戦時下の青年学校

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勤労青年の教育機関として設けられた旧来の実業補習学校と青年訓練所は、施設の二重構造の解消が経済恐慌下で切実な問題となり、政府は制度の一体化をはかって、満州事変後の昭和十年(一九三五)四月一日青年学校令(勅令第二五四号)を公布した。県は六月一日青年学校細則を定め、その運用上の留意事項とともに管下に布達し、設置者は知事の認可を受けたのである。九月一日付の『信毎』は、「けふ(今日)青年学校一斉に誕生」の見出しで、県下の実業補習学校と青年訓練所合わせて七四〇校を改編して新しく青年学校四一七校が九月一日に開校したことを報じて、各郡市の校数を示し、長野市に六校、周辺の上水内郡三三校、更級郡一六校、埴科郡一七校、上高井郡一六校が発足したと報道している。なお、各校の開校日は多少まちまちであった。

 青年学校発足直後の昭和十一年の県統計によれば、現市域の各校の職員・生徒数は表36のとおりであった。学校数は長野市内に六校、現市域に二七校(上水内郡一二、更級郡六、埴科郡六、上高井郡三)であった。市内六校の生徒総数は九九二人(男七六六、女二二六)で、女子が少なく約二三パーセントにすぎない。全校生徒数の多い順に、後町二七二・柳町二〇四・三輪一七八・芹田一二二・古牧一一〇・吉田一〇六人であって、このうち男子だけが後町、もっとも女子が多いのは三輪一〇九(男六九)であって、三輪は女子補習学校の前例をうけついでいる。


表36 公立青年学校の職員・生徒(第2年次 昭和11年)

 生徒を職業別にみると、市内は商業がもっとも多く四〇四人「五七・四パーセント)であり、大部分が男子生徒で、農業は二四八人(三五パーセント)で男女はほぼ半々である。工業は五一人(七・三パーセント)にすぎずうち女子はきわめて少なかった。青年学校発足後三年たって、十四年四月二十六日青年学校令が改正されて、男子の就学が義務制となった。男子だけであったのは、男子に二〇歳丁年の兵役の義務があり、女子は結婚適齢期にかかっているからであろう。義務制は実業補習学校当時から長野県が提唱して、準義務教育化を県の行政方針としてきた。待望の法制化が実現して、長野市校長会は義務制実施に先だって三月十三日事前の協議をおこなった。これに注目した『信毎』は、義務制にたいする「長野市の対策」として、「青年学校学齢簿を作る」という見出しで、「全市各戸につき満一二歳までの青年調査」をおこなって、「青年学校学齢簿を作成」して義務制に備えていると報道している。義務制が実施されてから県下に青年学校が四九校増設され、十五年には五七六校となっている。なお、太平洋戦争の決戦期にはいってから、本土空襲にそなえて工場疎開や軍需工場が増設されて、私立校が十九年に八二校(昭和十四年比五〇校増)となっている。


写真72 昭和20年4月、中部青年学校生の徴兵検査のとき、大部分が国民服、戦闘帽姿
(『田野口区史』より)

 青年学校の職員については、公立の校長は小学校長兼任、学校組合立のなかには専任校長を置くところがあり、私立では設置者が校長となっている。教授・訓練を担当するものは、教員(専任・嘱託)と指導員で、専任者は原則として三学級まで二人以上、そのうち一人は男子教員で通年常勤とされていた。教科の指導員は、小学校教員兼任者が多く、なかには嘱託もあり、教練は在郷軍人が嘱託されて非常勤であった。長野市と現市域町村の公立青年学校の職員数は、校長を除いて表37のとおりである。


表37 公立青年学校職員数

 これをみると、公立学校の専任教員数は、単独校では一~二人が多く、昭和十七年度の松代青年学校の四人(男三・女一)が最大で、特例として発足時の芋井青年学校の五人(男)がある。指導員は学校によって一~八人の差異はあるが、生徒数の多少や在郷軍人の嘱託のつごうなど、村内事情によるのであろう。

 専任教員の充実は、実業補習学校期からの補習教育の重要な課題であった。そこで青年学校令と同時に、昭和十年四月一日青年学校教員養成所令が公布されて、長野県は旧来の実業補習学校教員養成所を廃止して、これを青年学校教員養成所(長野市吉田町・上水内農学校に併設)と改めた。十四年の青年学校義務制の実施による教員需要に備えて、十三年には一年制の臨時養成科を併設した。十九年には女子教育を担当する女子青年学校教員養成所も併置されて、修業年限二年、定員八〇人となった。十八年には官立に移管されて、長野青年師範学校(校長上條憲太郎)と改め、三年制の男子部と女子部をおいた。

 ここで改めて注目されるのは、太平洋戦争下に組合立と私立の青年学校が増加したことである。町村による学校組合立は、昭和十年青年学校発足当初から始まった更級郡北部青年学校(稲里・川中島・小島田・青木島・真島・西寺尾)と中部青年学校(篠ノ井・東福寺・共和・中津・御厨・信里)があった。太平洋戦争下の昭和十八年北埴青年学校(松代・清野・西条・東条・豊栄・寺尾)が設けられ、十九年には朝陽村外三ヵ村組合立朝陽青年学校(朝陽・大豆島・柳原・古里)と長沼村をふくむ神郷村外二ヵ村組合立神郷青年学校(長沼・神郷・鳥居)が発足し、二十年には綿内村外二ヵ村組合立綿内青年学校(綿内・保科・川田)が加えられた。また、長野市は十八年に一校制に改めて、市立長野青年学校となっている。これらの組合立・市立の大規模校を除いて各町村立青年学校の専任教員は、本則の二人以上置いた校数は、十四年三〇パーセント(九校)・十七年四二パーセント(一四校)・二十年六七パーセント(六校)で、一人の学校が半数近くを占めていた。青年学校教職員の応召は十三年からで、十五年には生徒も入営して戦線へ送り出されるようになった。

 学校組合立青年学校は、表38のように現市域に六校設けられ、最初昭和十年に二校、他の四校は私立青年学校と同様、太平洋戦争下に発足した。組合立校の維持・管理体制を最初の更級郡稲里村外五ヵ村組合立北部青年学校(稲里村下氷鉋小学校併設)の例でみると、管理事務は稲里村が担当して組合長には稲里村長が就任し、議会を設けて商議員は五ヵ村の村長・小学校長(昭和十六年国民学校長)と下氷鉋小学校の学務委員で構成されていた。経費財源は各村分賦金と補助金(国庫・県費)で、各村の分担比率は平均割りの他生徒数割と戸数・通学距離などが勘案され、生徒数の変動によって十九年に比率の改正がおこなわれている。百分比は稲里村三一・一、川中島村一八・〇、小島田村一五・八、青木島村一三・八、真島村一二・一、西寺尾村九・二であった。同年の生徒数は三九一人、内訳は普通科二二人、本科一年三〇人、二年一六五人、三年一七六人、研究科二二人あり、職員は校長一(下氷鉋小学校長兼任)、教諭九(他に応召四)、助教諭八、指導員専任六(他に応召一)、非常勤一、兼任三六(内四分室主任)である。なお、同校は県青年学校教員養成所の実習校であった。


表38 組合立青年学校の職員数(現市域)


写真73 北部青年学校の併設された下氷鉋小学校
(下氷鉋小『120周年記念誌』より)

 私立青年学校は、表39のとおり昭和十六年に二校設置され、一つは県庁内の学齢職員を対象とした高嶺青年学校で、学務課長を校長とし、視学らが指導にあたり、他の一校は吉田東町の前田鉄工所青年学校で、社長が校長であった。つづいて太平洋戦争下の四年間に九校新設されたが、在来の工場と疎開した工場の軍需生産に従事する工員を対象とするものが多かった。いずれも二十年の終戦によって閉鎖され、制度廃止の二十二年まで存続したのは、公務員を対象とした県庁内の高嶺青年学校と、繭検定所篠ノ井支所(昭和十年四月開所)の篠ノ井女子青年学校であった。


表39 私立青年学校の職員数(現市域)

 青年学校の目的は、心身鍛練と徳性の涵養、実生活の知識技能を習得して国民資質を向上することであった。その課程を普通科(尋常小学校卒業者)・本科(高等小学校卒業者)・研究科(本科修了者)に分けている。そして特別に職業上必要な知識技能(例…珠算簿記・速記・タイプライター・英語・製図・家具・塗工・園芸・養蚕・手芸・洗染・割烹など)を教授する専修科をおき、普通科・本科・研究科に在籍する生徒もこれを兼修することができるしくみであった。組織・編制と教科課程は、土地の状況や入所者の職業等、実情に適合した各校の選択とし、学則制定の基準となる本則を県が示している。通年制か季節制か、朝学・昼学・夜学かは各校の適宜、学年は普通科二年・本科男子五年・女子三年・研究科一年であった。科目は修身および公民科・普通学科(国語・歴史・地理・数学・理科・音楽等を総合して一科目)・職業科(男)・家庭および裁縫科(女)・体操科(本科男欠)・教練科(本科男)である。授業時数は、通算男子一八四〇時(七年間)・女子二〇〇〇時(五年間)で、在学期間の少ない女子の授業時間が多くなっている。授業時間がもっとも多い教科は男子が職業と教練、女子は家事裁縫科である。青年学校は、職業教育と公民教育を主体とした補習機関で、これに男子の教練が重点的な課業となっている。

 長野市内と現市域町村の青年学校の教授訓練の課程年数と、各校が選択した職業科目は表40のとおりであった。市内各校は、普通科が二年、本科は男子四年・女子三年、研究科が男子二年・女子一年で、本則より男子の本科を一年短縮した分を研究科に増置している。また別に、専修科を設けて、学期を六ヵ月年二回の入学としている。このうち二六校は本則どおり共通に、普通科二年、本科男子五年・女子三年となっている。各校の差異は研究科にみられ、二年としたものに大豆島(男・女)・朝陽(男)・長沼(女)・稲里(男)・松代(男・女)・西条(男・女)の六校があり、三年とした川柳(女)があり、安茂里は女子の研究科を置かなかった。学校が選択した職業科目は、市内の後町・柳町・吉田校が商業科、近郊農村の三輪校は男子が商業科・女子が農業科、芹田校が男女とも農業科で、現市域のうち松代校が農業科と商業科、他の二五校はみな農村地帯で農業科を選択している。


表40 青年学校実施課程 (昭和11年)

 青年学校の教育は、満州事変(昭和六年)の四年後に始まり、初めは窮乏する農村更生の中堅青年の育成を使命としたが、日中戦争中は満州開拓、太平洋戦争下には銃後の生産と戦力増強など、国策に応じた教育に転じた。青年学校はまた、青年訓練所を引きつぎ、「青年学校手帳」が生徒に渡されて毎年度陸軍による査閲がおこなわれ、軍事演習が地域連合で実施された。これを新聞が大きく報道し、昭和十年十一月には上水内西部一〇ヵ村八校の模擬演習がおこなわれ、「びしょぬれ物かわ戦ふ千余健男児」の見出しで攻防戦の状況を伝え、十二年四月には「上水内青校と長中連合春期大演習」の見出しで、二千数百人の生徒の二日間にわたる五次戦と最後の分列式の状況を記事とし、十三年十月には「北信青年学校演習」がおこなわれた状況を伝えている。日中戦争(昭和十二年)に入るとしだいに実戦的訓練となり、訓練兵器は菊紋入りの三八式歩兵銃を加えて、十三年には軽機関銃や榴弾頭・ガスマスクなどが配備され、太平洋戦争(昭和十六年)下の演習には、遭遇戦に加えて捜索警戒や露営払暁戦・防空演習がおこなわれ、軍事的基礎能力の養成に力が注がれた。女子もまた防空頭巾と国民服で、地域の防火・看護・避難訓練に参加している。


写真74 通明小学校校庭での銃剣術の訓練
(『写真にみる長野のあゆみ』より)

 決戦期の更級郡北部青年学校(下氷鉋)の記録によれば、教練のほかグライダーの滑空訓練があり、女子も海洋訓練を野尻湖や日本海岸の谷浜でおこなっている。出征兵士の家庭の援農など軍人援護の勤労奉仕はもちろん、逼迫する食糧・家畜の飼料の増産や貯蓄報国・小額債券の消化にも生徒が協力している。増産のため校庭も農園化されるなかで、安茂里青年学校はいち早く、昭和十二年から犀川河川敷の開墾をおこない、大豆島青年学校は十六年御親閲記念報国農場を設けている。なお、十九年五月学徒勤労動員令が発動すると、昼学通年制の青年学校は中等学校に準じて動員の対象となり、女子生徒も軍需工場へ動員されている。

 明治中期に発足した実業補習学校は、小学校義務教育の補完のため、勤労青年に公民教育と職業教育を施す機関として設置され、大正末年に青年訓練所が加設されて軍事教練がおこなわれ、昭和十年に統合した青年学校となった。そして青年教育の重要性から、長野県では大正期半ばに実業補習学校の準義務教育化をすすめ、青年学校の義務制は十四年四月二十六日の青年学校令の改正で法制化された。そして事実上、満六歳から男子は満二〇歳まで、就学義務が定められたのである。敗戦後の学制改革で、二十二年をもって青年学校は廃止され、生徒は二十三年四月新発足した高等学校定時制分校へ志望によって編入され、長野市青年学校は吉田高校分校へ、郡部の青年学校はそれぞれ近隣の高校分校に再編されることとなった。こうして青年期本来の教育が、国家目的から解放されて新しい高校教育が発足したのである。