長野県が「民族的大使命」と「農村の経済更生」をねらいにして満州開拓青少年移民の募集を開始したのは昭和十二年七月であった。それは、十三年一月国策としての「満蒙開拓青少年義勇軍」の制度が確立され、義勇軍送出の事業が始まる半年前のことである。
この結果、長野県からは満一六歳から一九歳までの青少年一二九人が応募、御牧原修練農場(小諸市・北佐久郡北御牧村)で一〇日間の訓練を終え、十二年八月十七日茨城県内原農場に入所して渡満の準備にはいり、同月二十四日にははやくも内原駅を出発した。二十六日には「さいべりや丸」に乗船、敦賀港をあとにして日本海を渡り清津港に上陸、目的地の伊拉哈(イラハ)に向かった。この長野県約一〇〇人の青少年の一群は、通称「伊拉哈少年隊」とよばれた。これが満蒙開拓青少年義勇軍の先駆をなすものであった。この一団のなかに埴科郡豊栄村(松代町)の三人をはじめ、現長野市域の出身者六人が参加していた。かれらは長春(チャンチュン)を経てハルピンにいたり、九月十四日、満拓が用意した伊拉哈駅近くの基地に長途の旅の旅装を解いた。十月のはじめには後続隊も到着し、みずからの基地宿舎や一万人収容の嫩江(ノンジャン)大訓練所の建設に従事した。
その後、この伊拉哈少年隊は訓練施設の建設作業・農耕技術の習得・家畜の改良・軍事教練などさまざまな訓練をへてやがて、昭和十六年十月一日、第一次青年義勇隊伊拉哈開拓団に移行するのである。そして十七年には家族を招致するが団員中に軍隊への入隊が続出し、終戦時には男子十余人となった。残された団員家族の一二八人が死亡、団員の戦没者は一一八人にのぼった(「追憶」第一次伊拉哈開拓団星昌夫)。
満蒙開拓青少年義勇軍の送出活動は、その先駆的役割をはたした伊拉哈少年隊送出のあと昭和十三年から本格的にすすめられた。長野県下の義勇軍の募集は、拓務省による県配当一五〇〇人を基礎にして県当局による各市町村への配当、募集要項の配布、義勇軍編成協議会の開催、行政下部機関や各種団体などへの指示や督励など一連の手順を踏んですすめられた。
昭和十三年一月二十五日に現長野市域にかかわる長野市・上水内郡・更級郡・埴科郡・上高井郡の五郡市の編成協議会が長野市の県立図書館で開催された。参集者は各市町村の首長を始め関係各種団体長等であった。郡市割当数と送出数(カッコ内の数)はつぎのようであった。
長野市一〇人(五)、上水内郡一九九人(一二九)、更級郡一五三人(七九)、埴科郡九〇人(七六)、上高井郡九一人(五三)であった。また、市町村別の割当数も明示され、各市町村はその消化に努力、県全体として五一一人の合格者を出し、それは全国的に最上位であった。
各市町村では学校等を会場にして壮行会を開き、県は三月二十三日長野市で祈願祭と壮行会を挙行した。これは三月二十四日の茨城県内原訓練所入所を前にした一大示威運動であった。当日、午後一時に全員県庁南広場に集合しただちに隊編成に着手、現長野市域出身者は三個中隊のなかの第三中隊に属した。午後二時県庁正門を出発した先遣隊は、中央通りを市中行進して城山県社にいたり、祈願祭をおこない、午後四時より蔵春閣で県主催の壮行会に臨んだ。会次第は皇居遥拝、伊勢神宮遥拝、国歌斉唱、来賓祝辞、義勇軍代表答辞、愛国行進曲合唱、万歳三唱であった。隊員は県で用意した夕食ののち、午後七時城山を出発して中央通りを市中行進して長野駅に着き、午後八時二五分発の特別列車で内原へ向かった。なお、この壮行会には県内の関係学校長・県会議員・各種団体長など多数が参会し、沿道には多数の長野市民が見送りに出た。以後の義勇軍の壮行会や郷土訪問はおおむね長野市城山の蔵春閣が会場で、市中行進ののち特別列車で目的地の内原訓練所等に向かうのが例になった。
昭和十四年度の第二次義勇軍の送出は二月から八月にかけて四回にわたって選考がおこなわれ、その総数は七一一人にのぼり、上水内・更級・埴科・上高井の各郡と長野市の小計は一六八人であった。この年から渡満前に郷土長野市を訪問するのが例となった。
長野県は「紀元二六〇〇年」にあたる昭和十五年を期して義勇軍の送出について、三月七日県学務部長名で県民の奮起をうながし、各市町村あてに「此ノ秋起ッテ之ガ先駆的役割ヲ果スベキモノハ我ガ信州人ナルヲ確信致シ居候、本県ニ於テ率先之ヲ為スニ於テハ、全国民必ズ我ラニ従ヒ来ルベキハ信ジテ疑ハザルトコロニ有之候」と檄文を発した。
そしてこの年から、信濃教育会ならびに各郡市教育会との連携を強めてその募集に全力を注いだ。そのなかで新機軸の郷土中隊の編成にはとくに力点が置かれた。それは「郷土ヲ同ジクスル小隊及中隊ヲ編成シ、幹部ハ県内ヨリ選定配置」しようとするものであった。教育会が中心となって郡市ごとの義勇軍志望者のための拓務訓練も実施された。十五年三月二十五日、県内三つの郷土中隊が編成され、更級小隊と埴科小隊が第二中隊に、高井小隊と上水内長野小隊が第三隊に属した。
昭和十六年度から十七年度にかけては長野県の義勇軍送出運動がもっとももりあがった時期である。十六年度に義勇軍送出上、改革された点は、①送出を年一回とすること、②三〇〇人を集団とするブロックごとの三つの中隊編成をすること、③拓務訓練は教育会が中心になって実施し、訓練中に選考ができること、④郷土部隊には中隊長・教学指導員・農事指導員等を配置し、郡教育会が適任者を推せんすること、であった。
現長野市域をふくむ北信一円は第三中隊に属し、隊長は上水内郡柏原村(信濃町)出身の教員、北村武であった。北村中隊は内原での訓練を終え、六月十八日松本を訪問し伊勢神宮参拝の上、同月二十一日敦賀港を発し渡満の途についた。隊員中には現長野市域出身者が九二人おり、もっとも多かった。なかでも埴科郡寺尾小学校は一校で一三人の隊員を送出していた。
長野県は昭和十六年四月に満州開拓第二期五ヵ年計画を発表し、義勇軍六〇〇〇人送出の方針を確定し六月に拓務課を設置した。信濃教育会は、太平洋戦争開戦直前の昭和十六年十一月七日、臨時総集会興亜教育大会を開催して「青少年義勇軍送出の具体案、興亜教育の発展策」を討議して義勇軍送出を一大使命とした。
義勇軍送出について「郷土中隊の編成と年一回の送出制」が継続された。この時期は総力戦の様相を帯びて、青少年の軍需方面や陸海軍少年兵への採用等により送出目標に近づけることは困難になり、行政的には道府県と市町村に送出数を割りあて競わせるという方法をとり、目標達成につとめた。その結果は表41のようであった。なお、義勇軍送出が始まった昭和十二年度から終了した二十年度までの現長野市域にかかわる五郡市の年次別送出数は表42のようであった。
なお、現長野市域各市町村の参加人員は表43に示すようであり、総数は三〇隊六〇四人におよび、それは全県下の義勇軍参加総人員の約一割弱に達した。そのうち死亡・戦病死・行方不明者等の合計は一三三人で、生還者は四七一人であった。
青少年義勇軍の編成から解散にいたる顛末を物語る事例としては本市域において最多の参加者をもつ「第四次北尖山(きたせんざん)北信義勇隊北村中隊」の場合がある。北村中隊は昭和十六年六月、満州東部の国境近くの東安省勃利(ぼつり)大訓練所に入所、慢性的な飢餓状態のなかで約三年間の農耕・建築・軍事等の訓練を積んで昭和十九年一月東安省宝清県北尖山に入植した。入植は鉄道の駅から一二〇キロメートルも離れた零下三八度を記録する荒野で丸太を伐採、みずからの住居である三角小屋(天地根元造り)の建設から始められた。団の建設計画は第一に食糧の自給、ついで飼糧の確保、第三に住居の建設であった。しかし、事業のなかばで兵役適齢期の団員はほとんど入営し、二十年八月のソ連参戦当時、団に残ったのは七九人であった。幹部も団長が残ったほか全員応召、たまたま上高井郡の報国農場の女子勤労奉仕隊員一〇人がきており、在団総員は幹部の家族八人を加えてわずか九七人であった。八月九日からのソ連参戦による逃避行は八月二十六日までつづき、幾多の辛酸をなめてその後シベリア抑留生活をへて、生存者は二十三年秋までに帰国した。終戦当時の在籍団員は二五〇人で帰国・復員者二一五人、死亡三〇人、行方不明者五人であった。隊長北村武は内原での訓練中に、やがて渡満する隊員のために地元教育会にたいし教師一人一冊の図書の寄贈を要請した。現在その寄贈図書目録が更級教育館に所蔵されている。なお北村武とその娘は逃避行中に行方不明になったが、娘は中国人に保護養育され、戦後に父の出身地に永住帰国した。