県庁舎別館の火災と分県論の再燃

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昭和二十三年(一九四八)一月十四日県庁舎別館二棟六七〇坪が全焼した。この別館の再建をめぐって、県政始まって以来ときどき起こっていた南北信分県の論争がまたもちあがった。発端は、焼失した県庁復興費二四〇〇万円を県が二月七日予定の臨時県会に予算計上する動きにたいし、一月二十七日中南信(上下伊那・飯田・諏訪・東西筑摩・北安)の社会党県議を除く県議一二人が、林知事(社会党推薦)に計上延期を申しいれ、この際分県実現に邁進することを申しあわせたことに始まった。


写真9 昭和23年1月14日、猛火につつまれた県庁の一部

 この動きにたいし知事は「分県は重大問題で施設費や人件費をふやし、結局は県民の負担を重くするなど得策でない。むしろ各地方事務所長の権限を強め、県庁の役わりを軽くする方が現実的である」と、非公式に意向を示していた。その後、中南信では西筑摩郡(現木曽郡)と諏訪郡町村長会が分県運動支持を決め、下伊那郡町村長会の役員会は初め静観説をとったが、関係四市七郡の世論が分県運動推進にかたまるとこれに同調した。そして方法論としては臨時県会において南北信の対立感情をあおらずに、全員協議会にかけて特別委員会または他の方法で分県実現の情勢に持ちこむことを計画した。ところが北信側県議十数人は二月七日、県庁復旧予算と分県論は別問題とする態度を決定し臨時県会は中止された。

 かわりに二月十日招集された県議会全員協議会では、復旧予算と分県で二日間もみあったまま、物別れとなった。二月十八日第二回全員協議会では、南信側が歩みより、分県調査委員会(一二人)と県庁舎復旧委員会(一二人)を結成することを決定し、翌十九日両委員会を開いた。分県調査委員会は、現状での不都合と分県の場合の利害得失について、県議会事務局長が責任をもって調査することを決めた。けれども南北信の地域対立はますます深まるなかで、当初静観していた下伊那郡も中南信に同調し、また、社会党県議も南北信に分かれる傾向をつよめてきた。分県調査委員会は、その後も検討を重ねたが三月十八日の会合で、賛成五人(南信)、反対一人(北信)、そのほかは退場で分県を可決するにいたった。

 いっぽう、これをみた長野市は三月十八日緊急市会を開いて分県反対を決議し、十九日朝には市民約五〇〇人が県議会議事堂に押しかけ入場する南信議員団をはばんでもみあい、消防自動車が出動したり警官一八人に守られて議員が入場する騒ぎとなった。この日の本会議は会議時間延長の議長提案に、北信側が牛歩戦術をとったため流会となった。しかし、南信側県議団三〇人は連記で「速ヤカニ現在ノ長野県ヲ分県シ、選挙区第一区第二区ヲ以テ北信県(仮称)ヲ設定シ、第三区第四区ヲ以テ南信県(仮称)ヲ設定スルノ件」に関する分県意見書の提出を翌二十日におこなおうとした。

 二十日長野市では、一戸一人ずつデモに出るよう指令がとび、市民約一〇〇〇人が議事堂前に集合、再び南信議員の入場を阻止した。そのため南信議員三〇人は「議場を松本に移せ」と知事に要求書をだし、松本で知事と交渉することを決めて、トラックで松本に引きあげた。以後、松本市役所を本部とする南信議員団と知事との話し合いとなり、知事は辞任を覚悟して、最後の妥結点を社会党県議団の南北合同にもとめ、妥協案の調停につとめた。


写真10 長野県庁正門 (県議会事務局所蔵)

 こうして、三月二十六日から二日間かけての南北信議員代表会議で、大要つぎの四点についての知事調停案に調印することになった。

①三月二十八日に県会を再開する。

②二十三年度予算案、二十二年度追加予算案の順に議案を審議し、三十一日までに議決終了する。

③分県に関する意見書議了のため、南北信双方六人で議事運営委員会を設け、議事運営をはかる。

④県庁舎復旧委員会を二十九日までに終了する。

 こうして、ようやく再開された県会では、県庁舎建築費一七八六万円・総坪数一四二一坪・収容人員八〇〇人の規模で、土地拡張のうえ、半焼建物は利用せず木造二階建一棟の新設案を採択可決するにいたった。

 分県問題は、調停案より一日おくれ、四月一日の本会議に上程されることになったが、この日もまた、武装警官一五〇人が出動して議事堂内外を固めるなかでの会議となった。この日北信の松橋県会議長が欠席のため、南信の小松副議長が議長役をつとめ、まず分県意見書朗読、つづいて意見書提案理由説明のあと討論、無記名投票に入った。結果は、分県に賛成二九・反対二六・白票三となった。これは地方自治法第一一六条の解釈から、可否いずれも法定数の「過半数」におよばないものであり、したがって分県意見書案は審議未了で終わりとなった。この松橋議長欠席の作戦は「コロンブス作戦」と当時呼ばれたもので、南北信同数の議員数により議長職をもつ北信側にたいし南信側か優勢であったことからといわれている。

 分県論の審議未了のあとも、中南信では分県の初志貫徹や移庁運動の動きもみられたが、五月七日南信県議団分県委員の会合で、以後、運動に幕をひくことになった。

 二十三年九月八日・九日の二日間、長野市で米第八軍主催の地方自治研究会が開かれた。これは主として分県問題の反省と事後への警告を意としたもので、米軍講師トーマス・H・ストラットン、セシル・G・ティルトンなど五人が講演し、聴講者は県会議員・県部課長・市町村長・市町村会議員・婦人会・青年会・PTA・公民館・各学校教員生徒代表など約一六〇〇人が参集した。このとき、ティルトンは「分県論などもってのほか、むしろ全国を三〇位の大府県制にすべきである」とし、分県論のような重大問題は正式の特別委員会を設置して、自主的に公聴会を開くべきである、などの見解を明らかにした。

 しかし、コロンブス作戦で否決となった分県問題は、その後も依然、南北県議団の感情的対立を包蔵して県政上機会あるごとに形となってあらわれ障害となった。たとえば、この翌年開かれた長野平和博覧会事件と辰野支庁設置問題である。長野平和博覧会については、二十三年十月の県会に博覧会経費負担が上程されたが「県会上程以前に各町村に事業内容をしらせて宣伝に努めているのは議会審議権を無視したもの」と南信側議員が反対をとなえ、ついに県会流会の騒ぎをみた。

 また、辰野支庁設置問題は、南信分県派勢力の分離策として十二月県会に提案されたが、その権限の解釈をめぐり、北信側は賛成、南信側は反対の立場で対立し、いったん条例委員会付議となり、同委員会は四対三で設置可決となったため、二十四年二月県会本会議に上程された。ところが、ここで再度条例委員会への返上動議がだされ、返上賛否の投票結果動議は小差で否決され、翌日引きつづいて設置可否の決選投票となった。その結果は賛成二六・反対一九・白票七となり、賛否いずれも出席議員の過半数に達せず、結局結論が出ないままの状態となってしまった。

 この空白状態をついて登場したのが、県行政特別調査委員会の設置であった。これは南北議員団の対立感情および分県論にピリオドを打つ動きとなってあらわれたもので、二十四年四月県会に上程され超党派的に衆議院議員の各選挙区から三人計一二人による構成で可決された(『信毎年鑑』)。