昭和十八年六月、政府は「学徒戦時動員体制確立要綱」の決定をし、七月にはその実施方を一般に知らせた。学徒動員のはじめは食糧増産のための田植・麦刈・稲刈・水田開発などが中心であった。長野県では十八年九月九日「秋季農繁期勤労奉仕作業実施」に関する通牒を発して、秋季農繁期においての「農業労力ノ補給調整」を主目的とする学徒の勤労奉仕の要綱を示した。中等学校生徒の出勤日数五日間として、作業内容は稲刈・脱穀・調整・麦蒔などとした。なお国民学校の上級生にたいしても、団体行動で自村内の勤労奉仕をすすめるよう通達した。昭和十八年十月の市内中等学校の勤労奉仕は表49のようであった。
宿泊をともなった他地域への学徒勤労動員が本格化したのも昭和十八年であった。この年の七月長野市内では、長野中学四年生全員による菅平北信牧場での軍馬役牛の飼育を中心に、六日間にわたる泊りこみの勤労奉仕がおこなわれた。また、同年十一月には、長野師範学校予科二年生による下高井郡延徳村(中野市)の暗渠(あんきょ)排水の勤労奉仕が一〇日間にわたっておこなわれた。これらは学業を中止しての継続的組織的学徒勤労動員のはじまりであったが、以後十九年、二十年にかけて学徒勤労動員はさらに日常化されることになった。
昭和十九年、政府は戦局の悪化にともない、一月に「緊急学徒勤労動員方策要綱」を閣議決定し、年間長期継続の方針を決定した。さらに五月に文部省は「学校工場化実施要綱」を発表し、本格的な学徒動員体制が固められた。市内中等学校等もこれらの学徒動員要綱にそって、遠隔地での長期継続勤労動員・学校工場での勤労動員・近郊地域での断続的な勤労動員等々、それぞれの状況に対応したなかば学業をなげうっての動員体制に移行した。昭和十九年度における、市内中等学校以上の一ヵ月以上の長期学徒動員の動員先は表50のようであった(対象学年、動員期間等は略す)。
昭和十九年以後本格的学徒動員が開始されたなかで、「工業」という学校の特色性から長野市内で最初に長期工場動員されたのは長野工業学校であった。新学期を迎えた四月一日、日本曹達(ソーダ)株式会社二本木工場(新潟県中頸城郡中郷村)へ工業実習を名目に一ヵ月間赴くよう指示され、その後も「緊急学徒勤労動員方策要綱」により動員期間は延長された。日本曹達は日本最大の総合化学工場であったが、動員生徒は製造各係に分散配置されて従業員とともに生産作業に従事した。
つづいて、五月三十一日から六月三十日までおこなわれた長野師範学校生徒による昭和電工大町工場への学徒動員があった。これは工場学徒動員のモデルケースとして注目された。その報告書は雑誌『信濃教育』六九二号(昭和十九年八月刊)に掲載された引率教官宮坂彦一の報告である。これは六〇〇〇字をこえる報告で、動員生活の状況についてその要点を要約してみると、つぎのようである。
五月三十一日、学校長の烈々たる激励のことばのあと校門を出発。大町駅頭まで工場内の軍楽班が出迎え、工場正門の両側には多数の工員が整列して拍手をもって歓迎した。工場長の挨拶「百万の援軍を得た心強さ」に学徒は感動した。
いよいよ六月一日、盛大にして厳粛な入所式、工場内の見学、作業への注意、工場医の健康診断も実施する。作業服や地下足袋の支給、学徒勤報隊の腕章、工場の記章のついた戦闘帽で持場につく。日程は、午前五時起床、寮舎の廊下で点呼。清掃、洗面。五時二五分寮舎前に集合して食堂へ。五時三〇分朝食。食事作法は神棚への礼拝、着席後、合掌・暝目・食前の感謝三ヵ条を唱えたあと「いただきます」と一斉に箸をとる。食べ終わって同様な作法をしてから御製の斉唱をする。
六時二五分出勤用意、六時三〇分寮舎における朝礼-出勤の点呼・寮長への挨拶ののち国旗へ敬礼・宮城遥拝・大東亜戦争必勝祈念・「海ゆかば」斉唱・故郷へ挨拶・軍人勅諭五ヵ条奉唱の順で厳粛に進行。そして寮長、舎監、寮母等全職員に「行ってらっしゃい」と励まされ、学徒動員の歌「あゝ紅の血は燃ゆる」を高らかに歌いつつ出勤。組織だった学徒の集団的行動は職場に明朗な空気をかもす。
六時五〇分職場着、直ちにラジオによって一斉に朝礼、大東亜戦争必勝祈念(そのあいだ「海ゆかば」が放送される)・産報綱領三ヵ条朗読、国民体操が終わって「今日も亦勝ち抜く為に生産に力一杯働き抜こう」というスピーカーの声でそれぞれ持場に向かう。
午前中に一回一五分の休憩。一一時半まで四時間の作業(作業内容は電解槽にアルミニウムの原料のアルミナを入れて電機分解させる仕事)。昼食後は工員や幼年工とともに排球競技で楽しむ。一二時半から一五時半までが午後の作業。一日七時間労働(一般工員一七時まで)。一六時より二〇分間入浴して工場の門を出る。再び学徒動員の歌を合唱しながらの帰寮。「ご苦労様、お帰りなさい」の寮長舎監のことば。一六時半夕食。一七時より一八時まで自由散策、一日のなかで自由行動のできるくつろいだ一瞬。一八時より二〇時まで二時間を黙習にあてる。二〇時、寮舎の礼堂において夜礼をおこなう。点呼・神棚へ礼拝・「国の鎮め」の斉唱・静座、安全頌朗読・就寝前の朗読・祖先及故郷の父母への夜の挨拶の順できわめて厳粛に挙行、二一時消灯就寝する。
単純な作業にも耐えて出勤率はきわめて良く、一ヵ月に一人の事故者も出さず日ごろの母校での集団生活の規律が生きて働き、工場の気風の改善に貢献した。作業中にも学徒の研究心は旺盛で数々の疑問や課題がそこから生まれ、それが工場への質問事項となってあらわれる。学校の要望で一ヵ月一二回の特別講義が会社の幹部や技師を講師にして開かれ、学徒の探求心にこたえた。
このように宮坂報告が『信濃教育』に発表されたことにより、昭電大町工場の事例が県下の学徒動員に与えた影響は大きかった。しかし、十九年の終わりごろから、大町工場もアルミニウム原料のボーキサイトの移入が途だえて電解槽が止まり、敗戦を待たずに動員は中止された。
同じ長野師範学校の予科二年生は東京の日本特殊製鋼蒲田工場に動員され、特殊製鋼の材料を生産していた。鉄鋼を圧延し切断、これを加工する仕事で工作機械の材料をつくるのが任務であった。食糧事情も大町とは違い、乾燥野菜のはいった雑炊か少量の麦飯の連続であったという。夜具も長野から持参、寮生活も広間で雑魚寝(ざこね)という状況であった。二十年六月二十四日の夜はB29の大空襲にあい、大田区・蒲田区が大被害を受け、ほとんど焼野原と化した。人々は多摩川の川原に避難したが、一部の学徒と青年工員が残留して宿舎の類焼を食いとめたという。この東京部隊はよくまとまって生産に努力した功績で、東条首相から感謝状を受けている。この東京部隊は大空襲直後の六月二十七日に着のみ着のままの姿で帰校、谷浜(新潟県)の製塩業にたずさわったが、やがて八月十五日の敗戦を迎えた(『小さな証言 戦後教育50年』)。
十九年八月一日長野中学校の五年生は、愛知県春日井郡新川町の豊和重工業新川工場に動員された。豊和重工業は豊田織機と昭和重工業が合併した軍需会社で、同工場では約一万人の労働者が砲弾・爆弾・機関砲・航空機部品などの生産をしていた。この動員には長野市立中学校も参加した。飢餓状態にちかい食糧不足のなかで病人や負傷者が続出した。また、東南海地震や名古屋を中心とした大空襲では、つねに死の恐怖にさらされた(『長野高校八十年史』)。
その他学校工場化の例として、長野高等女学校は軍服縫製関係の学校工場となり、長野師範学校が三菱飛行機製作所の学校工場となり、校舎の約五〇パーセントがこれに充当された。
十九年四月長野高等女学校を卒業した女子勤労挺身隊二〇人は、他の県内高等女学校とともに愛知県豊川市の豊川海軍工廠(こうしょう)へ出勤した。同工廠は兵器・弾薬を生産する東洋一の大軍需工場であったが、二十年八月七日B29等の大空襲を受け、県出身者の犠牲者は徴用工・女子挺身隊をふくめて一一二人にのぼった(『胸に穴があいた-女子挺身隊員の記録』)。