日本の敗戦から約二ヵ月後の昭和二十年(一九四五)十月、戦前から農民運動にたずさわってきた町田惣一郎や県農業会の小林喜治らに、信濃毎日新聞社の坂本令太郎・佐藤三治郎などがくわわって、長野自由懇話会が結成された。同会は民主主義の立場から新しい文化の創造などを目ざした。十二月には信濃教育会館講堂で、平野義太郎の「自由主義思想史」、風早八十二の「日本社会思想史」の講演会をおこなっている。しかし、二十年の暮れころから各政党の復活・組織化の動きが活発になってくると、会員の活動も様々な分野や政党の組織化へと分かれていった。
県段階でいちばん早く政党組織を立ちあげたのは社会党で、昭和二十年十一月、日本社会党県支部を結成した。十二月には日本共産党長野地方委員会が、二十一年二月には日本協同党長野県支部・日本自由党長野県支部が活動を開始した。同じく二月に予定していた日本進歩党の県支部の結成は、幹部の連合国総司令部の指令による公職追放がはっきりしてきたために延期に追いこまれた。二十一年九月、県の調査による現長野市域におけるおもな政治団体をみると、社会党が長野・上水内・埴科に、自由党が長野・更級・上高井に、立憲養正会が更級に支部を、共産党が長野・埴科に地区委員会を置いていた。その他には、長野市に平和党、埴科郡に皇国勤労農民党があった。
昭和二十年十月、連合国最高司令官マッカーサーの五大改革要求にもとづき、閣議は衆議院議員選挙制度に関し大選挙区制の採用、婦人への参政権付与などを決定した。十二月十七日の帝国議会において、二〇歳以上男女の選挙権、二五歳以上男女の被選挙権、大選挙区制、投票の三人連記制などを骨子とした衆議院議員選挙法が改正公布され、婦人参政権が実現した。戦後初の第二二回衆議院議員選挙は、二十一年四月十日に実施されることになった。
昭和二十年十月十五日付けの『信毎』は、「婦人参政権への反響」と題して、女性の声を報じている。長野郵便局の電話交換局に勤務している女性は「何の知識ももっていなかった私達は今選挙しろといわれても本当に困りますが、権利を与えられたからには棄権せず必ず投票します」とのべ、議員には道義の高揚をはかることができる人、食糧問題を解決できる人が望ましいとしていた。県の教学課長は、教科書もないなかで始まった中等学校の公民科において、「女子の上級生はすぐ卒業する者も多く、それに婦人に参政権が与えられた今日、差し当たり選挙などよい教材となるのではないか」と、婦人参政権や選挙の問題を授業で扱うことをすすめていた。
婦人参政権が実現し、選挙の取りくみが具体化するなかで、昭和二十年十二月、県は「総選挙ニ対処スベキ公民啓蒙運動ニ関スル件」を市町村と学校へ通知し、行政による啓蒙活動をはじめた(『戦後信州女性史』辻村輝雄)。「婦人の一票より芋一俵 参政権より配給券」などの声があるなかで、裁判所の関係者を招いて婦人自らが選挙への自覚を高める活動もみられた。選挙は全県一区の大選挙区制で定員は一四人とされ、投票は三人連記制であった。自由党一一人、協同党八人、社会党八入、共産党七人、諸派一六人、無所属二二人の計七二人が立候補したが、女性候補は長野市大門町に在住の安藤はつ一人だけであった。安藤は三四歳、五男二女の母で長野へ来てから日も浅く、所属の政党も日本平和党とあまり知られていなかった。
昭和二十一年四月十日実施の総選挙における県下の有権者は、一〇八万五三五〇人(内女性は六二万五〇八三人、五七・六パーセント)で、投票率は男性八〇・八パーセント、女性六七・一パーセント、平均七二・九パーセントであった。長野市内では一〇ヵ所の投票場が設けられ、午前七時の開場から投票者が押しよせる盛況ぶりで、城山の蔵春閣では託児所が設けられ、投票に訪れた母親が赤ん坊を預けられるようになっていた。また、上水内郡安茂里村役場では、八二歳の老人が新聞記者に字は大丈夫かと質問され、「人の名前位書けますよ」と答えるなど、戦前とはまったく異なった投票風景がみられた。女性の投票率が比較的高かった理由として、女性にとってはじめての選挙であったこと、児童・婦人会の投票参加への働きかけが活発であったこと、投票所が数多く設置されていて投票がしやすかったことなどがあげられていた。投票の結果、ただ一人の女性候補であった安藤はつが一三万三九四五票を獲得して、トップで当選した(表6)。『信毎』では「過渡期における県民の政治的関心がいかなるものであるかを最も強く反映したもの」であると報じ、女性だから女性へ投票するという風潮が色濃く出た結果となり、全国では、八三人の女性候補者のうち三九人が当選を果たしている。
長野県における党派別の当選者は、保守系では自由党二人、進歩党一人、協同党一人、革新系では社会党三人、共産党一人で、その他では諸派一人、無所属五人となっていた。なお、無所属の井出一太郎・小坂善太郎・小川一平は保守系に属していた。現長野市域における得票数は、北信を地盤とする小坂善太郎・田中重弥が多数を獲得し、女性候補の安藤はつ、全県的な組織にのる池上隆祐・米倉竜也らがつづいていた。新人が大量に進出したこと、女性議員や共産党議員が誕生したことなどが、戦後最初の衆議院議員選挙の大きな特徴であった。
戦後第二回目の衆議院議員選挙は、昭和二十二年四月に実施された。二十一年四月の総選挙以降、公職適否審査委員会が結成され、立候補者の資格審査をきびしくおこない戦犯追放が拡大したこと、選挙人名簿が整備され有権者数が大幅に増加したこと、選挙法が改正され大選挙区連記制から中選挙区単記制に変更になったこと、選挙の運営を、戦前の知事・市町村長から新たに設置された選挙管理委員会が担当することになったことなど、状況が大きく変化したためであった(『信毎年鑑』)。長野市は、上水内・更級・上高井郡とともに第一区となり、倉石忠雄・小坂善太郎・本藤恒松の三人が当選した(表7)。協同党から立候補した安藤はつは、中選挙区制の影響もあって六一八七票で落選した。第一区の投票率は女性が六三・四パーセント、男性八〇・三パーセントであった。その後、総選挙における現長野市域の女性の投票率は、郡市別にみると、二十四年一月では最高の埴科郡が七七・七パーセント、最低の長野市が七〇・八パーセント、二十七年十月ではやはり最高が埴科郡で八三・九パーセント、最低が上水内郡で七二・九パーセントと、徐々に上昇していった。
昭和二十二年四月の統一地方選挙で、県議会議員に女性候補として長野市で無所属から船坂千代、上水内郡で同じく無所属から岡本いさを、更級郡で共産党から窪田けさいが立候補したがいずれも落選した。市議会議員選挙では長野民主婦人同盟から小林実子が立候補したがやはり落選した。しかし、県全体では市議二人、町村議四七人、計四九人の女性議員が誕生し、議員数は全国第一位であった。
二十六年四月の第二回統一地方選挙をむかえ、県連合婦人会では、女性候補六人が全員落選した第一回県議選の反省に立って、神近市子や市川房枝の講演会などを積極的に開いて選挙対策に取りくんだ。その結果、長野市では県連婦会長の高野イシが九三〇七票を獲得して定員三人中第三位で、下伊那郡では同副会長の丸山菊江が一万二〇七票を獲得して、定員五人中第二位でそれぞれ当選した。長野県最初の女性県議の誕生であった。郡市別にみた市町村議会議員への女性の立候補者数は、長野市一人、上水内郡七人、更級郡二人、埴科郡二人、上高井郡三人であった。長野市においては藤井志づが七〇八票を獲得して当選し、初めての女性市議となっている。