市町村財政の窮迫と天皇の巡幸

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昭和二十年(一九四五)八月の敗戦から約一ヵ月半たった十月、食糧不足や物価高などに生活を直撃された長野市民の様子は、『信毎』の記事によればつぎのようであった。

 十月二日、市会協議会は戦後の混乱の中で緊急に対応をせまられる事項について相談するため、戦後対策委員会を設置することを決めている。同じ日に市会協議会では、主食配給量の、一人一日当たり二・一合から二・五合への引きあげを国へ陳情することの提案があり、協議会ではこれを了承した。理由として、二・一合では生きていけないこと、主食配給量の不足があらゆる窮乏や道義低下の原因となっていることをあげていた。都会地の米価の闇値は約一〇〇倍へと高騰し、米一升が五〇円もしているという内務省経済保安課の調査報告も紹介している。食糧品とともに値上がりがはげしかったのは家賃であった。疎開者で家が不足ぎみであったうえに、敗戦直前の建物疎開、戦後の復員軍人、解除になった徴用工などで家不足は深刻であり、二、三倍の家賃を要求する家主があらわれていることなどを報じている。


写真6 昭和20年代の長野市全景

 昭和二十一年三月、政府は物価体系の確立と価格統制の方針を決定し、物価統制令を公布した。米価と石炭価格を基礎にして価格体系を組みたてたが、急速に進行するインフレのため、十一月には米価、十二月には石炭価格の値上げに追いこまれた。長野労働基準局の労務者生計費調査によれば、二十二年一月に収入一二七二円余、支出一三六七円余であったのにたいし、半年後の七月には、それぞれ二五五四円余、三〇一九円余となっている(『信毎年鑑』)。収入は約二倍、支出は約二・二倍と支出の伸びが大きく、インフレ下で生活が悪化していることを示していた。

 昭和二十二年四月、地方自治法の公布に先だって地方税法、地方分与税法が改正された。その目的は地方自治体の財政需要の増加にこたえるとともに、地方分権にともなう自主的財源の確立をねらうものであった。おもな改正点は、国税の地方税への委譲、都道府県・市町村の独立税の追加、府県民税・市町村民税の賦課額制限の引きあげなどであった。長野市は二十二年度の当初予算に、一六八七万円を計上したが、新規事業の実施と物価騰貴の影響で追加をかさね、歳出決算額は約五〇五八万円とおよそ三倍に膨張した(表5)。町内会・隣組の廃止による窓口事務の迅速化をはかるための市内九ヵ所への支所設置、水道課・水道拡張課の設置、葬儀の公営化、新制中学校三校の新設、駅前拡張工事などが新規事業のおもなものであった。


表5 長野市の歳出入額と1人当たりの市税負担額の推移 (昭和20~25年)

 昭和二十二年度の歳入のおもな項目は、市税二三三四万円余、市債一一一八万円余、国庫支出金七〇八万円余で、歳出は時局特別費九九三万円余、水道拡張費六八八万円余、厚生費六六四万円余、教育費三九一万円余であった。膨れあがる歳出を賄うため市税は引きあげられ、市民一人当たりの負担額は二十一年度の四二円から二〇五円へと約五倍となった(表5)。インフレにより政府の地方自治体への貸し付けはきびしく制限されていたため、不足分は公債の発行で充当した。二十二年十月一日、市は一般市民の愛市観念にうったえるとして、五二八万円余の「愛市公債」を発行している(『長野市報』)。

 昭和二十三年度の歳出をみると、教育費三五三一万円余、警察警防費二〇二〇万円余、役所費一九三二万円余、保健衛生贄一七六九万円余などが大きなものであった。新制中学校の校舎建築費、自治体警察の新設費に多額の費用が必要とされた。新制中学校は、二十二年に後町・柳町・川端中学校の三校、二十三年は東部中学校が開校していた。しかし、増加する生徒数に対応するため、旧市立中学校の跡地へ南部中学校を建設することになった。この財源には国庫補助と大蔵省からの借入金を充てる計画であった。大蔵省ではインフレ対策として、自治体住民の郵便局への定額貯金の金額に応じて資金を貸しだしていた。市では予定した全額の融資を受けるため、五月下旬に学校・PTA・郵便局と協議し、市民へ六〇万円余の定額貯金を依頼することにした(『長野市報』)。市では南部中学校の建設工事や施設拡充のため、さらに十月には六〇〇万円、二十四年四月には三〇〇万円の定額貯金を募集している。


写真7 昭和22年『長野市勢一覧』 初めてのローマ字使用の表紙

 昭和二十三年八月、長野市は市税条例を告示した。市税の内容は、県税の付加税が二〇種類、自治体が設けることのできる独立税が、市民税・自転車税・荷車税・金庫税・犬税など一二種類、使途が決められている目的税が、都市計画税として三種類であった。二十四年二月、市は前年十二月に連合国総司令部が発表した経済安定九原則の中にも、経済の自力回復をはかるうえで徴税を促進強化することがあげられているとして、市税を徴収確保するため四項目の措置をだした。現在の滞納者にたいしては、不動産・物件を差しおさえて公売処分まで強行する、荷車・リアカー・飼い犬など鑑札が必要なものへ一斉検査を実施し、無鑑札・旧鑑札のものは処分手つづきをする、などであった。戦後社会の大きな変化にともない、市民の税負担も飛躍的に増大していった(表5)。

 昭和二十四年度の郡町村の予算の編成状況をみると、更級郡では町村全体で一億五一二万円余、前年度の約二・九倍へと拡大している(『信毎年鑑』)。上水内郡ではやはり前年度の約三倍で、一億五三八二万円余にのぼり、一村平均五三〇万円余で、住民の負担は一人当たり六六〇円であった。埴科郡では財政が苦しい町村が多いと報告されている。長水地方事務所の調査によれば、二十五年度の上水内郡下の各村の予算編成において、全国の標準以上の収入をあげているのは、二九ヵ村中、長沼村一ヵ村だけであった。りんご生産が好調な同村は、村民税だけで四〇〇万円余にのぼり、収入が支出を二〇〇万円余上まわっていた。しかし、郡下の数多くの村は教育費・土木費などの支出が標準額に達していなかった(『信毎』)。財政規模の小さい村々では、六・三制の実施にともなう新制中学校の建設費などにおいて、見通しが立たない状況も出てきていた。

 昭和二十一年一月一日、天皇は年頭の詔書で自らの神格化を否定した。翌二月、国民生活の実情を視察するという名目で、人間天皇を印象づける巡幸が神奈川県から開始された。長野県の巡幸は、二十二年十月七日の北佐久郡大日向村開拓地から始まり、いったん新潟県へ出た後、十月十二日から十四日にかけておこなわれた。県内における巡幸の様子は『長野県御巡幸誌』(矢ヶ崎賢次編述)にまとめられているが、その「緒言」で、編集の意図は、今回の巡幸がいかに民主化されたものであるかをうかがう資料とするとともに、敗戦後の県情が把握できる記録とすることにあるとのべている。


写真8 昭和21年10月13日、城山公園で市民にこたえる天皇 (笠原十兵衛提供)

 十月十二日午後、天皇は上田市から屋代町の奉迎場へ到着した。松代町の恵愛学園の戦災孤児一七人が、戦死者遺族の前列に立って出むかえている。篠ノ井町のりんご園、県立蚕業試験場を視察し、宿泊先の善光寺大勧進へ入った。夜は松本市立開智小学校長矢口亨の「長野県初等教育における新教育の動向について」と飯田市長高田茂の「飯田市復興状況について」などの奏上があった。

 十月十三日は、松橋長野市長の案内で、新潟鉄道局長野工機部・長野市社会会館・国立若槻療養所を視察した後、北信地区奉迎場で市民の歓迎をうけ、つづいて後町中学校・県庁へ立ちよった。工機部では空襲をうけた場所や犠牲者などについて質問があり、社会会館では、戦争未亡人の縫製作業を見学した。奉迎場の会場となった城山小学校校庭は、西山部・北山部から出かけてきた戦没者の遺族、引揚者、戦災者などで前夜から埋まりはじめ、午前九時ごろにはすでに満員であった。奉迎が済んで天皇が乗車すると、人々がどっと車近くへ押しよせて、万歳、万歳を高唱した。後町中学校では、一年生社会科の、家庭生活や帰宅後の学習時間について、生徒が司会して進める討論形式の授業と三年生の理科「予防と治療」の授業などを参観した。国立若槻療養所の視察の後、立ちよった雲上殿の石段上に設けられた善光寺平展望所では、林知事が説明に加えなかった松代大本営について、「此の附近に戦争中に無駄(むだ)な穴を掘った所があるそうだがどの辺か」という質問があり、知事はあらためて松代方面を指して説明した。県庁の視察後、天皇一行は長野市周辺の巡幸を終え、長野駅から中信方面へ向けて出発した。