公職追放と首長・議員選挙

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昭和二十年(一九四五)十一月七日国では衆議院議員選挙法が改正され、婦人参政権や被選挙権男女二五歳以上などが決まり、二十一年一月四日には、連合国最高司令官総司令部(GHQ)は日本政府に対し、軍国主義的諸団体の解散命令と、世界平和に対する裏切り行為を立案指導したいっさいのものを政府組織から一掃することを命令した。この措置により該当者はすべての官公職から追放されることになった。この追放の人物範囲は、A項からG項までの七項目に分けて詳細な追放基準が示されていた。政府は同年二月これを法令化し「公職適否審査委員会」を組織して実施するとした。

 公職適否審査の範囲は、その後さらに地方公職まで拡張され、県・市区町村の首長、助役、収入役、議員、その他地方公共団体のすべての職員・選挙事務関係職員・農地委員会委員、大政翼賛会・翼賛壮年団等の有力者および帝国在郷軍人会連合分会長などまでおよんだ。なお、この追放令とは別に、条件により戦時中から引きつづき同一の職に四年間は立候補できない施行規則も公布された。

 公職追放は、二十一年四月の衆議院議員選挙から立候補者の資格審査をおこなうことになり、その方法は、中央では参議院・衆議院の各候補者につき、地方では各都道府県の地方選挙立候補者について、公職適否審査委員会が審査する仕組みであった。これらの統一地方選挙は二十二年四月に表3の日程で実施が決められた。


表3 長野市戦後数年間の公職選挙関係のおもな事項

 公職適否審査委員会は、国の中央委員会が定員九人、地方の県委員会や市の委員会は五人で構成された。長野県審査委員会は、県弁護士会長県労委中立委員赤羽根銀作・県農総務部長小松直人・長野地裁判事草間英一(委員長)・長野女専校長佐藤貞治・評論家高山洋吉のほか「臨時委員」として民生委員神方敬勝・県水産業会専務理事楠慶治の構成で二十二年八月末までに四八回の委員会を開催し、一万九六四六人につき審査をとげたが、なお、未決定一人があった。

 長野市の審査委員会は、酒類販売業青山伊助・民生委員町田耕之助・蚕種業竹内五郎・判事梅原松次郎・長野逓信局員吉岡昇の構成であった。

 長野市では、二十一年四月十九日高野忠衛市長の任期満了にともない、立候補は高野のほか笠原、松橋、花岡が立ち、改選は旧法(市会議員のみの投票)によりおこなわれた。その結果、高野が三期目の市長に再選されたが、これは当然「公職適否審査」の対象として、市長就任の確定は審査の結果待ちとなった。二ヵ月後の六月二十一日、いったん「就任認可」の指令により、二十四日初登庁して市政の執行を開始した。ところが、五ヵ月後の十一月十一日公職追放が決定し、高野は内務大臣に辞表を提出して退任した。

 高野市長の辞任後、市では小出助役の任期も二十一年十二月二十五日に満期となるため、このまま放置すれば市長は当然職務管掌(旧法による監督官庁派遣の官吏が職務執行)となるが、市会ではそれを望まず代理市長によるか代理助役によるか対策を練ることにした。そして、同年十二月二十六日には、松橋久左衛門が臨時市長代理者(公選までの間)に就任した。

 二十一年十一月現在、『信毎』の報道によれば。県会議員立候補予定者のうち、県内市町村長の九割が追放に該当する見こみとなり、この内訳は、大政翼賛会、在郷軍入会等による者一二〇〇人、これには該当しないが四年間就職を禁じられる者約五〇〇〇人で、計六二〇〇人に達した。現職県会議員では、約八割が追放とみられた。また、現長野市域各郡市の追放予想状況は、つぎのようであった。

①長野市では、高野市長をのぞいては追放の影響は少なく、県会議員の松橋久左衛門、池田宇右衛門をはじめ市会議員などの追放該当者は一人もない見こみであった。

②上水内郡では、現県会議員一人を除いて二人、村長四人、郡壮年団長二人が該当または抵触、郡協力会議長出馬不能、わずかに安茂里村長が該当しない程度であった。

③上局井郡では、現県会議員二人のうち一人が追放、県会議員候補者では元在郷軍入会代表一人、元村長一人、元壮年団長二人がそれぞれ追放、翼賛会解消後の村長一人、元農会長一人は安全圏内にあった。

④更級郡では、県会議員候補者のうち、元町村長等四人が追放拡大で該当者となった。

⑤埴科郡では、県会議員候補者一五人のうち、元町村長五人が翼賛会支部長で失脚している。

 このような情勢のなかで、表3のように追放令発令後から公選までの間に、三七市町村のうち二二市町村が旧法による市町村長の改選(中でも長野市・東福寺村・信田村・豊栄村は二回)をおこなっているが、第一回公選の結果では、すべての市町村長が新旧交代して、戦前から継続の首長は一人もなかった(表4)。こうして公職追放により首長の退陣後は、公選までの間、助役が「事務代行」するか、中には旧法により補充選挙をするところもあった。ただし助役にも追放令該当者があった場合は、まず後任新助役を任命のうえ、市町村長は辞任することになっていたが、適任者がない場合は県当局が「臨時代理者」を任命することになっていた。


表4 現長野市域の第1回市町村長公選結果一覧 (昭和22年4月5日)


写真5 昭和25年に改築された若松町の市庁舎

 このように、公職追放は戦後日本の非軍事化と民主化達成の手段として威力を発揮したが、東西冷戦によってアメリカの対日占領政策が日本の経済的自立化へと転換するにつれ、パージ政策が再検討され、わずか二年後の二十三年五月には、終結が宣言された。かわって、訴願と追放解除の業務が開始された。二十二年一月に設置された第一次訴願委員会は休業状態にあったが、二十四年二月スタートした第二次委員会以降本格化し、追放免除や解除がすすみ、サンフランシスコ講和条約が発効する二十七年四月には公職追放令関係の法令がすべて廃止となった。

 二十二年四月五日、予定どおり戦後初の市町村長の公選が全国一斉におこなわれた。

 長野市では、この選挙に先だち四月一日付『長野市報』第一号では、「公職追放該当者は候補者となることができず、また、候補者となった者が、後に該当者として指定されたときは、候補者たることを辞したものと見なされることとなった。各候補者から提出の資格審査調査票を一般の縦覧に供するので、市役所内選挙管理委員会でご覧願いたい」との記事を掲載している。公選結果は、松橋久左衛門が圧倒的票数を得て、渡辺一郎・樽田信俊・荒木茂平の候補をやぶり初の公選市長に当選し、民主市政の運営に当たることになった。二十二年当初予算は、一六八七万円であったが、新規施策、物価騰貴にともなう追加予算として四八〇〇万円があげられた。


写真4 昭和22年4月1日『長野市報』 第1号

 まず、同年四月の町内会・部落会・隣組の廃止にともない、その事務はすべて市町村に移管された。市は窓口事務の簡易迅速化をはかるため、六月一日から事務を開始することとした。支所は旧市街地に第一から第五支所を、ほかに芹田・古牧・三輪・吉田に各支所をおいて、それぞれに所長、主事等をおいて市政の推進をはかった。また、水道施設の重要性から水道課、水道拡張課を設け、さらに観光事業の発展を期して渉外観光課を新設した。都市計画では、国土計画局の指示にもとづき八八〇〇万円の見積もりで総合土木一五ヵ年計画をたて、産業開発、観光の両観点から計画の遂行を期すこととした。また、新制中学校の創設や公民館設置の問題は、他の町村もふくめて早急の大きな課題であった。