長野軍政部の進駐と市町村

2 ~ 12

昭和二十年(一九四五)八月十四日、ポツダム宣言(日本国軍隊の無条件降伏、同武装解除など)の受諾を決定した日本政府は、翌十五日に天皇の玉音放送で国民に敗戦を告げた。そして、同年八月三十日に連合国最高司令官(マッカーサー元帥)が厚木(神奈川県)に到着、九月二日に東京湾のミズーリ艦上で降伏調印し、日本はポツダム宣言の条項を誠実に履行すること、ならびにその実施のため、連合国最高司令官が要求するいっさいの措置をとることを連合国に約した。


写真1 占領政策の教育関係綴 (長野市誌編さん室保管)

 こうして、敗戦からのちに昭和二十七年四月二十八日、対日講和条約が発効するまでの間、日本本土は連合国(事実上アメリカ軍、以下、連合軍・占領軍・進駐軍などと呼称)の占領下におかれた。そして、占領機構の上からは昭和二十四年七月を境に、前半軍政部・後半民事部の時期に分けられる。また、後述するように占領政策の内容からは、途中米ソの冷戦など国際情勢の変化に応じて大きな転回があり、さらに、四つの時期に細分される。この項では、主として占領軍が進駐した初期の市町村との関わりを明らかにしたい。

 長野市に占領軍が初めて姿をみせたのは、二十年九月十五日(ベンヂソム中佐ら一七人)であったが、これは新潟・東北方面を視察するため五台のジープで軽井沢から上田市・長野市(長野師管区司令部)を通り目的地に向かう途中のものであった。そして、九月二十六日「近く長野県のどこかへ進駐軍が来る」という情報がはいり、県は急きょ渉外係を新設した。この情報どおり翌二十七日ライディング代将らを乗せたジープ三台が、諏訪・松本を経由して長野へ来ることをキャッチすると、県内の要所ごとに警官を配置し、長野市の犀北館を宿舎に指定した。数日後、知事・警察部長・長野師管区司令官・県渉外係首席らが呼び出しを受けて出頭すると、ライディング代将から、武器弾薬などの隠し場所(上田飛行場・下高井郡平岡村など)を、長野県地図上で問われるなどのことがあった(『朝日新聞』)。

 九月二十九日には松本市・上田市などに、まず進駐軍の先遣隊が入った。これに合わせて、いよいよ長野にも進駐軍が入ってくるため、地元の準備として「連合軍進駐ニ伴ウ労務確保準備ニツイテ」、同日篠ノ井国民勤労動員署長名で、管内各町村長あてに「本月十五日付ケヲ以テ予メ貴職ノ内諾ヲ得テイタ」との文書と、その筋より内示があったので、町村内在住者のうち「職種該当者、出動ノ可否・期間ハ一ヶ月位」として、出動見込み者を十月十日までに調査報告するよう、通知が出された。これに対し、松代町長は年齢二五歳から五三歳までの男性四人の候補者を報告している。

 このあと、篠ノ井国民勤労動員署長は十月四日松代町長あてに、「東京都ソノ他ノ前例地ニオケル実例カラミルニ、労務ノ要求カラ出動マデノ時間的余裕ハ極メテ短ク、二四時間以内が普通デアル」ので、出動要求があったときは、直ちに電話連絡等でするとして、出動予定者のさらに詳細な「職種一覧表」の提出を要求した。その職種は左表のように四〇種別におよんでいたが、県内の進駐地については、「現在、長野、松本、上田ノ三市ナルモ其ノ他ハ目下不明にシテ、県内地都市或ヒハ県外へ出動要請アルヲ予測シ、県外出動可能者に付キテモ同様準備」するよう要求している(「連合軍進駐に関する書類」)。


 これら進駐軍関係の労務賃金は、職種により若干の差があるが、一日一〇時間就業で、最高九円九七銭から最低六円七二銭、女子労務者はその七割とされている。時間延長の場合は一時間につき定額給に技能給を加えた額の一〇分の一の額のほか、その額に一〇〇分の五以内の歩増しを支給していた。

 十月八日、長野県庁にはアメリカ軍ハーズブルック代将ら五人が訪れて大坪知事に会い、進駐軍の長野県進駐については十日から十五日の間に、長野市と上田市、松本市の三市ヘアメリカ第八軍第十一軍団第九七歩兵師団が進駐することが伝えられた(『信毎』)。

 十月十日には、長野市若里の鐘紡長野工場(工場建物と附属建物の大部分)と同上田工場が接収されて、それぞれ進駐軍が入った。鐘紡長野工場には、十一月二十日、第七八軍政中隊が、第九七歩兵師団砲兵隊に配属され、軍政任務についた(『アメリカ国立公文書館複写史料』)。長野には、長野進駐軍司令部(長野軍政部、部長コルソン中佐)がおかれ、松本市郊外浅間温泉井筒ノ湯旅館と上田市鐘紡工場に支部がおかれた。


写真2 長野軍政部のおかれた鐘渕紡績(株)長野工場 (カネボウ綿糸(株)所蔵)

 ところで、長野市に長野軍政部が進駐してからも、旧陸軍の長野連隊区司令部(長野市箱清水)は、二十年十一月三十日GHQによる、陸・海軍省の廃止までは、戦没兵や復員兵の恩給、英霊の返還・出迎え儀式・遺族援護などの業務を継続していた。しかし、陸・海軍省の廃止と同時に、長野連隊区司令部は県の「長野地方世話部」と改称して業務を引きつぐことになった。しかし、十二月十五日には進駐軍司令部から「業務一時中止」が指令されたが、十二月十四日から長野市箱清水で業務が開始された。この間、十一月二十七日には下高井地方事務所へ、各町村の前兵事主任、もしくは援護係(ただし、出席者は関係書類携行のこと)を集め、連隊区からは藤森中佐、細田・内堀両大尉、県からは係員が出向いて、業務内容の講習会がおこなわれた。この通知は十一月十四日付けで各町村長あてに出されている(『綿内村役場文書』)。

 二十年十二月十五日、長野進駐軍二人(ほかに通訳一人)が、長野県庁を訪れ長野市立学校の諸調査をするよう指令した。それに対する各学校の調査のうち、英会話ができる教員調査の回答結果は表1のようであり、戦時中からの英語教育の低さがうかがわれる。


表1 市内各学校英会話のできる教員調査 (昭和20年12月)

 初期軍政部の占領政策は、いわゆる民主主義政策の推進であり、とくに二十年九月末から二十一年にかけて、次々と民主化の指令が出された。そのおもなものは、戦時体制の解体、軍国主義の永久除去、特別高等警察の廃止、民主主義の復活強化、男女同権、労働組合の結成、教育の自由主義化、専制政治からの開放、経済の民主化、農地改革の指令等であり、主としてこれら指令事項の徹底取り締まりであったが、指令のすべてが必ずしもスムーズに進行するわけではなかった。

 二十年秋ごろから復員軍人や軍属の姿が町や村に多く見られるようになったが、軍服軍帽などそのままのものもあった。そこで、その軍服軍帽について十二月十七日須坂警察署を経由して各町村長あてに、「軍服軍帽ニ、其ノ階級ヲ表示スル袖章・識別章・星章・階級章等、一切ヲ除去スルヨウ連合国司令部ヨリ指令」されたので「管内一般ニ速ヤカニ徹底スルヨウ」とし、なお「コレラヲ取リハズシタモノハ軍服軍帽卜認メナイ」と通達された。

 また、十二月十九日長野地方世話部長からは、市町村長あてに「従来、市町村ニオケル英霊ノ公葬、又ハ駅頭デノ英霊迎エ等ノ際ニ弔旗ヲ掲揚シタガ、以後ハ国旗・弔旗・団体旗等ノ旗類一切ヲ廃止スルコト」が通達された。さらに、国旗については二十一年三月六日「国旗掲揚ニ関シテハ、進駐軍ノ許可ヲ要スルに付キ指示アルマデハ」掲揚しないよう「先二通牒シ置キタル処ナルモ、最近県下某所ニ於イテ英霊ノ帰還二際シ、区長ノ独断ニ依り部落百二十戸中五十八戸ニ国旗ヲ掲揚セル事実ヲ進駐軍将校ニ現認セラレ、為ニ其ノ責任ヲ追求セラレタル事件」があったのは前通牒の不徹底によるもの、追って「当該村長並ニ区長ヨリ始末書ヲ徴シ、厳重戒告スルト共ニ掲揚国旗ハ全部取リ纏メ村長に於イテ保管セシメ」なお「当該村駐在巡査ニ対シテ所要ノ戒告ヲ与ウル」と告げられた。

 二十一年二月二十六日長野県教育民生部長は、連合国最高司令官による通牒の徹底について、各地方事務所長・各学校長あてに「未ダ一部ニ措置不十分ナルモノ、迅速ヲ欠クモノ又ハ消極的ナルモノ等アリ」とし、表2のような既往の通牒一覧表を添えて、「既往指令並ニ通牒ニ対スル受領書ハ一月十四日付ケ通牒ニ拘ラズ全部に付キ、件名毎ニ三月五日迄ニ提出スルコト」と通達された。


表2 連合国最高司令官の指令移牒一覧 (昭和20年9月~21年2月)

 このように、矢継ぎばやに出される連合国最高司令官の指令通牒による各市町村や諸機関・団体等の対応はたいへんで、その措置・処理等には、しばしば不徹底があった。

 二十一年一月には、長野市若里鐘紡長野工場内に米第八軍軍政部長野隊、諏訪市湖柳町片倉貴賓館内に同隊の長野支隊がおかれ、また、野尻湖には休養所もできた。いっぽう、連合国最高司令官総司令部(GHQ)直属の対敵情報機関(CIC)は長野市三輪田町の栄庄之助宅(飛島組・のち信州会館)を接収して本部(ストラットン憲兵大尉)をおき、長野警察署には憲兵(MP)が常駐した。しかし、同年四月には、松本・上田から進駐軍が去り、長野市に軍政部(部長コルソン)と、対敵情報機関が残り、占領行政を推進した。


写真3 GHQ長野軍政部関係史料中昭和21年の長野市に関する報告史料 ウィリアム・A・ケリーの署名がある (アメリカ国立公文書館所蔵)

 連合軍の日本本土占領と軍政機構は非常に複雑で、降伏調印後、総司令部を東京に移し、米第八軍司令部(横浜)が主として東日本を占領(英軍が中国・四国地方)し、第一一軍団が関東地区を担当することになると、その下で第九七歩兵師団(砲兵隊)が埼玉県熊谷市に駐留して、長野県はその管轄下で占領業務がおこなわれることになった(『アメリカ国立公文書館複写史料』)。この後二十一年七月に組織がえがあり、総司令部の下に軍政団軍政部、地方軍政本部をおき、その下に県別の軍政部が組織された。長野軍政部第二代教育部長としてウィリアム・A・ケリーが着任したのも同年同月である。これに合わせて、同年十二月二十六日には、すでに接収されている鐘紡長野工場(社宅B棟・C棟・D棟二棟)と、さらに二十二年九月に社宅(E棟)が接収されている(『鐘紡工場歴史』)。

 二十二年八月時点の配置は、つぎのようになっていた(『信毎年鑑』)。

第八軍軍政本部(横浜)司令官、アイケルバーガー中将

 一、第九軍政団軍政部(仙台)

  3、第三地方軍政本部(横浜)関東地方担当、

     この下に、千葉、前橋、水戸、浦和、宇都宮、

          長野、甲府の各市に県軍政部

 知事の上に絶対的権力で君臨する長野軍政部は、鐘紡長野工場の三分の一を占め、長野軍政部長コルソン中佐、次長ストラットン少佐(のち中佐)以下、数十人の士官・下士官・兵が駐屯して、自動小銃を持った門衛が入り口に立って警戒厳重をきわめる治外法権区域になっていた。

 こうして、以下占領政策は広範にわたって展開されたが、昭和二十四年七月一日全国的な占領軍の組織がえにより、長野軍政部も民事部と改称され、さらに同年十一月三十日長野民事部も閉鎖廃止となった。これにより、連絡官三人を残して民事部も長野から引きあげた。あと指導監督のすべては関東地方民事部(東京)に引きつがれた。

 長野市の鐘紡長野工場は、それまで長野軍政部に接収されていたが、二十五年二月二十日、まず工場関係と女子寄宿舎が返還され、二十七年(一九五二)日本占領がすべて終わるにともない、残りの施設全部が同年六月二十二日返還された。

 この間における日本の占領政策は、アメリカの政策・総司令部の方針・日本政府の動向などから、昭和二十七年までの期間、一般にほぼ四期に区分されている(『国史大辞典』吉川弘文館)。その各期間とおもな内容はつぎのようであり、アメリカの占領政策も米ソ冷戦や朝鮮戦争など国際情勢の変化に応じて大きく転回している。

①は、敗戦直後から昭和二十二年初めころまで-占領初期にアメリカの占領政策を東京の総司令部が実施した時期で-

陸海軍の解体、戦犯の逮捕と引き渡し要求、言論・出版・通信の自由、政治的・市民的・宗教的自由の制限撤廃、軍国主義的教育の廃止、二十一年三月第一次アメリカ教育使節団来日、公職追放、財閥解体、労働組合法の制定、農地改革、選挙制度の改革等であったが、最大のものは二十一年十一月三日公布の日本国憲法の制定であった。

②は、二十二年三月ころから二十三年末ころまで-占領政策の展開が総司令部を中心として経済政策に重点が移る時期で-

独占禁止法、自治体警察法の制定、内務省の解体、教育委員会法の制定など分権化がすすめられた。

③は、二十三年十二月の経済安定九原則の指示から二十五年六月の朝鮮戦争勃発(ぼっぱつ)まで-アメリカが日本の経済復興を強力にすすめようとした時期で-

講和条約締結案、講和後の日本の安全保障とアメリカの関係、総司令部の機能縮小と日本政府の責任を増大させる、政策の基本を改革よりも経済復興におく、ドッジ・プランによる新経済政策、昭和二十四年七月地方の軍政部が民事部と改称するが同年末までに府県民事部が廃止するなど、総司令部自体の規模も次第に縮小された。

④は、二十五年六月の朝鮮戦争勃発前後から二十七年四月まで-二十五年六月共産党幹部の公職追放、「アカハ夕」の発行停止、レッド・パージは言論界・公務員にも拡大した時期で-

警察予備隊の創設、旧軍人をふくむ追放解除、二十六年四月十一日マッカーサー解任、後任の最高司令官リッジウェイから日本政府に占領下制定諸法再検討の権限が与えられる、二十六年九月の講和条約・日米安全保障条約の署名等がすすめられた。

 そして、昭和二十七年(一九五二)四月二十八日の両条約発効で、日本の占領体制に終止符がうたれた。