映画・演劇の変容とラジオ

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日中戦争が始まっていたが、昭和十三年(一九三八)十月の演芸館では「半処女」と「関の馬子歌」が、活動館では「右門捕物帖」と「からゆき軍歌」が、菊田劇場では「アパート交響楽」が上映されていた。いずれも娯楽色の強いもので、戦争の影は見えない。この月、相生座は「東京名題大歌舞伎」を小屋掛けしていた。翌昭和十四年十月の上映映画は、演芸館が「新女性問答」と「江戸っ子大繁盛」、活動館が「紫式部」と「海棠(かいどう)の歌」、菊田劇場が長塚節原作の「土」であった。娯楽的なものと「土」のような文芸作品が上映されている。映画演劇の変化を各年の十月の上映映画でみると以下のようである。

 昭和十五年十月の旧長野市内の映画館は、演芸館が「宮本武蔵」、活動館が「花咲爺」と「独(ドイツ)を駆ける支那の月」、菊田劇場が「若様評判記大会」を上演し、相生座が「高松舞踏劇団」を興行している。同年十月の『信毎』は、文部省指定映画の作品名を伝えている。劇映画は二本で、松竹映画「浪速女」(女子中等学校)、東宝映画「燃ゆる大空」(小学校高等学年および中等学校)が指定されている。文化映画は一四種のものが推薦されているが、国策的色合いが濃いものは、松竹映画「落下傘」、東日大毎映画「落下傘部隊」、東宝映画「百錬日本刀」(小学校全学年および中等学校)、朝日映画「戦う女性」(小学校高学年および女子中等学校)、東宝映画「少年飛行兵」(小学校全学年および中等学校)である。このほか「視力を護れ」「僕等の図書館」「天気情報」「飛行機はなぜ飛ぶか」「陽炎」などの教材映画も指定されている。

 この文部省指定映画の報じられている紙面に、家庭生活の新体制-虚礼廃止から-という記事とともに、「歌舞伎座の十月」という記事があり、新体制初の豪華版と銘打っての十月興行が報じられた。出し物の第一狂言は、日本文化中央連盟主催皇紀二千六百年奉祝芸能祭制定脚本の吉田弦二郎作「出陣の朝」二幕が、松本幸四郎と市村羽左衛門で上演されたようすが報じられている。芸能の世界にも新体制が動きはじめていた。

 新体制は外国映画の輸入激減という現象となってあらわれた。昭和十四年の外国映画輸入の実績が一二三本であったのにくらべ、十五年十月現在の輸入実績では約半分の六〇本余にとどまっている。

 昭和十六年十月は太平洋戦争開戦の二ヵ月前であるが、演芸館では佐分利信・桑野通子主演の「躍る黒潮」を上映し、月の後半の十六日からはコリンヌ・リュシエール主演のフランス映画「美しき争い」という文芸作品を上映した。演芸館はついでアニー・デュコー主演「楽聖ベートーベン」(フランスのゼネラル作品)、ダニエル・ダリュウ主演「暁に躍る」(フランスのベルジョリス作品)をつづけて上映している。いまだ排外的な気分は必ずしも強硬ではなかった。

 太平洋戦争がはげしく戦われた昭和十七年十月では、演芸館の出し物は文化映画の「海猫の港」であった。活動館は「風雲将棋谷」という娯楽映画のほかに「養蚕地帯」という文化映画も抱きあわせて上映した。菊田劇場は「龍神剣」をかけている。

 戦局のむずかしくなった昭和十八年十月は、大学生と専門学校生がペンを剣に持ちかえて、学園から戦場に出陣した学徒出陣のおこなわれた月であった。この月の演芸館の上映映画は「北方に鐘が鳴る」「虎彦龍彦」であり、菊田劇場は「結婚命令」と「菊水とはに」であった。アリューシャン列島のアッツ島守備隊が玉砕したので、アッツ島の勇士につづけと十八年九月から「玉砕貯金」が始められるなかで、娯楽もかわりつつあった。相撲は大人の草相撲から、児童の体力と気力の錬成の武道となり、長野市後町小学校が小学校相撲奨励の中心的役割をにない全国的に小学校の相撲が奨励され、飯綱高原に道場が作られた。現長野市域でも小学校単位の対校試合がおこなわれ、十八年十月の記録では、保科小学校が高甫小学校(須坂市)を三対二でくだしている。

 食糧事情がきびしくなり長野市ではご飯にまぜて増量する「混食用甘藷および家庭用澱粉」の配給を始めた。十八年十月十二日には、埴科芸能文化協会が屋代劇場で、農村供米運動督励ならびに出征軍人遺家族慰安舞踊大会を開催した。各地で供米の奨励や出征軍人と戦死者の遺家族を招待しての演芸娯楽がおこなわれ、長野県埴科郡上山田町にあった陸軍病院の傷痍軍人(傷病兵)を招いての慰問などは、幼稚園や小学校でもおこなわれた。

 松代町活動館や篠ノ井劇場の営業は、旧長野市の演芸館や活動館等の映画館とは違ったものであった。昭和十七年と十八年十月の松代活動館の営業状況はつぎのようなものである。昭和十七年十月の興行は、一日からの「曽我廼家(そがのや)金岳上喜劇一行」の公演で幕を開けたが、大人八銭、こども五銭と異常に安価な入場料であった。このころ目立ってきた各種団体主催による慰安娯楽会の種類で、経費の後援がついたものであろう。この月の演劇公演は五回であり、浪曲(浪花節)は一回小屋がけされて、映画は六回上映されている。料金の一番の高額は「石井舞踏団」公演の大人八〇銭、こども二五銭である。映画は高いもので大人四九銭、こども二一銭であり、平均的に大人は四〇銭強、こどもは二〇銭前後というところであった。上映された映画の名称が警察署に出される営業許可申請書が残っていないので、正確には不明であるが新聞広告から拾うと、十月八~十一日は「雪子と夏子」「洋上の楽園」が上映されている。十七日からは「石井舞踏団一行」が、二十八日からは「市川九女八大一座」が公演している。

 昭和十八年の松代活動館は、映画の上映が七回、浪曲公演が二回、演劇興行が五回であった。もっとも高いのは演芸浪曲の大人一円二五銭、こども六〇銭である。映画料金は前年とほとんどかわりがない。それでも映画で一本だけ大人一円二〇銭、こども五〇銭というものがある。十月十二、十三日に上映された映画は「山岳武士」「山に唄う」「花と民族」であった。時代の色彩がうかがえる作品である。

 昭和十七年十月十日の篠ノ井劇場は、「歌謡曲と御船和子と江戸っ子ショウの夕」を開催している。松代活動館は映画を主とする営業に加え、演劇・浪曲などは興行主による催しものに貸館する営業体制であった。篠ノ井劇場は主として貸館的営業で、映画の常設館ではなかった。

 ラジオの番組は毎日の新聞にラジオ欄として掲載されるようになった。国民教化の第一線はラジオでになわれた。昭和十八年十月二十一日のラジオ欄の大要はつぎのようであった。

 朝 六・三〇「誉れの学徒」、九・三〇「わが隣組の決戦食生活」、九・五〇「出陣学徒壮行会実況-明治神宮外苑競技場より中継」、一一・〇〇国民学校放送(四年生の時間)音楽「靖国神社」東京都仰徳国民学校

 昼 〇・三〇浪花節「森の石松」広沢虎造、一・〇〇「子供の工夫と母親の指導」、二・〇〇国民学校放送(六年生の時間)国史劇「万延元年」、四・〇〇国民学校放送(教師の時間)「科学教育の決戦」文部省科学官、五・〇〇報道監修官

 夜 六・〇〇少国民の時間(パラオより)「パラオの子供達」、七・三〇戦時国民読本「祖先の闘魂を受継がう」国民合唱「忠霊塔の歌塔」、八・〇〇講談「楠公父子」、九・〇〇報道「香港だより」「北部仏印の話」

 学徒出陣の壮行会はラジオで実況放送されていた。昭和十九、二十年は戦況ますますきびしく、本土が爆撃される状況で、国民の娯楽や芸能の活動は、戦意高揚や慰問的性格のもの以外はおこなわれなくなってしまった。