国防婦人会・青少年団の結成

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満州事変後の昭和七年(一九三二)十月に大日本国防婦人会が設立された。「銃後」の守りを固める団体として国防婦人会は、トレードマークの割烹着(かっぽうぎ)(エプロン)に、「大日本国防婦人会」の白だすきをかけ、ふだん着姿で活動を始めたのである。

 九年には長野県本部規約がつくられ、自治体ごとに支部・分会がつくられていくが、早いものには九年七月に結成した国防婦人会平野村(岡谷市)支部の設立がある。長野市では十一年一月十五日、国防婦人会長野市第一分会の創立発会式が、西長野新諏訪公会堂においておこなわれた。分会長には西澤とみがきまり、来賓として松本連隊区司令官斉藤大佐、出席会員は一五〇人であった(『信毎』)。以後、五月に芹田分会、十一月には吉田分会、十二月には古牧分会が発会式をおこなっている。


写真87 長野市では昭和11年になって結成された大日本国防婦人会
(『写真にみる長野のあゆみ』より)

 十二年には、三輪・問御所・桜立(桜枝町・立町)・北石堂・岡田の各分会が発足し、十月十二日には長野支部発会式(支部長小田切もと)をおこなった。二五分会、七千余の会員を擁する婦人団体に成長したのである。その間絶えずリードしたのが西沢が率いる第一分会で、当時は「模範分会」との評価もあった。全国の国防婦人会員は、十一年以降、明治期からつづいた愛国婦人会の会員数を追いこし(『国防婦人会』)、女性の銃後活動のリーダーシップを握ることとなった。

 十二年七月の日中戦争開始以後、国防婦人会では出征軍人の歓送迎ほか銃後後援強化活動、消費節約・廃品回収活動、毛布献納運動などを精力的におこなうようになっていった。埴科郡寺尾村でも寺尾村分会規則が作られ、十二年七月には国防婦人会が結成された。会員名簿によれば、分会の下に東寺尾(一二四人)・柴(一一七人)・小島田(四九人)・牧島(八八人)・大室(八七人)の五班を置き、総勢四六五人の会員により活動を開始している。事務所を寺尾村役場におき、規則では本部の指令に従って「挙国皆兵ノ精神ニ基キ日本婦徳ヲ発揮シ日本婦人トシテノ護国ノ大義ヲ実践履行シテ国防上銃後ノ力ト為ルヲ以テ目的トス」と規定していた。同村では、十月十三日に国民精神総動員寺尾村実行委員会を設置し、その委員には区長・村会議員らとともに、国防婦人会長も名をつらねている。

 国防婦人会小田切分会は、十二月に設立され九班を下部において活動を開始した。翌十三年二月の予算編成によれば、予算八〇円のうち会費は四〇円、残りの四〇円は村費補助であった。四〇〇人の会員は一人一〇銭ずつ拠出して銃後の守りをかためる事業に参加したのである。分会の事業には、①軍人家族慰問 ②防空訓練 ③愛国貯金 ④村葬参列等があった。

 その後、組織を拡大した国防婦人会は、十三年四月の国家総動員法の公布を契機に、支部・分会一覧を作成している。一覧によると、十三年四月末日現在、表53のような状況となっている。長野市では小田切支部長のもとに二七分会七〇〇〇人をこえる会員が登録されていた。郡市には町村の数だけの分会が置かれ、銃後の活動を強化していった。この状況に抗して愛国婦人会は、寺尾村の記録によれば、二月と十月に「勢力拡大に関する件」という通知を各支部・分会にあてて出している。十月の通知は、二月に指令した会員増目標数一万五〇〇〇人にたいしてまだ五八〇〇人にしか達しないので、会員獲得に奮闘せよという内容であった。


表53 大日本国防婦人会の郡市別分会等の状況

 十五年九月十三日には、長野市の国防婦人会・愛国婦人会・女子青年団が共同で、婦人団体協議会として提携し行動もしている。「着物は絶対に新調せず」など贅沢品(ぜいたくひん)を用いない申しあわせをおこない、常会活動を通じて実践していくことにしている(『信毎』)。

 同年十月に大政翼賛会が結成されると、紀元二千六百年記念大会の名のもとに、埴科国防婦人会では一〇〇〇人の大行進を実施して銃後女性の意気を示した。前々から確執がつづいた国防婦人会と愛国婦人会は、太平洋戦争開始後の十七年二月には、大日本婦人会に統合されて解散した。

 大政翼賛会が結成されて三ヵ月後の昭和十六年一月大日本青少年団が結成された。一元化がすすむ大政翼賛会の統制下に入り、大日本青年団ほか諸団体が解散され一本化されたのである。翌二月には地方団として長野県青少年団(団長、鈴木登県知事)が結成され、つづいて郡市および町村青少年団が設置された。いずれも上意下達で決定され、長野市青少年団は高野忠衛市長が団長に就任し、単位団として青年団・女子青年団・少年団が組織された。


写真88 公会堂前に勢ぞろいした川中島少年団員 (竹内今朝美所蔵)

 十六年十二月太平洋戦争に突入するとその翌日、県青少年団長は、青少年戦時実践指針を団訓令第一号として、郡市・町村青少年団長あてに通知した。そのなかで、①必勝信念を堅持せよ ②国土防衛に挺身せよ ③職域奉公に邁進(まいしん)せよ ④心身を積極的に鍛錬せよ、の四つの実践指針を掲げ奮起をうながしている。

 戦時体制がすすむなかで、十七年三月二十九日、長野市青少年団の錬成農場が鐘紡の工場敷地を借りて誕生した。これについて『信毎』は、三月中に各単位団の区画を決定して開墾(田一町六反、畑一町八反)するとの報道をしている。五月五日には、国策の遂行に挺身させるために、第一回長野県青少年団大会が松本で開催された。そして、同年六月には県青少年団の貯蓄実践強調運動が展開され、郡市別目標が決定された。長野市は貯蓄一六万九五三六円(全県三〇九万円)、国債消化二一万四九二七円(全県三〇五万円)の目標額であった。また、少年団の活動では七月の『信毎』記事、「ボク等が剥いだよ 桑皮の山 大豆島校で二十五台」がある。大豆島村青少年団の少年部が、桑皮一二五〇貫(約四・六九トン)を初等科六年以上二百余人の手で、長野駅まで荷車で出荷しているようすを報じていた。

 十九年六月、長野市青少年団の編成をみると、表54のように青年団は一団・八〇五人、女子青年団は一一団・三三七七人、少年団は一二団・九九四〇人となっていた。現長野市域にかかわる一市四郡の団員数によると、青年団員数は九・九パーセントと少なく、労働力不足に悩んでいた県本部では、勢い女子青年団員(二一・六パーセント)や少年団員(六八・五パーセント)の勤労動員に依存しなければならなかった。


表54 郡市別青少年団数・団員数一覧

 県青少年団が作成した「昭和十九年度の事業計画及経過」によれば、この年を「必勝戦力増強挺身の年」として、その重点を、①必勝信念の昂揚、②食糧緊急増産への挺身、③女子勤労動員の完遂、④国土防衛訓練の強化、⑤決戦生活実践の徹底、の五項目においている。とりわけ食糧増産は緊急事業と位置付けており、十九年度歳出予算のなかでは、事業費三万三四五〇円のうち五二パーセントにのぼる一万四六〇〇円をしめている状況であった。

 県青少年団の女子勤労動員事業については、すでに前年の十八年度から大きな転換をしていた。十八年四月には満州建設勤労奉仕女子青年隊として四人を派遣、九月には女子青年皇軍慰問派遣団(一八人)を各郡市からおくった。十月には女子青年団秋季農繁期共同炊事奉仕を実施し、十一月には女子勤労動員協議会が郡市事務局長を招集して開催された。そして十二月には県青少年団長より女子青年団あてに女子挺身隊出動命令が発動され大きく転回した。一月になって挺身隊幹部錬成会が御牧ケ原訓練所で実施された直後に、女子挺身隊が送出された(表55)。長野市女子青年団からは二九五人が出動している。十九年に女子挺身隊を受けいれた現長野市域の工場は日本無線(三六〇人)等七工場で、ほかに新潟鉄道局長野管理部・工機部や長野郵便局への動員もおこなわれた。郡市別の動員数は不明だが、その総計は約八〇〇人に達している(表56)。なお、その後も挺身隊の出動はつづいた。十月二十二日現在の一市四郡に待機していた女子挺身隊員は五〇〇人(全県で二〇二〇人)と記録され、愛知県や富山県へ十一月二十日前後に派遣されることになっていた。


表55 女子挺身隊の出動状況


表56 女子挺身隊の出動先

 少年団でも、勤労動員に組みこまれていったのは女子と同様であったが、十八年度には長野市で一万六〇四人、上水内郡では四万五九一六人が動員されている。