仏教・キリスト教と文化人弾圧

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昭和十三年(一九三八)十二月には善光寺の納骨堂は完成に近づきつつあった。翌十四年四月に善光寺大本願が護国の英霊追悼法要をおこなった。新聞には市町村葬や英霊凱旋(遺骨の帰還)の記事がときどきみられるようになった。往生の寺としての善光寺は日中戦争戦死者の遺骨を全国から勧請する活動を始めた。

 昭和十四年の「宗教団体法」制定は、明治維新以来実現できなかった全宗教を全面的に統制する出来事であった。また、この宗教団体法により、惟神の道(かんながらのみち)にしたがわない宗教は存在できなくなり、神社神道に属さない教派神道や類似宗教が監視の対象となった。宗教団体法第一六条は「宗教ノ教義ノ宣布若(もしく)ハ儀式ノ執行又ハ宗教上ノ行事ガ、安寧秩序(あんねいちつじょ)ヲ妨ゲ又ハ臣民タルノ義務ニ背」かないことという規定であった。

 善光寺は昭和初年代からの改革問題を引きずっており、長野市会の善光寺運営にたいする介入にもさらされていた。また、「宗教団体法」の制定により、どの教派にも属さない善光寺の「八宗兼学」の立場が問題視され、文部省も教派のない大寺院の扱いに苦慮することになった。

 昭和十四年に善光寺は、「善光寺忠霊殿」を大峰山雲上殿の東の駒弓神社の近くに移転させる計画を文部省に提出した。計画では全鉄筋コンクリートの建物であった。翌十五年九月には人気の横綱双葉山一行が忠霊殿に参拝し、城山小学校の校庭で大相撲を興行した。一万人の観客が熱狂した。

 昭和十五年十一月になると仏神具の金属回収が寺からも始まり、銅や真鍮の仏具はすべて供出させられた。同十七年一月には善光寺の「大香炉も応召」(供出)という記事が『信毎』に見える。善光寺の供出量は一万キログラムにのぼった。国鉄長野駅の銅葺(ぶ)きの屋根も応召し、スレート瓦(かわら)に替えられた。


写真91 昭和19年、軍需品の金属不足から長谷寺の釣り鐘をはじめ家庭の金属類が回収・献納させられた
(『目で見る塩崎120年』より)

 善光寺改革問題については、「昭和十六年には長野市が最後的態度を決定」と『信毎』は報じた。長野市長は昭和十七年開催予定のご開帳を「市民代表会議」という臨時の会議を開催して延期を決定した。理由は物資の欠乏と輸送力の不足であった。笠原十兵衛と藤井伊右衛門の仲介調停も実らず、大勧進と大本願の積年の対立から昭和十六年十一月に善光寺本堂で抗争事件があり、長野県も調停に乗りだした。善光寺は翌十七年三月三十一日に宗教団体法に即して「善光寺寺院規則」を制定した。ご開帳は外部の介入で開催できなかったが、十七年十一月一日に「善光寺開山千三百年祭」を開催した。

 プロテスタントキリスト教は多くの宗派に分かれていたが、すべて「日本基督教団」に統一され、日本基督教会長野教会が日本基督教団「長野教会」に、日本メソジスト教会長野教会が「長野県町(あがたまち)教会」に、松代教会・北信中央教会がそれぞれ日本基督教団に属した。非法人教会であった妻科教会は法人化し、日本基督教団「妻科教会」となった。救世軍は長野市北石堂町に長野小隊をおいていたが、昭和十五年九月に世相をはばかり「救世団長野支部」と名称をかえた。日本基督教団加入時に、長野愛隣教会とさらに名称を変更をしたが、教会組織が軍隊的であり、本営(本部)がイギリスであったのでスパイとしての疑念をもたれ、同十八年六月に解散した。解散総会で信徒はいずれの教会に所属してもよいという決議をした。なかには長野県町教会員として戦中戦後を過ごした者もあったが、昭和三十五年に長野市鶴賀に救世軍長野小隊が復活したとき信徒はまた古巣へ戻っていった。

 第二次世界大戦下の教会は、礼拝に先だって国民儀礼(皇居遥拝等)をおこなうことをもとめられ、教会組織を守るため信仰の中心である唯一神への信仰から余儀なく逸脱することとなった。プロテスタント諸教派は、それぞれ信仰の姿勢がちがうので、昭和十六年に日本基督教団が発足したとき、信仰や教会運営の制度が似かよった教派同士で部会を形成した。ホーリネス派は「聖教会」が六部に「きよめ教会」が九部に属していた。しかし、翌十七年になって日本基督教団は部制の解消をはかり、長い各教派の伝統と確執を捨てて一本化した。

 旺盛な伝道心をもったホーリネス派の教会は、中南信に多くの教会があったが長野市には一教会もなかった。基督の再臨・キリスト千年王国の説を唱えていた教義が国体と抵触するとして、長野県は昭和十八年四月、この旧聖教会と旧きよめ教会にたいし、宗教団体法第一六条違反で結社の解散を命じた。さらに四人の牧師を逮捕したが、下諏訪町で逮捕された池田政一は、松代警察署で取りしらべを受け長野刑務所内の長野拘置所に送られた。一年近い拘留ののち、裁判は翌十九年二月から四月にかけておこなわれ、執行猶予付きながら二年の懲役刑に処せられた。

 昭和十五年九月に日本が「日独伊三国同盟」(枢軸国同盟)を結んだとき、キリスト者で長野教会の説教者であった柳町小学校長小原福治は、朝会の校長講話で「日本は駄目だ、独(どいつ)はやられる、日本もあぶない」と生徒に語った。戦時下でも自由の教育を堅持した小原の姿勢は、国民学校教育のリーダーで国粋的教育を展開していた後町小学校長の松本深とは対照的であった。この小原の姿勢を追及する一部校長が、翌昭和十六年二月の長野市校長会で小原の進退を論議した。けっきょく、小原は県学務課長と刺しちがえるようなかたちで、同年三月に退職した。

 長野高等女学校(現長野西高等学校)教頭から長野師範学校教諭を経て松本高等女学校(現蟻ケ崎高校)校長になった無教会派のキリスト者森下二郎は、「神と愛と戦争-あるキリスト者の戦中日記」(西尾実編)のなかで、「余はこの戦争が聖戦であるとは信ずることができないのである」と書いている。森下のような戦争批判者は、特別高等警察につけねらわれるようになっていたので、昭和十四年に病床を見舞った西尾実は、「きょうは警察からなにかいってこなかったか」と警察の影におびえていたと、森下の状況を伝えている。昭和十五年にうたった森下の短歌に

支那の国の民は憎まずいつくしむという死傷三百万は民にあらじか

という一首がある。警察の影におびえながら信念を曲げなかった森下二郎は、昭和十五年三月卒業式に「聖戦」の言葉を使うことを忌避して、まったく突然に辞職した。