専門学校令(明治三十六年公布)によれば、北海道、府県または市は土地の状況により、必要ある場合に限り専門学校を設置することができ、入学資格は、中学校もしくは修業年限四ヵ年以上の高等女学校を卒業したもの、またはこれと同等以上の学力を有するものと規定されていた。
文部省は、昭和十四年(一九三九)度事業として、全国に高等工業学校(以下高工と略称)を一一校新設し、既設の高工七校を拡充する計画をたてた。長野県内でもこの計画にのるべく、まず長野市が名乗りをあげ、長野商工会議所も市に協力して運動を開始して、同年三月陳情書を文部省に提出した。つづいて松本、岡谷の各市も名乗りをあげ三つどもえの激しい対立となった。上田市は招致について長野市に応援の用意がある旨を発表した。
信濃教育会も、同年三月代議員会で高工招致問題の動議が全会一致で決議され、政府にたいし高工設置を要望することを決定した。県内不統一の対立気配が動きつつあるさい、同会が大局的立場から第一線に乗りだすことになった。そして会長以下役員や評議員らが上京して、文部省、大蔵省、企画院、貴・衆両院議長等の関係方面を歴訪して陳情した。
長野市は、神津商工会議所会頭、笠原市会議長らの陳情委員が先達として上京し、主として地元出身の信山会員、県選出代議士等に猛運動をつづけ、高野市長もあとをおって上京、運動に加わるなどした。
県は、挙県一致の県論統一のために、同年三月十九日、在京諸先輩臨席のもとに東京で県内五市代表者の会合をもった。その結果「位置の如何は公正なる文部当局の指定にまつこと」とし、全県一致で設置の実現に全力を傾注することになった。同月二十四日衆議院の追加予算会議では、昭和十四年度の高工増設を七校と定め、「主として重工業地帯またはこれを背景とした地方」という条件をつけて新設の候補地がもとめられることになった。文部省では、この衆議院決定にもとづいて候補地を検討の結果、全国七十余ヵ所の要望があったなかから候補地を選定し、三月三十一日、室蘭、盛岡、多賀、大阪、新居浜、宇部、久留米の七校を決定したが、長野県の招致は実現されなかった。
長野県での高工招致運動は、その後も継続しておこなわれ、十五年十二月の県会において、高工設置に関する意見書が可決された。そして設置に関してはいったん南信に誘致としたが、修正可決されて単に「速やかに之が実現を切望す」の意見書として国に提出された。
十六年五月長野電気株式会社(社長小坂順造)は、前年の配電統制令の施行により、組織を解散することになり、県に「高工を招致した場合、必要経費の一部として一〇〇万円の寄付」を申しでた。県はこれを基金として招致運動を推進することにした。また、長野市は十七年五月設立委員会を設置した。県と市は具体的に計画をすすめ、長野工業試験場および長野機械工養成所の施設、設備(建坪九五五坪、時価三五万円)を国に寄付するほか、別に拡充した敷地に校舎(建坪四三六坪)、寄宿舎、官舎などを建築して寄付することを決めた(『大学の歴史信州大学工学部』)。
十七年六月県は、高工設置要望書と設備計画書を文部省に提出して陳情をした。これにより、同年十二月十日閣議において長野市に高工設置が決定された。ついで十八年三月三十日文部省直轄諸学校官制を改正して長野高等工業学校が設置され、四月一日より施行する旨公布された。職員は、校長一人、教授一〇人、生徒主事一人、助教授六人、助手一人、書記三人、生徒主事補一人と定められた。初代校長には文部省教学官の下村市郎が任じられた。四月五日「長野高等工業学校規程」が公布され、修業年限は三年、その上に研究生二年、また別に各学科中の一学科もしくは選択教科を履修する選択生(三年以内の在学)等が示されていた。なお、学科と各学科入学定員等はつぎのようであった。
これにたいし入学志願者は、二六三三人にのぼり平均一〇倍をこえる競争率となった。入学式は十七年五月十日に仮校舎長野工業学校講堂でおこなわれ、新入生代表の精密機械科田村豊彦は「学生たるの本分を尽くし、国家目的の大任に即すことを誓ふ」と宣誓を朗読した。生徒の制服上衣は、国民服乙号型、色合いは夏冬とも茶褐色、制帽は戦闘帽に統一されていた(『信毎』)。入学後の授業は同校を仮教室として開始され、寄宿舎も同校寮の一部と長野商業学校同窓会記念会館を仮用した。
昭和十九年文部省は学業実務局を廃して、高等専門学校のすべてを専門教育局の管轄とし、三月文部省直轄諸学校官制を改正した。これにより四月一日から長野高等工業学校は「長野工業専門学校」と改組され、本科第一部の機械化、航空機科、電気科、電気通信科の四科が置かれた。そしてまた、同日長野県長野工業試験場が国に移管され、校舎はここに移転し、長野工業試験場建物を使用した。この地が「長野市若里五〇〇」で、ここに昭和二十年三月第一校舎(教室棟)と寄宿舎が新築落成し、つづいて十月第二校舎(教室棟)が竣工、同二十二年五月以降に本館ほかの設備が整備されていくことになる。