昭和の初年代から『信毎』の短歌欄の撰者(せんじゃ)をした宮崎茂は、県下で教員を歴任したのち、太田水穂の『潮音』に加わり同誌の撰者になったが、この派の作歌態度にあきたらず、『現代生活』を創刊した。「同人」は日本プロレタリア文化連盟(コップ)傘下の人びとであった。二・四事件で検挙を免れた宮崎は、昭和十年十月に釈放された同志を募って短歌雑誌『いわひば』を創刊した。『いわひば』は職業生活歌・報道性短歌など勤労大衆の短歌を主張した。
同誌には戦陣歌も掲載されている。そのなかに中国済寧ちかくで戦死した、更級郡出身の輜重兵(しちょうへい)(食糧や武器弾薬を運ぶ兵隊)笠原実鶴の作品がある。
生(なま)つ血の死体散乱する街の火焔(かえん)くぐりて糧秣送る
寝ずに来し夜道十里に馬の眼はわれよりはるか憐れげに見ゆ
日本の英国・米国にたいする宣戦布告で、太平洋戦争が昭和十六年十二月八日に始まると、警察は翌九日早朝に「非常事態」に対応し、思想活動の被疑者はもちろん、予防拘禁・予防検束をふくめ全国では三九六人を検挙・検束した。
長野県下でも一三人が検挙され一〇人が予防検束された。いわひば社関係では宮崎茂(いわひば社主幹)、山田袈裟雄(信毎印刷工)、滝沢茂(軍需会社守衛)、町田惣一郎(古物商)、川上四郎(理容業)、溝上正男(新聞記者)であった。信濃毎日新聞学芸部関係では、今井博人(信毎学芸部長)、尾崎英次(養蚕教師)が検挙された。これらの人びとは予防拘禁ではなく治安維持法違反の被疑者であった。
検挙者は四つのグループで裁判された。長野市に関係するのはいわひばグループ事件、信毎学芸グループ事件の二つである。昭和十七年の長野県警察特高課調べの「文化運動関係被疑事件概況」によれば、『いわひば』は二・四事件以後の左翼運動再建雑誌と位置づけられ、階級闘争を展開したとされた。とくに町田惣一郎の
当面する人民戦線の内容を語り合(あい)つつ田圃(たんぼ)道ゆく
が問題にされた。このほか「同人」の溝上正男・滝沢茂・小林喜治の短歌も問題視されていた。
信毎学芸部が罪に問われたのは、大正末期三沢精英が編集長に就任して以来、学芸欄を中心に左翼的傾向をおび、とくに学芸部長時代の坂本令太郎は『信毎』をコップの準機関紙として利用することに賛成したと断罪されている。信毎学芸部では今井博人・山田袈裟雄・川上四郎・溝上正男が懲役二年、『いわひば』では宮崎茂・町田惣一郎が同じく懲役二年執行猶予四年の判決であった。山田と川上は短歌を通して信毎学芸部とかかわっていた。その他の人びとは十分な証拠が用意できず起訴猶予とせざるをえなかったのである。
新聞は昭和十二年から用紙が割り当て制となり、紙面の削減をよぎなくされた。その上さらに新聞社の整理統合が国策としてすすめられた。昭和十四年には県警察部長名で新聞社の統合が勧告された。そのときの整理される新聞社の条件は、「恐喝をする・寄付広告を強要する・勝手に配達して料金を取る・暴露記事を書く・男女関係を書く・記事に権威がない」などをあげている。
長野市では昭和十四年段階で「信濃日日新聞」と「長野県民新聞」が「信濃毎日新聞」に統合され、「長野新聞」は廃刊した。営利を目的としない各種団体の機関誌をのぞき、週刊・月刊・旬刊の営業新聞はすべて廃刊させられた。
ラジオは昭和六年の長野放送局の開局で、長野市・更級郡・埴科郡・上高井郡・上水内郡ではほぼ全域で聞こえるようになった。長野県は昭和十三年八月にラジオ未設置の町村にラジオを設置するように通牒した。ラジオは重要な情報連絡機材であったのである。
昭和十五年十二月に長野県は、各市町村長に国防上ラジオの普及をはかるよう依頼した。地方民衆はラジオを贅沢品視して、情報伝達手段としての重要性は認識していなかったのである。しかし、昭和十六年十二月八日に太平洋戦争が始まると、翌九日には電波管制が始められ、ラジオ放送の雑音がひどくなった。長野・松本放送局は、雑音がすごいという聴取者の苦情にたいし、「電波管制について」というパンフレットを発行して、戦時下ではいかに電波管制が大切か、敵機がラジオの音で都市や軍事施設の場所を特定し、爆撃するというヨーロッパの実例を引いて、管制の大切さを説いている。
戦時下では、また流言飛語(ひご)の取りしまりにも力が入れられた。昭和十五年十二月には「内閣情報部」が「情報局」に改組され、国策遂行のために情報収集と宣伝活動をおこない、情報と言論統制の中枢機関となった。検閲や発禁は特高(特別高等警察=思想警察)の権限で、戦争の情報統制は「大本営報道部」の管轄であった。
長野県特別高等警察が昭和十三年に作成した「支那事変関係流言蜚語(ひご)取締状況表」によると、取りしまり件数のもっとも多いのが、「内地ニ於ケル動員計画其ノ他現地ノ軍機・軍略ニ関スルモノ」であった。軍の機密に関するものが禁句で、戦争の悲惨さを語るのも同じく禁句であった。
戦地からの帰還軍人は表面的には護国の勇士であったが、取り調べ当局にとっては危険分子であった。帰還兵士はつぎの項目で意識調査された。①事変処理に関する政府の方針について ②銃後(直接戦闘に加わらない一般国民)後援並びに帰還者処遇について ③国内体制の整備及経済統制に関するもの ④軍の待遇その他当局に対する不平希望等 ⑤現地における治安状況について ⑥事変解決の見通しについて ⑦支那軍又は支那民衆の抗日思想について ⑧支那新中央政府樹立について
昭和十五年六月の調査によれば、帰還軍人はこの八項日に「反対又は不満」と「賛成又は不平がないもの」のいずれかに認定されているが、①と②ではほぼ不満も賛成も同数であるが、③の「国内体制と経済統制」に関しては、不満組が三二、賛成組が六と圧倒的に反対不満組が多い。全項目の統計でも反対不満が賛成より一・五倍ほど多い。
太平洋戦争開始から七ヵ月後の昭和十七年七月十三日から「戦時国民防諜強化週間」がおこなわれた。大戦下の諸運動はいずれも、「欲しがりません勝つまでは」などいろいろなスローガンが冠せられていたが、この防諜週間の標語は「百八十万県民一人ひとりが防諜戦士」であった。高度国防国家という規定のもとで、長野市民の食糧は馬鈴薯まで統制され、きびしい管理下におかれた。
隣組は、ときどき常会を開いてさまざまな統制の伝達をおこない、軍事国債の割りあて、防火訓練、流言飛語取りしまりなどの役割をになった。世論の指導、戦時生活の徹底は隣組の使命であり、パーマの規制から白米を食べる等の贅沢をしているかどうかの調査までした。