学童疎開の受け入れ

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昭和十九年(一九四四)七月、緊迫した戦況下の国の方針にしたがい、長野県は都市防衛力の強化と次代国民の健全な発育をはかるため、学童集団疎開に関する通牒を発した。その内容は、首都その他から国民学校初等科児童総数三万六九〇〇人の受けいれとその地域別割当計画であった。そのうち現長野市域の地域別割り当て数は、長野市四三〇〇人、埴科郡松代町二〇〇人、東条村一〇〇人、上高井郡保科村二〇〇人、綿内村二〇〇人であった。つづいて同年八月に「帝都学童集団疎開受入れにつき通牒」を出して、受け入れ後においての留意点を示して、関係者に協力を要請した。

 この時期には集団疎開以外の縁故疎開で、長野市に転入する児童も増えはじめていた。十九年三月の転入が多い学校では二十数人で、市内一二校の合計は一六〇人に達していた。その後も縁故疎開児童は増えつづけて、十九年五月末の時点で四〇一人であった。このため市内の学校は急激な児童数の増加に困惑したが、受け入れを拒否することはできなかった(「疎開に伴う生徒児童の取扱ひ措置に関する新聞発表」文部省)。

 いっぽう、長野市に集団疎開したのは、足立区の児童三〇〇〇人余であった。集団疎開の対象児童は、国民学校初等科三年から六年までの児童のうち、縁故先疎開ができないもので、保護者から申請があったものに限られていた。


写真79 善光寺に参詣する学童疎開児童たち 院坊などに分散して市内の国民学校で学習した
(『写真にみる長野のあゆみ』より)


写真80 昭和20年4月29日東京池袋第2国民学校の集団疎開の受け入れ式がおこなわれ、長谷寺等に分宿して塩崎国民学校へ通学した
(『目で見る塩崎120年』より)

 十九年七月二十日、長野市などの受け入れがわと疎開者がわとの連絡会が開かれ、細部の打ちあわせがおこなわれた。なお、宿舎にあてられる善光寺の院坊の代表者も出席して、賄いの方法などが協議された。実際に疎開児童が長野市にきたのは、八月十二日から十八日にかけての期間であった。

 東京都から長野市への集団疎開はすべて夜行列車がつかわれ、長野駅到着時刻は午前六時五〇分であった。そのつど「出迎え当番校」がきめられており、当番校は初等科五、六年の児童二〇〇人程度を駅前広場に動員して、歓迎式をおこなった。その次第は、①敬礼②市長歓迎のあいさつ ③市内国民学校学童代表歓迎のあいさつ ④疎開学童集団代表あいさつ ⑤国民歌「海ゆかば」合唱 ⑥一同敬礼であった。

 式終了後、疎開学童は宿舎に向かって出発し、朝食をとることになっていた。疎開学童の宿舎は、市内三二軒の旅館と三〇の院坊があてられ、その受け入れ予定は表44のように計画されていた。


表44 長野市内集団疎開学童受け入れ計画(昭和19年)

 市内の受け入れ校は、加茂・三輪・山王・後町・川端・柳町・鍋屋田・城山の各国民学校であった。芹田・吉田・古牧の各国民学校は、受け入れ校にはふくまれていなかった。長野市教育課は出迎え、荷物整理作業の応援、学童の健康保持のための学校看護婦・養護訓導の派遣等の手配をすすめた。

 東京都足立区立梅島国民学校三年生以上の児童五六一人(予定は五八〇人)が添田伝訓導を主任とする一四人の職員に引率されて、城山国民学校へ集団疎開したのは十九年八月十八日のことであった。疎開児童の宿舎には善光寺の宿坊があてられ、本部は最勝院に置かれた。当初の宿舎配置は表45のようであった。


表45 梅島国民学校集団疎開寮舎表(昭和19年)

 九月一日から城山小学校は、五六一人の疎開児童を受けいれて、二部授業を開始した。城山・梅島の両国民学校は、それぞれ午前、午後に分かれて、限られた施設のなかで不自由をしのんでの二部授業であった。梅島国民学校は「梅島国民学校城山分教場」と称して、表46のような日課を組んで疎開生活をはじめた。


表46 疎開生活 日課 (昭和19年)

 後町国民学校では、足立区柳原国民学校初等科三年以上二五九人を受けいれた。その宿舎は宝屋を本部として、記念館・臼井館・大当館・亀の湯・大竹屋であった。

 なお、当時上水内郡であった芋井国民学校が東京都梅島第一国民学校(昭和二十年四月十四日の空襲で校舎が焼夷弾攻撃を受けて全焼)の集団疎開児童を受けいれたのは、四月二十九日のことであった。それは同校が十九年八月に善光寺温泉を宿舎にして受けいれた第一期五四人の疎開児童が帰郷したあとであったからである。そのほか宿舎にあてられたのは法学寺・松参寺・観音寺で、通学先は本校・第一分教場・第二分教場であった(表47)。


表47 芋井村学童疎開宿舎別人数 (昭和20年4月)

 昭和二十年の三月にはいって学童集団疎開再疎開の問題がおこった。戦局は重大局面を迎えて、三月九日の夜半から東京は波状的な爆撃による大空襲にみまわれた。つづいて三月十四日の夜半から十四日未明にかけても大空襲があり、長野もつぎの空襲目標になりかねない情勢となった。そこで学童の再疎開の命令がだされて、長野市に集団疎開した学童たちも、四月中旬ごろから比較的安全と目される地域へ、分散して再疎開させられた。


写真81 学童疎開についての東京都の感謝状 (中村助夫所蔵)

 たとえば、柳町国民学校に集団疎開していた千寿第四国民学校の児童のうち七三人は四月十五日に更級郡川中島国民学校へ再疎開した。宿舎には円光寺・円城寺があてられた。城山国民学校に集団疎開した梅島国民学校児童の再疎開は、他校疎開児童の再疎開より三ヵ月ちかくおくれて七月十八日となった。その理由は「梅島国民学校の疎開経営がすばらしい、他の模範に残したい」という東京都の要請だともいわれた。梅島国民学校の再疎開先は、東筑摩郡坂井村安養寺・日向村福満寺・同村西光寺・東川手村安国寺・同村公会堂・島立村正行寺・筑摩地村勝弦公会堂・同村大出公会堂の八ヵ所であった。下高井郡平穏村渋温泉に集団疎開していた東京都豊島区高田第三国民学校疎開児童の再疎開地にも指定された。高田第三国民学校児童二六三人は二十年四月、現長野市域の朝陽村・長沼村・安茂里村・七二会村の四ヵ村へ分散疎開をした。その疎開先は表48のようであった。


表48 疎開先学年別人数一覧(昭和20年)

 再疎開先では各村の国民学校へ通学することが原則であったが、朝陽国民学校では五年生までは地元国民学校の各学年に編入し、六年生だけは独立して授業を受けた。長沼国民学校では、四年生までは地元国民学校の各学年に編入し、五、六年生は独立した。安茂里国民学校では、疎開児童全員が地元国民学校の各学年に編入して授業を受けた。七二会村では、最初は宿泊先の大安寺本堂等をつかって座学(畳の上での授業)であったが、後には七二会国民学校の本校と笹平分教場へ通学した。

 再疎開先の食糧問題は深刻であった。『宿舎における生活状況調』によると「副食物不足、特に蛋白質欠乏・野菜稍不足」「ビタミンC欠乏症多シ」等の記事が目だつようになった。しかし、いっぽうでは規則正しい生活や楽しい思い出も残されている。当時、安茂里村へ再疎開した高田第三国民学校初等科四年生だった一児童は疎開生活を回想して、つぎのような手記を寄せている。

 「私たちの正覚院での生活は、上級生の男子と女子の班長のもとで、朝は沢に出て顔を洗い、お寺の庭を草箒や竹箒で掃きそして朝食、班長を先頭に列を作って登校、学校の帰りはクラス別にまとまって沢でお弁当箱を洗い、正覚院に帰り、夜は班長の指揮で布団を本堂いっぱいに敷くなど、規則正しい日課になっていました。また自由時間が決められていましたが、そんな時は正覚院の長い石段や裏山に登って遊びました。正覚院に再疎開して二十日ほどあとだと思いますが、安茂里村の村祭があり、私たちは最初の夜お世話になった家庭に呼ばれ、赤飯や草餅をお腹一杯頂いたり、その後も、先生の許しを得て何度か遊びにいったり、また道端で声を掛けられ挨拶したことを覚えております。」(『安茂里小学校百周年記念誌』)

 やがて長野へ疎開した学童も、八月十五日の敗戦を迎えることになるが、早速に帰京というわけにゆかず、大半の疎開児童が信州を離れたのは十月以降であった。