長野市の都市化・都市部の拡大による人口・就学児童の増加等にともなって、昭和十年代にいくつかの小学校・中等学校の新設・修改築、移転がおこなわれた。
昭和十二年三月三十一日には、川端西沖地籍(現櫻ヶ岡中学校地籍)に、川端尋常高等小学校が新設された。創立時の通学範囲は、緑町・鶴賀七瀬・居町・川端であったが、校舎校庭が建設工事中はやむなく分散教育の形をとり、児童は鍋屋田・芹田・柳町各小学校に収容され、入学式・始業式は各校においておこなわれた。四月八日には、新校長として上田北校から本山弘治が着任、新設校の準備にあたった。同年七月には、普通校舎の大部分ができあがり、九月一日、鍋屋田・芹田・柳町各小学校に分散していた児童に七瀬町・中町の児童を加え、職員ともどもそろって二学期始業式がおこなわれた。同日、これまで後町小学校に併設されていた市立長野実科高等女学校も移転併設され、尋常科一八学級・高等科六学級、実科高等女学校七学級、両校合わせて三一学級という大規模校がここに誕生した。
学校施設は、敷地九四八四坪(約三・一ヘクタール)に、二五万五五〇〇円の予算をもって昭和十一年から起工され、木造校舎三棟、講堂(十二年十二月完成)、屋外運動場、体操室・茶室・作法・割烹・洗濯等の特別教室等を備え、耐震耐風にも留意されていた。『信毎』は「県下第一の完備した学校」とし、学校に向かう児童のようすを「視野の広い青日の中に生まれ出た『おいらの学校』を物珍しげに喜びの眼で眺め、すがすがしい大空にむかって『いいなあ』と叫んだ。」と報じている。
川端尋常高等小学校新設の要因は、長野市における小学校児童数の急増にあった。昭和八年四月現在の児童数は一万一九五二人、総学級数二二九学級で、それぞれ五年前(昭和四年)より一五六五人(年平均三〇〇人)、一六学級増加しており、尋常科の一学級平均児童数は五四人(三人増)であった。翌九年度新入生は、城山・加茂・後町を除き一学級六〇人以上で、その後も児童数は増加の一途をたどり、十九年には一万四〇〇〇人をこえることが見こまれた(市学務課調査)。このような児童数の急増、一学級児童数の増加による教育力の減退が市会においても問題とされ、小学校の新設および既存小学校の修改築が緊急課題になった。市学務課は、九年小学校新設の具体的な準備に入り、十年実科高等女学校併設の川端小学校新設計画および山王・古牧・芹田・三輪各小学校の増改築計画を提案、教育審議会(市会議員一〇人、公民三人で構成)の審議を経て、十年十二月二十五日の市会において正式決定した。
このような経過で設立された川端尋常高等小学校は、以後、戦時下の十六年国民学校令によって、川端国民学校となり、敗戦後の二十一年学制改革によって、新制川端中学校になる。
十五年四月十六日、長野市立中学校が、この川端尋常高等小学校校舎を仮用して新設された。十四年県視学から赴任した伝田精爾は、川端小・実科高女・市立中学三校の校長を兼務し三校併設体制が始まり、さらに十七年四月からは長野市立夜間中学校の開校による四校併設が、十八年一月栗田地籍(現南部小学校地籍)に中学校校舎完成、移転するまでつづいた。
長野市立中学校設立の背景には、長野市内における中等学校進学志望者の逐年増加傾向と、十五年の中学校入学者選抜方法の改正があった。昭和期に入り市内の中等学校志望者は増加の一途をたどり、市当局は対応策として、十五年一月、長野高等女学校二学級、同中学校、同商業学校各一学級の増設を県に要望したが、施設増設をともなうことを理由に却下された。また、十五年度から中学校入学者の選抜方法が改正され、従来の筆記試験を廃して、小学校長の内申、面接による人物考査および身体測定による判定に変わることになった。この改正は、児童心身の健全な発達を阻害する入試準備教育の弊害を取りのぞくことと、戦時下にあって心身の健全な人材の育成を意図したものだが、入学志望者が急増するとともに、小学校の成績が影響するため不利となる市部児童の入学難がこれまでにくらべ倍加するとみられた。事実、十五年度市内児童の中等学校志望者は、尋常科・高等科計六五五人で、前年比二五パーセント増、長野中学・同商業・同高女三校に限ると七八五人、四〇パーセントの急増で、市内児童の合格率は五〇パーセントをくだるのではないかと憂慮された(『信毎』)。
このような情勢を受けて、市は市立中学校および市立高等女学校の設立を計画、設立費は市有財産処分一〇万円、寄付金三五万円をもって充当するとし、教育審議会の決定をみた。しかし、区長会から寄付金にたいする反対があり、高等女学校設立を廃案、寄付金を約一〇万円減じ、創立から三ヵ年は川端小学校校舎を借用するとして、中学校の設立をはかり、十五年三月七日市会で設立が決議された。同年三月十五日には、文部省から設立費捻出に万全の注意を払うよう付帯条件をつけて認可された。
開校式は、十五年四月十六日、川端小学校校舎に市当局者、市議、来賓、入学児童、父母ら四〇〇人が参集して挙行され、二十二日から「肇国精神ノ体現ニ努メヨ」「質実剛健進取博大ナル気風ヲ養へ」「実践力ヲ修練セヨ」という「修学三原則」にもとづき授業がおこなわれた。開設当初の構想では、学級編成は一学年二学級、一学級五〇人、生徒定員五〇〇人だったが、十七年度からは一学年三学級、生徒定員七五〇人に増加した。十八年一月には、全額寄付によって、栗田地籍に新築された校舎へ移転したが、戦時下であり物資や人力の急迫から校舎建築は思うようにすすまず、四学年一〇学級、五百数十人の生徒にたいして、わずか一〇教室一棟と柔道場という状態で、理科実験も思うようにならなかった。十八年度中には雨天体操場が完成したが、設備・施設の充実は容易ではなかった。
市立中学校は、二十年三月第一期卒業生をだすが、同年十月の校舎焼失にともない、居町の長野紡績跡地を仮用、二十三年四月、長野市立高等女学校と形式統合して長野市立高等学校となる。翌年四月分離して県立長野北高等学校に合併された。
十七年四月、長野市立夜間中学校が、市立中学校に併設された。この夜間中学は、昼間学業に従事できないものにたいして、もっぱら夜間に中学校の趣旨にもとづき、国民学校教育の基礎より高等の教育を目的とする各種学校である。設立にあたって、志願者九六人中、合格者五五人(長野市四四、他郡市八、他府県三)をもって一学年一学級が編成された。教員は、校長が市立中学校兼任のほか教諭一人、教諭嘱託八人だった。授業内容は市立中学校に準じているが、実業・作業科がなく、週授業時数は二四時間だった。この夜間中学は、翌十八年中学校令改正によって、三月三十一日廃止となり、四月から国民学校高等科修了または同等以上の学力を有するものを入学資格とする長野市立夜間中学校として再生した。さきの夜間中学生はいずれも高等科卒業生であったため、特別措置(定員外募集)として一学年に入学を認められ、二十一年三月、市立中学第二部第一回卒業生となった。