昭和七年(一九三二)の「野球統制令」以降、十二年七月七日の日中戦争勃発、翌十三年「国家総動員令」公布と「非常時」がすすみ、自由主義的な外来スポーツは排撃され、野球も戦技的体育でないとして攻撃されるようになった。中等学校用二号ボール牛皮製が一八円から二二円に、馬皮製が二四円から二八円に値上がりし、教育界では野球競技廃止の声が高まった。そのような情勢のなかでも、長野商業は奮闘し、十二年の信越大会で優勝し甲子園大会に出場している。十四年第二五回全国中等学校優勝野球大会(甲子園大会)では、下関商業に準決勝で惜敗した。
昭和十六年「全国的運動競技の中止」通達が出され、長野商業が出場権をえた夏の甲子園大会は中止となった。同年十二月太平洋戦争開始。戦時体制が強化され、翌十七年からは、春・夏の甲子園大会が全面中止となった。かわって、大日本学徒体育振興会主催の全国中等学校体育野球大会が開かれたが、十八年からは、軍需工場への動員、食糧増産作業のため、野球をする余裕はなくなった。
この時期、中等学校の水泳競技は盛んであった。昭和十三年九月十七日の第六回市内三中等学校水上競技大会では、長野商業が長野中学と長野工業をおさえて優勝し、十四年七月二日の第一〇回県下中等学校水上競技大会、翌十五年六月二十三日の北信中等学校水上競技大会でも、長野商業が優勝した。しかし、戦時体制が強化されていくなか、野尻湖游泳協会主催の信越中等学校競泳大会が、昭和十七年から中止となり、かわって壮丁の水練講習が始まるようになる。十八年七月二十五日、市民錬成水泳大会が市営プールで開かれ、市民皆泳をめざし、三百余人が熱戦を展開した。国民学校の部では、市営プール横の山王小が圧勝している。
庭球の衰退に直接影響をあたえたのは、昭和十三年六月に「物資総動員計画基本原則」が発表され、商工省令「ゴム配給統制規則」が公布されたことであった。そのようなきびしい状況のなかでも、翌十四年八月十三日、第一回県下軟式庭球選手権大会(長野庭球連盟主催)が開かれ、中等学校二一組、社会人一四組が参加した。社会人ペアの決勝では、長野が上田に逆転負けしている。十四年から十六年ころには、中等学校の庭球部が廃止され、社会人庭球クラブも消滅した。
陸上競技では、駅伝競技が盛んになり、昭和十四年十一月五・六日には、護国神社奉献第一回青年学校郡市対抗駅伝競走が始まった。一郡市一一人の選手により、長野市・上田市・丸子町・和田峠経由下諏訪町・松本市まで一三五キロメートル余でおこなわれ、一等支那事変貯蓄債券(一五円券)があたる優勝時間予想懸賞も募集された。翌年の紀元二六〇〇年奉祝第二回大会では、上田市・小県郡が圧勝し、長野市は最下位九位に終わった。県下中等学校陸上競技大会は上田蚕糸専門学校主催ではじまり、十五年の第二回大会では長野中学も健闘したが、長野商業が優勝している。
軍国主義高揚にともない、外来スポーツは攻撃されたが、スキーは雪上での錬成手段や北方作戦上の戦技スキーとしてひろまっていった。昭和十九年には、菅平で大日本体育会主催の戦技スキー講習会が開かれ、野沢温泉スキー場では、戦闘演習の講習会がおこなわれ、これが戦時下最後のスキーの催しものとなった。
スケートは千鳥ケ池や田子池でおこなわれ、昭和十三年二月には、千鳥ケ池で第一一回長野スケート大会(長野スケート協会主催)が開かれて、善光寺裏は人出の山で活況をおびた。しかし、太平洋戦争がはじまると戦時色が強まり、十八年以降は正規の大会は開かれなくなった。
昭和十三年厚生省が新設され、国は十四年「体力章検定」を実施し、一五から二五歳の男子に走・跳・投・運搬・懸垂の五種目検定をおこなっている。長野中学でも十五年十月に検定がはじまり、上級(金)・中級(銀)・初級(銅)の体力章バッジが与えられ、生徒は制服の詰襟につけていた。十五年には「国民体力法」が公布され、一七から一九歳男子に身体検査が義務づけられて、体力手帳が交付されている。国防力を強化するため、国民体力の国家管理がはじまった。
学校体育では、戦技訓練中心の総合体力錬成をねらいとした武道・戦技が重視された。各種スポーツの大会も、「強兵健母」のための総合的体力育成の場として基礎的体操が重視され、一種目より多種目主義の大会がふえていった。明治神宮体育大会は、昭和十四年第一〇回大会から明治神宮国民体育大会にかわり、十七年には明治神宮国民錬成大会と名称をかえるが、翌年以降予選の県大会すら開かれなくなった。
各校の運動会等は、昭和十二年以降戦時色が強まり、大正以来つづいていた更級郡内高等科男子の兵式運動会も本格的になって、千六百余人が南北軍に分かれて激戦を展開したり、後町小学校の尚武運動会では、要塞攻撃・教練等も取りいれられている。長野高女では十三年、市営球場で集団的競技中心の運動会を開いたり、長野工業でも十七年、渡河・土のう運搬・手榴弾投げ・行軍等の国防競技大会がおこなわれた。
中等学校は演習が中心となり、十七年には長野地区中等学校連合演習が開かれ、若槻村徳間を中心に南北両軍に分かれて、暁の白兵戦を展開している。また、長野中学から小布施・須坂へ行って戻る、三二キロメートルの寒風行軍もおこなわれた。十八年七月二十五日第一回県下中等学校男子錬成大会が開かれ、陸上・戦場運動・体操・剣道・銃剣術・籠球(バスケット)・相撲が実施された。
市民の運動会も様相をかえ、昭和十二年十一月三日明治節には、戦勝祈願の愛国大行進と運動会をあわせておこなった。厚生省が「健民運動耐寒心身鍛練運動」を提唱し、それを受け十八年一月には若槻国民学校が雪中騎馬戦をおこなった。
運動会にも取りいれられていた集団体操は高まりをみせ、夏休みには児童のラジオ体操や団体訓練が実施されている。十五年五月二十二日、市営球場で紀元二六〇〇年奉祝の長野市体操大会が開かれ、小・中学生約七六〇〇人が徒手体操・国民体操・愛国大行進・マスゲーム等をおこなったり、長野鉄道工場でも、鍛練体操大会や五〇周年記念運動会が盛大に挙行されている。
武道は戦時下でも修練の一つとして重視されており、柔道場(修道館)の壁には「敵国降伏」の文字がみられ、国民精神高揚のために利用されていた。昭和十二年十一月武徳殿で第四回長水演武大会がおこなわれ、柔道は長野四組、剣道は三水中郷高岡組、弓道・銃剣術は長野一組がそれぞれ優勝している。十三年九月の県下中等学校武道大会では、柔道は長野中学が、剣道は長野師範が優勝し、弓道は長野商業が二位になっている。十四年五月の近県中等学校武道大会は、県内二一校、県外六校三四〇人が集まり、長野商業が剣道・弓道優勝、柔道準優勝という活躍を見せた。剣道・柔道が中学校の課外教育に取り上げられるようになると、「健母」のために高等女学校でもしだいになぎなた術が採用されはじめ、女子の武道として普及していった。昭和十一年になぎなたが女学校の正式科目として認められると、戦時下では学校外にも広がっていった。
市民のあいだでも武道は重視され、店ぐるみで剣道に取りくむところも出てきた。長野市西之門町藤井伊右衛門(元市長)の醸造業「よしのや」である。身体が資本ということで、武道本来の娯楽方針をとり、若い店員二五人が休日なしで剣道に打ちこんでいた。
明治神宮国民体育大会県予選では、戦技や武道を中心に、各種目で全国大会めざして熱戦が展開された・昭和十四年十月の神宮大会へは、長野商業が野球・籠球(バスケット)・排球(バレー)・柔道・剣道・弓道・射撃・水泳の各競技で、四六人の選手を送りだしている。善光寺忠霊殿体育大会では、柔道・剣道・弓道・相撲・銃剣術が、中等学校・青年学校・国民学校・一般の四つに分かれておこなわれた。十六年五月の第三回大会では、柔道が中等学校長野商業、青年学校更級中部、国民学校大豆島、剣道・弓道・相撲の中等学校が長野師範、剣道は青年学校更級北部、国民学校朝陽のそれぞれが優勝している。
相撲にもっとも力を入れていた小学校は後町小である。昭和七年には上級生男子に相撲を実施し、九年には全校男子参加しての土俵開きをおこない、校庭のまわりには、各学年ごとの一一の土俵が作られている。また、同年には上級女子になぎなた・体操を実施している。十二年、『学童相撲基本体操』を発行し、夏休みには日本大相撲協会佐渡ケ嶽の講習会を開いた。十三年から十四年にかけ、後町小学校は、象山神社奉納武道大会や信濃護国神社・忠霊殿の各相撲大会を制覇している。
昭和十四年九月、相撲協会は学童相撲の模範として、後町小学校の相撲映画を撮影した。相撲道場が設立された戸隠奥社で撮影をしたねらいは、海外宣伝と国内普及であった。小学校での相撲熱はさらに高まり、各地の小学校に土俵が作られ、国民学校となってからは、相撲が正課に取りいれられた。
明治神宮国民体育大会予選や長野市連合青年団創立二〇周年記念体育大会でも相撲がおこなわれた。善光寺忠霊殿体育大会でも、武道とともにおこなわれ、昭和十六年には中等学校の部で長野師範が、十八年には国民学校の部で芹田が優勝した。国技相撲熱のひろまりは地域住民にもおよび、町の少年相撲大会が開かれたり、十六年には壮年団・青少年団の勤労奉仕により、長野市緑町の空き地に土俵が築かれ、にぎやかに土俵開きがおこなわれている(『長野県スポーツ史』)。