十年一月、千葉県八街飛行場滑走路を完成させた陸軍航空本部経理部第三特設作業隊二百余人は、隊長菅又親一建技中尉の指揮によって運輸通信省所属の長野飛行場を大型機の着陸を可能にする作業に着手した。菅又中尉は、松代に洞穴を設け天皇の御座所を作るのにあわせて、長野飛行場を四月中旬までに拡張し完成する予定だったと記している。作業隊は日本軍の特設作業隊二百余人と朝鮮からの強制連行者三百余人、地元の勤労奉仕隊約一〇〇人、合計六百余人が、既存の飛行場の北側に拡張工事をすすめた。

 そして予定どおり四月中にコンクリート未舗装ではあったが拡張工事を終わり、飛行機を隠す掩体壕を作り、つぎの工事のため上水内郡長沼村に移動をはじめたので、八月十三日の長野空襲では被害者がほとんど出なかった。八月十五日の敗戦によって朝鮮人強制連行者たちは、一定の賃金をあたえられて故国へ帰還していった。

 八月十四日、日本政府は米・英・中・ソ四国共同宣言(ポツダム宣言)を受諾、無条件降伏を決定し、昭和天皇の名で敗戦の詔書を発布した。翌十五日正午天皇みずからラジオを通じて全国民・全将兵に放送した。これをもって昭和六年九月から約一五年にわたる戦争が終わった。詔書は「万世の為に太平を開かん」と述べ、国体を護持し得て挙国一家神州の不滅を信じ国体の精華を発揮したい、というものであった。

 国民はこれから食糧をはじめ衣食住生活のきびしさに堪え、荒れはてた日本の再建に取りくむことになった。海外からは生き残った将兵や開拓民が帰国しはじめ、日本からは植民地からの強制連行者たちが帰国をはじめた。日本のアジア太平洋戦争により、深刻な被害をあたえたアジア諸国民への戦争責任が大きな問題として残り、日本が平和国家として新生する課題が戦後につづいていく。