昭和十二年(一九三七)に文部省は学制改革をめざして教育審議会を設け、国民学校の構想をかためて十五年からの実施に向けての準備を進めた。県内では信濃教育会が雑誌『信濃教育』に文部大臣橋田邦彦「教育の道」(六三九号)をはじめとする論文を掲載して、国民学校制度を受けいれるための啓発活動をおこなった。
いっぽう、国民学校への移行について先行的実践研究をしたのは、長野・松本の両師範の付属小学校であった。たとえば、長野師範付属小学校は、第一学年一学級を対象に、十五年四月から教科の総合的取りあつかいを実施した。また、法改正より半年早く十五年九月から国民学校案の試行にはいり、その成果が『国民学校教科の実践的研究』であった。これはあとで続刊される同校の研究物『国民学校叢書』全一一冊とともに、県下の国民学校教育に大きな影響をあたえた。
昭和十六年三月「国民学校令」が公布され、長いあいだ親しまれてきた小学校の名称がなくなり、「国民学校」となった。国民学校は従来の尋常科を改めた初等科六年と、高等科二年とし、高等科修了者のために一年の専修科を設けることができるとした。義務教育年限を八年としたが、戦争の激化のために無期延期となり、実現をみなかった。国民学校令では教育の目的を、「皇国ノ道ニ則リテ初等普通教育ヲ施シ、国民ノ基礎的練成ヲ為スヲ以テ目的トス」とされた。
国民学校教育の中心は皇国民の練成にあったので、いずれの学校も教授・訓練・養護を教育の柱として統一した人格を育成しようとした。教科指導の面では教科を国民科・理数科・体練科・芸能科および実業科(高等科)の五教科とした。さらに各教科のさまざまな内容をその目的と性質とに応じて組織し、教科の部分目的を達成させようとする小分節がつくられて科目となった。たとえば国民科(教科)には、修身・国語・国史・地理の各科目が包含されるというような構成をとっている。また、学校行事・儀式なども重視して、教科の教育と合わせて、これを「国民練成の道場」として位置づけようとした。
現長野市域では、戦時中長野市内で特色ある学校といわれた、後町国民学校が徹底した心身の鍛練教育を実施した。寒中稽古と称して男子は剣道、女子は薙刀(なぎなた)をおこない、寒中でも素足で訓練した。初等科四年から六年までの児童は八幡原まででかけ、川中島の戦いを再現しようとしたり、三年生以上を対象にしての戸隠神社への参拝競歩大会を強行したりもした。また、校庭に土俵を築き、さらに戸隠に相撲道場をつくったりして、国技としての相撲にも力を入れた。校内に忠霊室をつくって戦没者の霊を慰めるとともに軍人援護教育に尽力した。出征兵士に慰問文を送ったり、遺族の家への勤労奉仕なども盛んにおこなった。
更級郡篠ノ井町の通明国民学校では「国民学校令」発令前の十六年一月十六日から毎職員会において「国民学校教則」の読みあわせ研究会がとられ、職員の研修活動がつづけられた。発足後の公務分担に新たに訓練係が設けられ、児童心得・儀式行事・団体訓練・清掃訓練・食事訓練・勤労作業訓練・防護団訓練・避難訓練・少年団訓練などの指導を担当することになり、まさに学校は皇国民の練成の場となった。また、時局係は軍人援護教育の県指定校の仕事を推進し、忠霊室を設けて戦没者の霊をまつり、敬神崇祖の念を深め、尽忠報国の精神を養う活動を担当した。さらに職業指導係は、義勇軍送出・慰問の仕事を中心に進路指導にあたった。とくに体錬科を重視して、積極的に相撲・薙刀・剣道・柔道などをとりいれ、昭和十六年七月には、相撲道場をつくって学校をあげて国技を奨励した。
更級郡教育会では、郡をあげて高等科男子による兵式運動会を挙行した。これは甲乙丙丁戊の支会ごとにそれぞれ中隊を編成して、川中島平で決戦をするという軍事演習であった。この日に備えて、各校は軍事教練を重ねて運動会を盛りあげた。その中心校の役割を果たしたのも通明国民学校であった。
通明国民学校の教科課程は、初等科では国民学校令と同一であったが、高等科では篠ノ井町の地域性に配慮して、国語科の綴方、実業科の商業、理数科の算数、芸能科の工作などに、各一時間増の配当をしているのが特色である。高等科の教科課程は表33のようであった。
「児童心得」のなかには児童練成の一日として、起床洗面から就寝までの生活の一こま一こまについて、微細なきまりをつくって規制しようとした。たとえば、登校のさいは「二列ニ揃ッテ左側通行、歩調合ワセテサッサト歩ク、知ッタ方ニハ元気ナ敬礼、神社ノ前デハ脱帽拝礼。校門ニ入ッテマズ一礼、奉安殿ニハ最敬礼、履物揃ヘテ(雨具モ)帽子モ正シク」などときめられていた。
また、野外練成が重要視され、その計画表も立てられ、表34のように初等科五年生以上には鍛練登山旅行が、高等科二年生には武装行軍が課せられていた。
城山国民学校は、児童の基礎的練成のための訓練を重視した。そのために少年団を組織し、月あるいは週ごとに団体訓練を継続的に実施して、学校教育とこんぜん一体化をはかろうとした。さらに国民学校教育のねらいを果たすために、教授・訓練・養護を統合した行事である月例遠足や児童の心身鍛練と団体訓練のための特設行事としての「夏期修養会」があった。これらの鍛練に耐えられない児童のために、一、二、三学年には、虚弱児を対象にした養護学級をつくり、少人数で教師の手がよく行きとどくようにした。そして必要な栄養をとらせるために特別な給食をあたえたり、戸隠保養所で特別訓練をした。
さらに、これら国民学校教育のねらいである児童の練成のために、施設・設備の充実と改善がはかられた。十七年九月の給食用かまどの創設、十八年八月の雨天体操場の拡張、十九年八月の防火用水池兼水泳場の完成、十八年度から十九年度にかけての校舎の増築などがそれである。しかし、戦局の重大な局面を迎えた十九年八月には、東京都からの大量の集団疎開児童を受けいれたために、二部授業を余儀なくされた。
学徒勤労動員が本格的に始められた十九年度以降の児童の勤労作業は、学校農場の農工作業の枠をこえて、作業は校外における落ち穂拾いをはじめとして、山野草やどんぐりの採集、こおろぎ取り、草刈り、さらに農家や工場への動員もおこなわれた。とくに「隔週日曜休業廃止、初三以上授業をおこなう」ことがきまると、高等科生は連日勤労作業に動員されるようになった。十九年六月の、学校日誌から抽出した状況は表35のようであった。
二十年三月十八日に「決戦教育措置要綱」が閣議決定して、四月から高等科は授業停止となった。そこで高等科二年生は、四月から日本無線工場へ勤労動員され、五月からは高等科一年女子も長野師範工場へ勤労動員された。八月一日には全校授業停止となり、十三日には長野市が空襲され、十五日に敗戦を迎えた。