幼稚園と託児所

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大正十五年(一九二六)四月、幼稚園令が公布された。これがわが国幼稚園の普及と発達のうえに大きな意味をもち、以後幼稚園や園児数の飛躍的増加をもたらした。長野県下においても、大正十四年の公私立幼稚園数一七にたいして、昭和十五年(一九四〇)には二六に増加している。長野市内では、この時期に長野市緑町に双葉幼稚園が開園している。昭和十一年段階で長野市内には旭幼稚園・芹田旭幼稚園(みすず幼稚園)・双葉幼稚園・栗田幼稚園(栗田武藤園長、昭和十年三月一日認可)・長野高女幼稚園の五つがあり、現長野市域ではこのほかに昭和五年五月に開園した松代幼稚園、大正三年に開園の更級郡稲里村立稲里幼稚園があった。

 戦時下における幼稚園の保育課程とその指導法は、戦争遂行のための諸施策との関連でその影響を受けざるをえなかった。文部省発行『幼稚園教育九十年史』は戦時社会の反映としてこの問題について、つぎのようなことをあげている。

1 国家意識の高揚につながる行事については、①神社参拝 ②国旗掲揚 ③皇居遥拝 ④時局の話など

2 社会の実態に応ずる行事については、①出征将士にたいする感謝の意をあらわす ②出征将士の見送り ③慰問袋をつくる ④旗行列をする

3 保育内容については、①体力をつける(徒歩遠足、国民体操) ②手技 慰問袋をつくる、勲章・軍帽・軍艦・タンク・高射砲などをつくる ③唱歌 無敵飛行機、少年航空兵、軍歌など ④談話 時局に関する話、兵隊の生活経験、乃木大将などの紙しばい ⑤観察 戦争に関する新聞の切り抜き、写真など ⑥栄養食の指導と日の丸弁当

 このような状況のなかで、時局の要請から協同一致・健全なる身体・しつけ・節約などが強調されたことは当然であったが、指導法の本質は幼児の特性にもとづくものであるから、「幼児の生活をはなれて」幼時の教育はできるものではなかった。戦時中、長野市内の旭幼稚園でおこなわれた保育の実態はつぎのようであった。

 昭和十七年九月十四日月曜日曇

朝のお始まり大変おそく十時近くに始まる、体操の後に走りつこをなす、幼稚園を一廻りしたりお庭のあちこちをかけめぐり、子供はとても一生懸命。朝のお話は乃木大将のお話で子供達は一心に聞き入っていた、ヒカウキのお歌を新しく教える、数人の子供達お庭でかたばみの種のはぜるを面白そうに見て遊ぶ。(『旭幼稚園保育日誌』)

 つぎに戦時色につつまれた旭幼稚園の誕生日会「昭和十七年九月十七日、上山田の国立療養所から傷痍軍人を招いての誕生日会のプログラム」の行事はつぎのようであった。

一同起立    鉄砲かついだ兵隊さん

歌       飛行機 肩をならべて

遊戯      ポッポのおはよう 水兵 おせんたく 子豚ちゃん

兵隊さんのお話 支那の子供のご飯をたべるとき 支那の子供の勉強 足をうたれた兵隊さんのこと 木のない支那の山のこと

兵隊さんの歌

一同      愛国行進曲

 このように、戦時には戦争遂行の国家目的に沿った保育の目的と内容があり行事がおこなわれたが、幼児たちは「飛びついて」くるし「遊びを挑んで」くるのである。そこで保育するものは「子どもの間に、子どもらの如く演技して」はじめて戦時における保育も成立したのである。

 旭幼稚園は戦局がいよいよ重大化するなかにあっても、柔軟に対応しながら保育の努力をつづけてきた。昭和十九年四月、東京都では「公私立幼稚園非常措置ニ関スル件」が出され、幼稚園保育事業が中止され戦時託児所への転換がはかられる事態となった。そのような情勢のなかで、旭幼稚園は昭和二十年に保育園への転換を余儀なくされ、八月には松代への疎開も準備したが、やがて敗戦を迎えるのである。


写真85 旭幼稚園の園舎
(『アルバム100年の歩み』旭幼稚園より)

 いっぽう、旭幼稚園の姉妹園であったみすず幼稚園は、昭和十五年十二月に創立二十五周年祝賀会をひらいているが、翌十六年九月にはキリスト教保育連盟から脱退した。それ以後は日曜学校の廃止、保育時間の延長(週一三時間から四一時間三〇分に)、味噌汁給食の開始などの方針を打ちだして、第二の皇国民育成をめざす保育をすすめた。しかし、昭和十八年三月、みすず幼稚園は廃園となった。また、同一系統の松代幼稚園は、昭和十年代に四〇人前後の園児数を保持したが、第二次世界大戦末期に保育園に転換した。そして戦後、幼稚園に復帰した。

 昭和十三年十二月に教育審議会の答申では、「父母とも労働に従事する者の多い都会および農繁期の農村などに対して幼稚園の普及発達に一段の力を注ぎ(中略)託児所における教育的機能については教育行政上の立場から配慮されるべき」であるとしていた。このように幼稚園と託児所との関係は、終戦まで両者の調整・統合の問題であった。


写真86 昭和14年7月出征兵士の留守家庭を中心に農繁期に託児所を開設した (『目で見る塩崎120年』より)

 戦時体制下においては、幼稚園・託児所の差異はほとんどなくなった。教育は二の次になって、まず国策に沿って両者を一丸とした保育施設として推進させようとする気運が高まった。戦時保育施設の特徴は、勤労家庭の幼児の優先的受けいれと保育時間の延長とであった。長野県はとくに農村県として農繁期の季節保育の要求が強く、それにこたえるかたちで託児所の数が増大した。現長野市域でもそれが顕著にあらわれていた。まず託児所のうち、常設保育所の開設状況とその保育の実際についてみると、現長野市域での設置状況は表51のようであった。


表51 長水・更埴地域の常設保育所(現長野市域分)

 常設保育所があったのは長野市内八ヵ所と、他は松代町と信田村に各一ヵ所だけであった。そのなかで実際の保育の記録が残されているのは栗田保育園である。この通園区の七瀬区と栗田区は大部分が中小商工業者と工場労働者、日雇業者、農業従事者で、長時間保育を希望していた。十三年十月十五日の『保育日誌』には大要つぎのように記されていて、時局を反映した園児の姿がリアルに描かれている。

 Aちゃんが軍人遊びの玩具を持ってきた。Bちゃん早速兵隊さんになって肩章をつけ、腕時計をしてあっぱれ軍人気取りをする。「大積木を貸してあげるから停車場をつくったら…」と、誘導の暗示をすると、子どもたちは待っていたとばかりの様子、大よろこびで停車場をつくり、汽車をつくる。C先生国防婦人会長となって、女の子が国防婦人会員となる。みんなが手に手に小旗を持って、停車場まで軍人を送る。子どもたちは何度もくりかえして大満足、十時「全集」の時間となるも、十時半まで時間を延ばして遊ぶ。以下日誌は、戦時下使命感に燃えた保母が園児とのとりくみを克明にしるし、戦後におよんでいる。

 現長野市域の季節保育所の開設状況は表52のようであった。農繁期託児所の保育状況を記録した資料は少ないが、当時の更級郡青木島村村長が、昭和十六年六月保護者に出した農繁期託児所開始のお知らせの文書によると、「場所 青木島国民学校。期間 六月二十七日から七月五日まで九日間。時間 午前八時より午後五時まで。託児 五才以上七才まで 但し来年国民学校へ上がる児童はご遠慮下さい。保育料 無料。担任者 国民学校の先生、女子青年団員、高等科女子、午前七時頃までに各部落集合所に集合、集合所より学校へ五・六年女子引率、帰宅時は各家庭へおくりとどける。支度 ふだん着のままで、手ぬぐい、はな紙は是非用意すること。おやつ 学校で用意し午前一回・午後一回幼児に渡すから各自の用意は不要。弁当 おにぎり。かけ布 休む時、ひるねの時に入用ですから名前をつけて最初の日に持参すること。はきものその他 全部名前をつけておくこと。組わけ 一組(赤)丹波島・鍛冶沼・青木島(一年教室)、二組(青)大塚・綱島(二年教室)。」となっていた。


表52 長水・更埴・上高井地域の季節保育所の開設状況
(現長野市域分)

 このように季節的幼稚園の保育内容は体系的・計画的なものではなく、多分に場あたり的なものであった。その人的物的条件からみても、集団的な幼児のお守の域を脱することはできなかった。