翼賛壮年団の結成

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昭和十五年(一九四〇)十月十二日大政翼賛会が結成された。国民政治力の結集をめざして結成された大政翼賛会は、十六年二月には、公事結社(非政治的団体)と認定され、政府の命令を伝達する行政補助機関化して活力を失った。これを契機に、大政翼賛運動の実践部隊として大日本翼賛壮年団が結成されたのである。長野県は翼賛壮年団の結成にあたって全国をリードし、翼賛壮年団の名称の採用も長野県方式によったと『翼賛国民運動史』は記している。

 長野県と翼賛会県支部が翼賛壮年団結成の通知を市町村長あてに出したのは、十五年十二月二十四日であった。この通知は、高度国防国家建設の線に沿って、思想・経済・文化等の全領域にわたり必要な実践活動をとおして、大政翼賛運動の推進力となる組織(翼賛壮年団)を市町村単位に結成することをうたっている。県の翼賛壮年団員の年齢規定は「青年団終了後四十歳迄ヲ正団員トシ四十一歳以上四拾五歳迄ヲ特志団員トスルコトヲ得」としつつも、「男子青年団員ニシテ二十六歳以上ノ者ハ此ノ際挙テ入団セシメラレタキコト」とし、青年層の入会を指示していた。実践指導事項としては、①国家の要求する積極的増産運動 ②村落都市における協同体制の促進 ③国策の周知徹底と下情上通の機能発揮④常会への積極的参加 ⑤生活刷新並に文化運動 ⑥国民精神の作興と団員相互の教養 ⑦青年団運動の援助 ⑧其他国内再編成 大政翼賛運動への積極的協力、の八項目を掲げている。結成準備委員は全県下一六郡四市から各二人ずつ参加したが、長野市からは古谷作治(のちの市翼賛壮年団長)と清水義雄が参加している。

 十六年一月十日、長野市のトップを切って市翼賛壮年団新諏訪支部が結成された。これを機に長野市の翼賛壮年団の組織作りは一瀉(いっしゃ)千里に進み、全市九一支部の結成は急ピッチにすすんだ。市翼賛壮年団員数は約六〇〇〇人、支部長の平均年齢は三六歳強で、約半数は在郷軍人出身者であった。二月十一日の紀元節の日には城山小学校校庭で、長野市翼賛壮年団の結成式がおこなわれ、団長古谷ほか二〇〇〇人が参集している。三月三日には、権堂町翼賛壮年団(団員百八十余人)が秋葉神社前に空き地を借りて、毎日曜日の早朝から耕土に汗の奉仕をした。最初は豆を植え、七月には漬菜を作り、十一月には麦を蒔くとの計画であった(『信毎』)。

 長野県翼賛壮年団(団長鈴木登県知事)は、五月四日に城山県社で宣誓、県立図書館で結成式をおこない、翼賛態勢推進の宣言・決議をおこなった。『信毎』の見出しは「県翼賛壮年団結成式 我等忠誠に徹せよ」であった。大政翼賛会は九月に翼賛壮年団結成基本要綱を決定し、十二月八日の太平洋戦争開始(真珠湾攻撃)の翌日、県翼賛壮年団は対米英宣戦大詔渙発につき聖戦完遂決議をおこなうとともに、二十五日には必勝態勢確立方策をきめ、決戦スローガンとして、①この一戦何がなんでもやりぬくぞ ②見たか戦果知ったか底力 ③進め!一億火の玉だ! ④屠(ほう)れ!米英われらの敵だ、を掲げて団員を奮いたたせた。

 昭和十七年一月元旦に長野市翼賛壮年団は、必勝大会を城山国民学校校庭で開催した。『信毎』は「雪を衝いて愛国行進」という写真入り四段抜き見出しで取りあげた。なお、二十五日には埴科郡翼賛壮年団員代表者大会が四〇〇人の参加により屋代国民学校校庭でおこなわれている。


写真89 昭和17年2月、信田村の翼賛壮年団の指導者練成講習会が開かれた
(『田野口区史』より)

 同年一月十六日東条英機内閣のもとにあった大政翼賛会は、ナチスの親衛隊にヒントをえて、大政翼賛運動の実践部隊として二一歳以上の有志青壮年を組織して、大日本翼賛壮年団を結成した。

 四月三十日実施された翼賛選挙での翼賛壮年団の活躍の結果を同紙の記事から拾うと、長野県では、一三人の翼賛議員が誕生し、翼賛団体の推薦のない一二候補は全員が落選している。全国的には、翼賛団体推薦候補者三八一人、同非推薦候補者八五人が当選したところをみると、県下の翼賛選挙における翼賛壮年団の活躍ぶりがうかがえる。この時期、『信毎』紙面は翼賛運動を鼓舞する記事を満載し、はからずもみずからが戦争体制にのみこまれている姿を示す結果となった。翼賛選挙で大勝した大政翼賛会は、六月二十三日、大日本産業報国会・農業報国連盟・商業報国会・日本海運報国会・大日本青少年団・大日本婦人会の六団体を傘下に統合し、各団体の組織・監督・予算・人事のすべてを翼賛会が握ることとなった。産業諸団体のほか青少年団や婦人会の社会教育諸団体も大政翼賛会の傘下に統合されたのである。


写真90 首相であり総裁である東条英機の大政翼賛会支部常務委員委嘱状

 十七年七月三十一日、県翼賛壮年団は、「団員年齢取扱ニ関スル件」を郡市町村団長に指示し、大日本翼賛壮年団の組織・方針に即して団則を変更した。当初全国組織に先がけて、二六歳以上を翼賛壮年団員としていたものを二一歳から二五歳までの青年をも組織下に置くことにしたのである。

 十七年八月九日長野市翼賛壮年団では、午前五時から長野飛行場において二千三百余人の団員が総出動して、馬糧に献納する乾草作りと心身の鍛練を兼ねていっせい草刈りを実施した。またこの年、県翼賛壮年団は、指導者錬成のために長野市(上水内農学校)と松本市(片倉普及団)に翼賛塾を発足させ時局に備えている(『信毎』)。

 十八年二月十日には県翼賛壮年団本部から郡市町村団長等にあてて、米英臭一掃運動を展開するよう指令した。そこに掲げられた一三の実践事項から四項目を摘出すると、①看板・広告・標札・商標・献立表ノ米英文字ヲ消セ、②米英製レコードヲ廃セ、③パーマネント電髪ノ絶対廃止、④余ニ米英色濃キ化粧、華美柔弱ナ服装ヲ廃セ、というものである。これらはいずれも高度国防国家建設の障害と判断し、日常生活の強制改変をめざして翼賛壮年団が実践活動の先頭に立ったのであった。

 翼賛壮年団のこのような活動は、昭和二十年六月大政翼賛会および翼賛壮年団等傘下の諸団体が解散するまでつづけられたのである。